第10話 二億の買い物
「四千二百!」
「四千二百です! さぁ、お次はどうだ!」
とうとう、ピュラの競売が始まった。客席がざわつき、五、六人ほどが競い合ってほとんど同時に手を挙げる。
(ああ……もう、終わりだ)
全身からゆっくりと力が抜けていき、とうに枯れはてたと思っていた涙で、ピュラの視界はじんわりと歪んでいく。
(どうして、私がこんな……私、何も悪いこと、してないのに)
ピュラの脳裏に走馬灯のように、過去の映像が浮かび上がる。
(家を失って、大好きな家族とも離れ離れになって……最後には自由も、唯一の心の支えだった、ヘレンさえ。これが……こんなものが、私の人生なの?)
零れ落ちた涙で足元にできた小さな水たまりに、惨めな自分の姿が映る。
(そんなの、あんまりだよ。神様)
悪い夢なら醒めてほしい。
ピュラのそんな淡い期待すら踏みにじるかのように、客席ではのべつ幕なしに激論が交わされていく。
「五千七百!」
「はい! 五千七百、五千七百でございます!」
身が切り刻まれていくような思いで、それでも何もできずにそれを聞いていたピュラは。
(――いや、そうか)
プツン、と。
自分の中で、何かが音を立てて断ち切れるのを感じた。
「よし、だったらこっちは六千だ!」
「おお、これは太っ腹! 六千です! 皆さま、六千万オボロイが出ました!」
(私には、もう、「人である権利」さえ……ないんだ)
「まだ上がる! 六千五百だぁ! これは決まりでしょうか!?」
観客たちによって、一つ、また一つと彼女に付けられる金額が上がっていくのにつれて。
(もう、いいか)
ピュラの中に僅かに残されていた感情も一つ、また一つと消え失せていく。
「フッ、悪いな諸君。今夜の目玉はこの私のものだ。一億だ! 私はソレに一億を出そうではないか!」
一際に恰幅のいい貴族風の男の宣言に、驚愕のどよめきが細波のように広がっていく。
「な、な、なんとぉ! 一億! 二十七番のお客様から一億です! さぁ、皆さんどうですか? これ以上! これ以上出せる、という方はいらっしゃいませんか?」
「い、一億か……いくら上玉でも、さすがに奴隷一人にそこまでは」
「よほどあのイロモノが欲しいと見える。やはり貴族の趣味というのはわからんものだな」
むしろ、今までよくもっていたと言うべきか。
(もう……考えるの、疲れちゃった)
ついに金額が一億の大台に乗ったころには、ピュラの心は完全に挫けてしまっていた。
「さぁ、現在の額は一億。もう、これ以上出せるという方はいらっしゃいませんか?」
誰一人として、手を挙げる者はいない。一億の宣言をした男が、得意げに口髭を撫でる。
これはもう決まりだろう――誰がともなく呟いたそんな言葉に、会場中の誰もが頷いた。
「よろしいですね? 本当に、もういらっしゃいませんね?」
誰もが固唾を呑んで見守るなか、いよいよ最後の通告がなされ。
「それでは! 少女奴隷のピュラ、二十七番様の一億オボロイで!」
さながら罪人の首を跳ね飛ばさんとするギロチンの刃のように、司会役の持つ木槌が勢いよく振り下ろされる。
数秒後。あれが卓に叩きつけられたそのとき、人としての自分は終わる。
(ああ、最後にせめて……)
そんな状況をひどく他人事のように感じつつ、ピュラは静かにその瞬間を待った。
(甘い物が、食べたかったなぁ)
ぼんやりと思い浮かんだささやかな望みを、頬を伝う最後の涙で押し流して、ピュラはゆっくりと目を瞑り。
「━━二億」
次の瞬間、静まり返るオークション会場にこだました、その抑揚の乏しい声に再び目を開けた。
(なんだ……他にもまだ、そんな大金を出す人が)
そう考えるのも束の間。
その新たな参戦者の落ち着いた声色を、なんだかつい最近にも聞いたような気がして、ピュラは声の主を探して虚ろな瞳を彷徨わせる。
進行役の男も、奴隷商人も、観客たちも、会場にいた誰もが唖然とした表情を浮かべる中。
そんな彼らの様子をまるで気にしていないというような、けろっとした顔をして。
そこに、少年は立っていた。
(……な、なんで)
所々にクセのついた深緑色の髪に、感情の読み取り辛い半開きの目。年齢はピュラより少し上、十代の後半といったところだろう。
けれど声や顔立ちの若々しさとは反対に、身にまとう雰囲気はさながら森の賢者か年老いたフクロウのように泰然自若としたものだ。
煌びやかなオークション会場には不釣り合いなボロボロの外套の下には、きっと今も、あの特徴的な六角レンズのゴーグルが揺れているに違いない。
(な、なんで……あの人が……?)
果たして、突如オークション会場に現れたのは、ピュラが下層の裏路地で出会ったあの深緑の眼の少年━━デュークだった。
「い、今、なんと?」
進行役の男がやっとの思いで口を開くと、デュークはまるで馴染みの酒場の扉でもくぐるかのような足取りで、ツカツカとステージの前まで歩いてくる。
その手には、一抱えほどの大きさはある長方形のケースが握られていた。
「その女の子を、二億で売って欲しい」
淡々としたデュークの申し出に、観客席がにわかに騒々しさを取り戻す。
「に、二億だと!? いくら『デミクレイ』の少女とはいえ、たかが奴隷にそこまで?」
「いやいや、それよりもあの少年は何者なんだ? あの泥臭い格好、見たところ開拓者か何かのようだが」
「あんなどこの馬の骨とも知らん薄汚い小僧に、そんな大金が出せる訳があるまい!」
貴族までもが出入りする、いわば上流階級の裏の社交場とも言うべきこのオークションに、突如紛れ込んだみすぼらしい少年。
会場中から彼に疑惑や嘲りの視線が注がれるのは、だから、無理からぬことではあるだろう。
が、それもほんの少しの間。
少年が持参したケースをおもむろに開いて、中に詰め込まれていた大量の紙幣の束を進行役の男に見せるまでのことだった。
「これで、いいかな?」
口を挟むものは、もはや会場のどこからも現れなかった。
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