第11話 理由

 オークション会場を後にして、中層第六区の外れ、小高い団地の端にポツンと佇むとあるレンガ造りのビルに帰りつくまで、ピュラとデュークは一言も言葉を交わさなかった。


 ボロボロの布服の上からデュークの着ていたコートをすっぽりと羽織り、彼の背におぶさりながら顔を上げたピュラは、久しく目にしていなかった天井の無い空をぼんやりと見回す。


 いつの間にか、空には星が瞬き始めている。


 大きく息を吸ってみると、下層はもちろん、蒸気漂う中層の下町のものとも違う澄んだ夜の冷たい空気が、肺一杯に広がった。


「どうぞ」


 3階建ての古いレンガビルの最上階。そこに一つだけあった扉の鍵を開けると、緑髪の少年はピュラを床に下ろして部屋の中に招き入れた。


(……小さな博物館みたい)


 部屋に入ったピュラが抱いた第一印象だった。


 簡素なつくりのベッドやテーブル、ソファなど一般的な家具は揃っているようだが、それらを差し置いて部屋の大部分を占拠していたのは、大小様々な木製の棚だ。


(なに、ここ? 本がこんなに沢山。それに……あれは、石?)


 色褪せたカーペットを踏みしめて、ピュラはおずおずと部屋の中へと進み入る。


 部屋の壁という壁に備え付けられた棚は、その三分の一ほどが何冊もの本で埋め尽くされている。


 そして残りの部分には、中に綿を詰め込んだ手のひら大の容器が整然と並べられている。その一つ一つに、色も大きさも形も様々な石のような物体が収められていた。


(ここ、何の部屋なんだろう……?)


 疑問を感じて、ピュラは振り返る。


 その先では、部屋の扉を閉めたデュークがもぞもぞと上着を脱ぎ、近くのイスの背もたれに掛けていた。


 どうやら、この寂れた骨董屋みたいな部屋こそが、彼のねぐららしかった。


「少し待ってて」


 そう言って部屋の奥に消えるデュークの背中を目で追いつつ、ピュラは漫然と考える。


(……私、買われたんだよね。あの人に)


 つまりはこの部屋が、これから死ぬまで自分が奴隷として暮らすことになる場所というわけだ。


 こんな紙と石ころだらけの小さな世界の中で、この先六十年だか七十年だかの一生を過ごす。ピュラは考えるだけで気が遠くなりそうだった。


「お待たせ」


 やがて、両手に小さなカップを手にしたデュークが部屋の奥から戻って来る。ここからは見えないが、どうやら奥には台所もあるようだ。


「どうぞ」


 客が来ることは滅多に無いんだろう、と一目でわかるぎこちない手付きで、デュークがテーブルに二人分のカップを置く。


 カップの中には、ほんのりと柑橘類の匂いがするお茶が注がれていた。


「……どういうつもりなんですか?」


 差し出されたそれには一切手を触れず、ピュラは単刀直入に切り出した。


「……? ごめん、飲み物はこれぐらいしか無くて」

「お茶のことはどうでもいいんです。私が訊いているのは、どうしてあなたが私を買ったのかということです。それも、二億オボロイもの大金で」


 むき出しの敵意を隠そうともせず、ピュラは噛み付いた。


「奴隷が欲しかったんですか? なら私みたいなひ弱な娘じゃなくても、もっと体が頑丈で、力持ちで、色々とお役に立ちそうな人が他にいくらでもいるじゃないですか」

「いや、そうじゃなくて……」

「それとも……が欲しかったんですか? デュークさんだって、その……年頃の男性な訳ですし。でも、それならなおさら私じゃなくてもいいはずです」

「そういうわけでもないよ」

「じゃあ、一体どうしてなんですか?」


 ピュラは詰め寄り、けれど、本当は薄々わかっていた。


 この少年がどうして自分を買ったのかわかった上で、あえて問いただしているのだ。


 その理由が、今のピュラにとっては業腹以外の何でもなかったからだ。


「君を、助けるためだった」

「だったら!」


 目を吊り上げて、ピュラはバンッとテーブルを叩く。


「どうせ助けるんだったら、どうしてあの時! 最初に出会ったあの時に、助けてクれなかったんですか! そうすれば、ヘレンだってきっと……あんな酷い目には合わなかった!」

「ピュラ、聞いて」

「聞きません!」


 怒りに燃えながらも虚ろなままの瞳で、ピュラはデュークを睨みつけた。


「……ああ、そっか」


 次には氷柱のように冷たく棘のある口調で、ポツリと呟く。


「あなた……〈考古学者〉でしたもんね?」


 ピュラはデュークの首元にある六角レンズのゴーグルをちらりと見やり、精々嫌味ったらしく捲し立てる。


「『君を助けるため』なんて……そんなのは全部嘘なんですよね? 本当はこうして私があなたの手の平の上で踊らされているのを見て、心の底では楽しんでいるんですよね?」

「そんなことは……」

「いいえ。そうです。きっとそうなんです。裏路地で声を掛けてくれたときも、広場で私と目を合わせてくれたときも、オークションで私を買うと言ってくれたときも。あなたはその無表情の裏で、内心私を嘲笑っていたに違いないんです」

「……理由がないよ」

「はっ、関係ないでしょう。なにしろ」


 ふらりと席を立ったピュラは、引きつった笑みでデュークを見下ろした。


「自分の主張を押し通すためなら、他人の迷惑なんて関係ない。自分の主義を貫くためなら、幾つの街で何人の人が傷付こうが関係ない。〈考古学者〉なんて、所詮はそんな風に暴れ回って自分勝手に生きたいだけの野蛮人。━━ロクでもない、なんですから!」

「ピュラ、そこまで」

「みゅ⁉」


 ピュラは最初、自分が何をされたのかわからなかった。


 二度、三度と瞬きをする内に、やがて自分の両頬に仄かな熱が伝わっているのを感じる。


 そこでようやく、ピュラはデュークの両手が自分の両頬を包んでいるのだと気が付いた。


 デュークの、幽寂な樹海のような深緑の瞳が、お互いの息がかかるほどの距離でじっとこちらを見据えていた。


 ピュラは自分が今にもその瞳に吸い込まれ、本当に深い森の中に迷い込んでしまうのではないかと、そんな錯覚さえおぼえてしまう。


「……落ち着いた?」


 言われて、ピュラはハッと我に返ると、すぐさまデュークの手を振り払いあとずさった。


「ピュラ。俺は、君を奴隷にするつもりはないよ」

「……どういうことですか?」

「ここにずっといろ、とは言わない。俺を……〈考古学者〉を恨んでいるって言うなら、それでもいい。ただ、もう少しだけ、君はここにいた方がいい」


 デュークが買い取ったとはいえ、ピュラの肩書きが奴隷であることは今も変わらない。


 そして奴隷というのは、常にきちんと誰かしら所有者が存在するものだ。


 それはつまり、奴隷は持ち主がしっかりと管理するのが常識であり、例えば放置したり逃げ出されたりした奴隷を他の誰かに奪われても、けして文句は言えないということを意味する。


 奴隷を買う者たちの間には、そういう暗黙のルールがあった。


「俺も、聞きかじった程度だけど」


 最後にそう付け加えて、デュークが奴隷の扱いに関する説明を終える。


「そんなの」


 信じられるわけないじゃないですか━━ピュラはそう吐き捨てようとして、やめた。


 たしかに、〈考古学者〉は野蛮な人たちだ。彼の言うことが本当なら、むしろ逃げ出して別の誰かに捕まるか、そのまま路傍の塵と消えた方がまだマシだろう。


 今はこんな大人しいことを言っているが、このままここにいたって、後々この少年に何をされるかわかったものではない。


 彼の言う「暗黙のルール」とやらも、きっと自分がここから逃げ出せないように、そんな嘘で脅しているだけに違いないのだ。


(でも)


 我ながら驚くほど投げやりだと思いつつも、そこでピュラは糸の切れたマリオネットのように、全身からスッと力を抜いた。


(だったら、どうだっていうんだろう?)


 馬鹿みたいだ。

 自分は、何をこんなに必死になっているんだろう。


 たとえ彼が野蛮なテロリストであろうとそうでなかろうと、彼の言葉が真でも偽でも、もはや自分には関係ないじゃないか。


 彼といることで、たとえば何かを失うような羽目になるとしても、もはやどうでもいいことじゃないか。


(だって……私にはもう、失えるものなんて何も無いんだから)


 溜まっていた疲れが急に表に出てきたように感じて、ピュラはもうこれ以上デュークと話をするのも面倒になっていた。


「……もう、いいです。好きにしてください」


 無感情に吐き捨てると、ピュラは部屋の隅にあった棚と棚のすき間に華奢な体を押し入れて座り込む。


 それから顔を隠すようにして、羽織っていたロングコートを頭からすっぽりと被った。


「……何してるの?」

「寝るんです。疲れたので」

「……風邪、引くよ?」

「ご心配なく。こう見えて、昔から病気には強い方ですから」

「あ、うん」


 納得したのかしていないのか。ピュラの答えに、デュークは曖昧に頷くだけだった。


「ああ」


 しかし、やがてハタと何かを思い出したようにそう呟くと、デュークは手に持っていたカップを置いて口を開く。


「そういえば、君の」

「おやすみなさい」


 ピュラは、言外に「もう放っておいて欲しい」と訴えた。


 何か言い掛けていたデュークの口は閉ざされる。


 今夜はこれ以上の会話は難しいと悟ったのだろう。すっかり冷めきってしまったお茶に目をやって、少年が一つ溜息を吐く姿が、暗転していくピュラの視界の中で見て取れた。

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