冬温室の朝
祭ことこ
冬温室の朝
冬温室へようこそ。われわれはあなたを歓迎します。
寒いでしょうから中に入ってください、と言いたいところですが、冬温室には〈冬温室の主〉とその四人の従者しか入ることができないのです。だから、このガラスの扉を開けるわけにはいかず、あなたにはガラスの扉の向こう側でこのおはなしを聞いてもらうことになるでしょう。もし、あなたが冬温室に入る資格を持つならば、ガラスの扉が開かれます。なお、この扉には取っ手がありません。見ての通り。自動ドアでもありません。見ての通り。なんなら、われわれに開けることもできません。
顔が真っ赤ですね。相当寒いのでしょう。外の気温はマイナス一五度だと言われています。ほんとうにそうなら教えてほしいのですが、そちらの声はこちらには届きません。一メートルのガラスがありますからね。こちらの声はスピーカーで届けております。叩いても無駄ですよ。もう少しの間だけ冷静にこのはなしを聞いて下さい。
あなたがここに辿り着いたということは、〈冬温室の主〉があなたを呼んだ、ということですから。
冬温室が何なのかを理解しなければ、ここに入りたいかもわかりませんよね。冬温室は、一辺が一〇〇メートルの立方体を、五〇メートルだけ地面に埋めたかたちをしています。つまり、高さが五〇メートル、幅と奥行きが一〇〇メートルの直方体、ということです。ガラスの厚さは、すべて一メートルです。しかし、これは冬温室の本体ではありません。冬温室とは、その中にぴったり収まっている直径一〇〇メートルの半球のことなのです。余った空間は、それぞれ四人の従者が使っております。誰がどの部屋を使うかは、自ずと決まるものでありますが、われわれは〈冬温室の主〉の前では等価なので、区別する必要はない、というものです。
あなたにも一部は見えるかもしれませんが、冬温室の中ではあらゆる花々が季節を忘れて咲き誇っております。極楽鳥花が羽を広げ、ブーゲンビリアが生き生きと花開き、サボテンがその身体を伸ばしております。ソメイヨシノが花弁を散らし、水面にはスイレンが横たわり、パキラが緑を添えています。ただし、冬に咲くものはここにはありません。ここは冬温室、冬以外のすべてなのですから。しかし、これは冬温室のすべてではありません。冬温室のすべてとは、〈冬温室の主〉のことです。
冬温室の中心には、ガラスでできたひとつのベンチが置いてあります。その上には、痛くないように白いクッションが置いてあります。白いクッションの上に、〈冬温室の主〉が横たわっております。〈冬温室の主〉は――何と申し上げればよいのでしょうか。御髪は冬温室の植物たちのうちのどれかの色彩をまとっております。つまり、ピンク、オレンジ、イエロー、パープル、グリーン、それ以外にも様々な色彩、地面につくほど長い御髪の、その色は日によって変化いたします。そして、なにものも拒絶しない白色の、シルクのネグリジェを身につけております。瞳の色は見たことがありません。なぜなら〈冬温室の主〉は眠っており、眠り続けなければならないからです。
われわれは〈冬温室の主〉の忠実な従者です。
われわれは、〈冬温室の主〉の世話をして暮らしております。具体的には、冬温室のあらゆる植物に調和をもたらし、〈冬温室の主〉の御身体を清潔に保ち、〈冬温室の主〉の涙から生じるガラスのバラを摘み、暮らすのです。そう、〈冬温室の主〉は時折御涙を流されます。そうすると、地面からみるみるうちにガラスのバラが伸びてくるのです。もしそれが〈冬温室の主〉の頬を刺し、血が流れ、その痛みで目を覚ましてしまったら――恐ろしいことですね。だから、われわれのうちのひとりがかならず〈冬温室の主〉の御側でその御尊顔を見張ることになっているのです。これらの規則は、われわれに自然に体得されます。
われわれ、〈冬温室の主〉の忠実な従者は、忠実な従者である限り、睡眠も、食事も、必要がありません。だから、休むためのあの部屋たちも、ほんとうは必要がないのですが、おそらくは、〈冬温室の主〉の御温情により、部屋があるのです。
〈冬温室の主〉が目覚めると何が起こるのか?
〈冬温室の主〉は、眠り続けることで、この冬温室の内部をあたたかく、快適で、過ごしやすい環境にしてくださっています。冬以外のすべてが存在するこの空間で、われわれは〈冬温室の主〉の世話をして暮らすだけでよいのです。そのかわりに、冬温室の外側の世界は、永遠の冬に包まれることになった、と言われています。〈冬温室の主〉が目覚めてしまったら、この温室は失われ、このあたたかさは失われ、世界に分配され、この世界はかろうじて一年の四分の一が過ごしやすい気候となることでしょう。
そう、あなたが今、寒い冬の中で暮らしているのは、〈冬温室の主〉が永遠の眠りについていらっしゃるからなのです。われわれが目覚めないように世話を続けているから、温室の外側の世界は、マイナス一五度となっております。そのような環境にひとりで立っているのは、さぞ辛いことだと思われます。でもあなたはこの温室にたどり着いたのです。冬温室に。
もうすぐその扉が開かれます。そうしたら、われわれのうちのひとりを殺してください。そうすれば、あなたは〈冬温室の主〉の忠実な従者となります。
われわれもかつては〈冬温室の主〉を目覚めさせるために、温室に入ろうとしたものでした。しかし、冬温室に入った瞬間に理解したのです。〈冬温室の主〉が目覚めなければ、われわれは永遠に、ここで暮らすことができるのだと。陽光はこの温室にのみ射します。ぬくもりはこの温室にのみあります。〈冬温室の主〉はずっと眠っております。
あなたはきっと、忠実な従者のひとりとなるでしょう。あなたが今、どう思っているかは、さておきとして。
言ったでしょう。われわれは〈冬温室の主〉の前では等価です。
冬温室の朝 祭ことこ @matsuri269
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