第9話 ヒューマンオークション

(あと……五人)


 暗く冷たい檻の中で、少女は無機質な手枷がはめられた自分の右手をおもむろに開く。


 細い指は痩せてさらに細くなり、まるで枯れ木のようだ。少女はそれが本当に自分の指なのかどうかさえ、段々とわからなくなっていた。


 少女は一度、ゆっくりと目を閉じる。


 目を開けていたところで、この暗闇の中で見えるのは自分の骨ばった両手ぐらいのものだし、そうしていた方が楽だったからだ。


(……寒い)


 檻の中は、不気味なほどに静かだった。


 つい数十分前までは、ここにももう少しだけ人がいた。たしか自分を含めて15人と、ここに入れられる前にそう聞いた。


 それでもだいぶ静かだったけれど、誰かのすすり泣く声や、枷に付いた鎖が擦れる音が、そのときはまだ途切れ途切れに聞こえていた。


 その全てが、今は全く聞こえない。


 暗く冷たく、そして静かな檻の中は、さながらあらゆる光の届かない深海のように、異様な沈黙に包まれていた。


「十番! お前の番だ」


 突如その沈黙を破ったのは、荒々しく檻の扉が開かれる音と、こちらに向けて無遠慮に懐中電灯の光を向ける、奴隷商の男の急かすような銅鑼どら声だった。


 光に照らされた一人の若い男が奴隷商に連れていかれ、再び扉が固く閉ざされる。


「うぅ……い、嫌だ……死にたくねぇ、死にたく、ねぇよぉ……!」


 悲痛な泣き声をあげて立ち止まってしまう若い男の背中を、奴隷商の男がどついて無理矢理に歩かせる。


(あと、四人……あと四人が終わったら、その次は……)


 再び静けさを取り戻した暗闇の中、鉄の檻の隅でうずくまる赤髪の少女――ピュラは生気のない目で、右手の親指をゆっくりと折り曲げた。


 ※ ※ ※


「━━さてと、待たせたなお嬢ちゃん。いよいよお前の番だ」


 奴隷商の男に呼ばれて、ピュラはピクリと小さく肩を震わせた。


「出ろ」


 ドスの利いた男の声に、ピュラは上手く力の入らない体をどうにか立ち上がらせると、おぼつかない足取りで檻の外へと一歩を踏み出す。


 途端に、ピュラは自分の足が思い出したように震え始めるのを感じた。


(私……これから本当に、売られちゃうの?)


 震えは瞬く間に全身に伝わり、遂にはピュラはその場を一歩も動けなくなってしまう。


「おい、何やってる! 立ち止まってないでさっさと歩け!」

「あ、う……」

「今さらビビったってな、もう遅いんだよ。これからお前はオークション会場のステージに立たされる。何十人もの客の前でだ。そこで競売にかけられて、売られるのさ」


 カチカチと歯を鳴らし、悲鳴にも似た嗚咽を漏らすピュラの反応を楽しむかのように、奴隷商の男がニヤリと冷酷な笑みを浮かべる。


「いったい幾らの値が付くのか、今から楽しみだなぁ? 少女の奴隷は色々な使い道があるってんで、いつもバカみたいに高く売れるんだ。それに加えて、お前はクソ生意気だが見てくれだけは一級品だからな。ひょっとしたら億越えもあるかも知れねぇ」


 ピュラの顔がますます青ざめるのを横目に、男は心底愉快そうに下卑た笑い声をあげる。


 次にはじれったいとばかりに、ピュラの手枷についた鎖を掴んでひっぱった。


「きゃっ!」

「さぁ来い! 今日ラストのオークション、精々盛り上げてくれや、お嬢ちゃん!」


 無造作に鎖を引っ張られ、ピュラは何度も何度も転びそうになりながら、何やら暗くてジメジメした石の廊下をひたすら歩かされる。


 素足に石の床の刺すような冷気が伝わり、歩くたびに足の裏がひりひりと千切れそうに痛んだ。


 そうして長い廊下を歩いていくと、やがて上階への階段が現れる。


 階段の上には周囲の殺風景な石廊下には似合わない、あちこちに派手な装飾が施された赤い扉があった。


(あの先が……)


 ピュラが階段を上りきると、赤い扉が開かれる。


 途端に割れんばかりの歓声と眩い光が容赦なく飛び込んできて、ピュラは思わず耳を塞いで目を瞑った。


「さて、お集まりの紳士淑女の皆さま! 大変長らくお待たせ致しました! 長かった今宵のオークションもいよいよ大詰め、クライマックスでございます!」


 おそるおそる目を開けると、そこはもうオークション会場のステージのすぐ裏手らしかった。


 会場に集まっている観客に向けたものだろうか。競りの進行役と思しき男の甲高い口上のセリフが、バックヤードから壁一枚挟んだすぐ向こうから聞こえてくる。


「この度、我々ザウス商会がご用意致しましたる本オークションのラストプレゼンツは、本日六人目の『デミクレイ』! しかも、しかもです皆さま、驚いてはいけませんよ? なんと久々のレアもの! 齢にして十四の、可憐な少女の奴隷でございます!」


 進行役の言葉の終わらぬうちに、会場中から再び大歓声と拍手が沸き起こる。


「ほほう! 「デミクレイ」の少女とは、また一部の物好きが喜びそうな……」

「十四か。はは、これは色々とがありそうですな」


 その異様な喧騒と熱気に気圧されるピュラをよそに、進行役の芝居がかった口上は続く。


「さて、何事も百聞は一見に如かずでございます。まずはさっそく、お披露目と参りましょう! さぁ、さぁ、いよいよ本日の目玉商品の登場です!」


 進行役の声を合図に、奴隷商の男がピュラの細い首にも鎖付きの鉄枷をはめる。


「ほら、お呼びだぜお嬢ちゃん。さっさと舞台に上がりな」


 まるでしつけの悪い犬でもあるかのように、ピュラは強引にステージ上へと連れ出される。


 壇上の照明の下にピュラが現れると、会場を包んでいた熱気はさらにその熱を増した。


 客席のあちこちで耳障りな口笛や、飢えた獣の舌なめずりにも似た下卑た囁きが飛び交う。


「ご覧ください! こちらが本日の目玉、少女奴隷のピュラでございます! まだまだ年端もいかない少女ゆえ、少々ものを弁えない部分もございますが、まぁまぁそこはご愛敬。料理や掃除など、一通りの家事も仕込んであり――」


 進行役が意気揚々と、ピュラの商品説明を始める段になって。


(い、嫌ッ……怖い、怖いよ! お願い、助けて……助けてください、神様!)


 恐怖が、ことここに至って絶頂に達する。


 ピュラは自分が鎖に繋がれているということも忘れて、無我夢中でステージ裏に走り出そうとした。


 だが、ピュラの首から伸びる鉛の手綱は、奴隷商の男のがっしりした腕に掴まれている。


「あうっ……!?」

「おっとと。どこ行こうってんだ、お嬢ちゃん?」


 当然、決死の逃走は始まる前から失敗に終わり、ピュラは首を引っ張られた衝撃で、潰れたカエルのような呻き声をあげることしかできなかった。


「――さて、長々と講釈をしていても始まりませんね。お集まりのお客様方におかれましては、もう待ちきれないといったところでしょう! どうですか、皆さん?」


 一通りの説明を終えたらしい進行役が、ステージ端に置かれた小さな卓の前まで移動して、競売が始まるのを今か今かと待ち構えている観客たちを煽る。


「早く始めろー!」

「そうだ、そうだ!」


 いよいよ苛立ちすら滲ませる観客たちの歓声に満足そうに耳を傾けて。


「結構! 承知いたしました、皆々様方。それでは始めましょう! ザウス商会主催、第二十二回ヒューマンオークションの大トリ、『デミクレイ』の少女奴隷、ピュラ! まずは四千万オボロイから! さぁ、いかがですか!」


 進行役の男が声高々に、オークションの開始を宣言した。

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