第16話 決意と願い
「ヘレン? どうしたの? どこに行くの?」
体に掛かっていた毛布からのそのそと這い出て、ヘレンはまだ覚束ない足取りでゆっくりと診察台から下りる。
「だ、駄目よヘレン。大怪我したばっかりなんだよ? ちゃんと寝てなきゃ」
「ふむ……少なくとも五日はまともに動けないほどの怪我だったはずなんだけど。いやはや、つくづく犬畜生にしておくには惜しいくらいのタフガイだね」
「そ、そんな呑気なことを言ってる場合じゃ」
慌てふためくピュラを、ミグロッサが「まぁまぁ」と諭す。
「走り回ったりしない限りは大丈夫さ。それにどうやら、ヘレンくんは私たちに何か伝えたいことがあるみたいだよ?」
ミグロッサの言う通り、診察台を降りたヘレンは一度くるりとピュラの方を振り返る。
それから再びのそのそと歩き出すと、部屋の隅に立っていたデュークの足元で座り込んだ。
「ワフッ」
見下ろすデュークに向かって、ヘレンが一声吠える。満月のような金色の瞳が何事かを訴えかけてくるのが、デュークにもうっすらと感じ取れた。
デュークはおもむろにしゃがみ込み、ヘレンの大きな頭をわしゃわしゃと撫でる。
「うん。良かったね」
ヘレンは心地良さそうに目を細めると、お返しのつもりかデュークの腕をぺろぺろと舐め回した。
「そ、そんな……ヘレンが、私たち家族以外に、こんなに懐くなんて……」
じゃれつくヘレンの傍で膝立ちになったピュラが、おずおずとヘレンに問い掛ける。
「……本当、なの? ヘレン?」
甘噛みをしていたデュークの袖口から口を離し、ヘレンが緩慢に振り返る。
膝立ちになるピュラの真正面で律儀におすわりの体勢をすると、ヘレンはそれからじーっとピュラの空色の目を見据え、また「ワフッ」と吠えた。
デュークには、ヘレンのその声にどんな意味が込められているのかはわからなかったが。
「そう……本当、なんだね」
少なくともピュラには、ヘレンの伝えたいことがしっかりと伝わったようだった。
座り込むヘレンを何度か優しく撫でたあと、ピュラはようやくすべての事情を呑み込めた様子で、一つ大きく頷く。
「デュークさん」
それから何やら伏し目がちにそう呟くと、次には何を思ったのか、壊れた機械人間のようなフラフラとした動きで立ち上がり。
「……デュークさんっ」
「えっ?」
次には出し抜けにデュークの懐へと飛び込んできた。
突然のことで何の心構えもしていなかったデュークは、思わずたたらを踏んで後退する。
踏み止まろうと奮闘するも、踏みつけた床面に落ちていた何かの書類に足を滑らせ、結局は倒れ掛かってきたピュラもろとも、デュークは尻餅をついてしまった。
「おいおい。大丈夫かい、お二人さん?」
診療所内に鈍い音が響き、ガラス瓶や鉄製の医療器具が微かに音を立てる。
ミグロッサが苦笑いを浮かべるが、掃除をしたのではなかったのか、という視線をデュークが向けたときには、すでに素知らぬ顔で新しいキャンディーの包みを開けていた。
「ピュラ、大丈夫?」
デュークの問いには答えず、ピュラは飛び込んだ胸元に顔を押し付けて嗚咽を漏らしている。
「あ、ああ、あああ、ああああぁ……!」
訳も分からないまま泣きつかれて、今度はデュークが困惑する番だった。
何と声を掛ければいいのかわからない。困り果てたデュークができることと言えば、せいぜい木のようにじっと動かず、少女の体を支えてやることくらいだった。
「ごめん、なさいっ……デュークさんっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ!」
涙声を震わせて、ピュラは続けざまに謝罪の言葉を口にする。
「わた、私……今まで散々、自分勝手にあなたのことを疑って! 〈考古学者〉だからって――ただそれだけで、それダけのことで! 勝手に失望して、軽蔑して、嫌悪して、憎んで! デュークさん自身のことなんか、なんにも知らないくせに!」
「……君は間違ってないよ」
「いいえ、いいえ! 間違いだらケです! デュークさんはずっと、私たちのことを本当に助けようとしてくれていたんでしょう? こんな恩知らずで、わがままで、何も知らない馬鹿な私にいいように言われて、それでもあなたはずっと、ずっと!」
「いい、ピュラ。もういいから」
「よぐないでず!」
どうにかなだめすかそうとするデュークの説得も空しく、ピュラの懺悔は一向に終わりそうにない。
デュークが考えている以上に、ピュラは自らの誤解を悔いているようだった。
家を焼かれ、家族とは散り散りになり、あまつさえ人以下の身分にまで貶められる。
まだ年端も行かない少女が背負うには、この運命はあまりにも残酷だ。
心が荒み、摩耗し、常に何かを怯え疑うようになったとしても無理はない。
まして相手が、そんな残酷な運命を背負わせた元凶である〈考古学者〉だというならなおさらだろう。
辛かったに違いない。
寂しかったに決まっている。
こんな悲劇さえなかったら、彼女はきっと人一倍素直で、明るくて、そして優しい女の子なのだろう。
許しを請うピュラの、その鮮やかな赤髪にそっと手を乗せて、デュークはしみじみとそんなことを思った。
そうして、短い溜息とともに最後の手段にうってでる。
「ピュラ、そこまで」
「みゅ⁉」
デュークは泣きじゃくるピュラの両頬に両手をあてがい、顔を上げさせる。
驚いて丸くなるピュラの目をデュークが真っ直ぐに見つめると、あちこちに視点がぶれていた彼女の空色の瞳はやがて、デュークと見つめ合う格好で制止した。
「落ち着いた?」
「は……はい」
ピュラが頷く。
傍らのミグロッサが「ヒュウ」と口笛を吹くのは気にしないことにして、デュークは言った。
「うん。なら、この話はもうおしまい」
「は、はい。本当に、ごめんなさい……あの、それから」
最後に一度だけ目を伏せて、次にはくしゃくしゃになった顔を申し訳程度に整えると。
少女はそこで初めて、心からのものらしい笑みをデュークに向けた。
「ありがとう、デュークさん」
陽だまりに咲く野花みたいに、飾り気のない可憐さを宿したピュラの笑顔。
デュークは「どういたしまして」の言葉も忘れて、思わずしばし見入ってしまう。
とても可愛らしい女の子だったんだなと、デュークはそこでようやく気が付いた。
「さて、これからどうする? ピュラちゃん」
話が一段落ついたところを見計らって、ミグロッサが口を開く。
「ウチで一通りのケアを受ければ、一週間もあれば君の体調も完全回復するだろう。ヘレンくんの方はもう少し時間が欲しいけど、それでも一か月くらいさ」
「ほ、本当ですか?」
「ああ。だけど、私は怪我や病気は治せても、君たちを今すぐ無事に本国にご案内することはできないんだ」
「あ……そう、ですよね」
途端に表情を曇らせてしまうピュラ。
いたたまれなくなったデュークは、ダメ元でミグロッサに提案する。
「俺となら、一緒に【ポータル】を通れないか?」
「それはつまり、ピュラちゃんたちを君の『持ち物』として通行する、ってことかい?」
ミグロッサはやれやれといった顔で「無理」と一蹴した。
「来るときはそうしたはずだ」
「ばか。いくら人扱いされないからって、そうポンポン通れるわけがない。コネだよ、コネ。【ポータル】側に特権を与えられた一部の商人か、さもなければ【ポータル】管理局の上層部に顔の利く金持ち連中か。他の物品はともかく、こと奴隷に関してだけ言えばそういうコネを持ってるわけでもない限り、【ポータル】間での運送はできないのさ」
ミグロッサが淡々と厳しい現実を述べていくのに平行して、ピュラの顔もますます暗くなってしまう。
そんな少女の様子に気付いたのか。
「あー……うん、なんだ。色々厳しいことをいったけど、一つ、奴隷の君でもポータルを通れる方法がないこともないかな」
きまり悪そうにキャンディーを噛み砕くと、取り繕うようにミグロッサが言う。
「あるンですかっ? 何か、方法が!」
「まぁ、荒技な上にかなり時間はかかるだろうけどね。話自体は簡単さ」
身を乗り出すピュラに、ミグロッサはまっすぐ指を差した。
「ピュラちゃん、君が開拓者になればいい」
ピュラがゴクリと唾を飲み込む。
「わ、私が、開拓者に?」
「ああ。君は【局】所属の開拓者として、ノアで実績を積むんだ。もちろん開拓者の仕事は楽ではないし、正直かなり危険だろう。それでも上級の開拓者にさえなってしまえば、正式に【局】からライセンスを発行して貰えるはずだよ。そこのデュークみたいにね。そうすれば【ポータル】だって合法的に通りたい放題さ」
振り返るピュラに、デュークもうんうんと頷いて見せた。
「さて。どうする、ピュラちゃん?」
再度、ミグロッサが問うた。
ピュラはしばらくの間考え込む素振りを見せる。
けれど、「開拓者」という新たな道を示されたその瞬間から、既にそうしようと決めていたのだろう。
「…………えて、下さい」
デュークの胸元を掴む両手に力を込めて、ピュラが自らの願いを口にした。
「私は、お父さんに、お母さんに……大好きな家族に、もう一度会いたい」
「うん」
「大好きな家族の下に帰りたい。もう一度、みんなで一緒に笑いたいんです。それまで私はもう二度と……生きることを諦めたクない!」
「うん」
「だから……お願いです、デュークさん」
初めて出会った路地裏で。
仄暗い下層の大広間で。
これまで幾度となく向けられてきたピュラのその祈るような濡れ顔が、いま再びデュークと相対する。
「私に――この未開拓地での生き延び方を教えて下さい!」
ピュラの体が、寒さに耐える子猫のように小刻みに震える。
また断られるかもしれない。
また見捨てられるかもしれない。
赤髪の少女のそんな不安や恐怖が、彼女の震える手を通して自分の胸の中に伝わってくるようだった。
デュークは、いつかの路地裏ではついぞ抱くことができなかった少女の肩を、そっと抱き寄せる。
「うん」
一瞬ピクリと体を跳ねさせるピュラの髪を優しくすいて、
「わかった」
短い言葉で、しかし今度こそははっきりと、デュークは力強く頷いた。
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