第8話 診療所にて
昼でも薄暗く、迷路のように入り組むスラムの路地をあてどなく駆け回り、デュークはやがてとある細い裏道の入り口で立ち止まった。
裏道へと続く小さな下り階段にそれを見つけ、片膝をついて手でなぞる。
血痕だった。
階段から裏道の奥へ点々と続いていた赤黒い斑点は、けれど完全に乾ききっているわけではなく、それがこの血痕のまだ真新しいことを如実に表していた。
悪い予感が次第に現実味を帯びていくのを感じて、デュークは慎重に階段を下っていく。
案の定、裏道の先にひっそりと横たわっていたのは、最前ピュラの傍らで忠心篤い騎士のごとく控えていた、あの白い大きな犬、ヘレンだった。
「……ひどいな」
駆け寄るデュークの目に、ヘレンの体のあちこちにできた痛ましい傷痕が飛び込んで来る。
爪や牙は所々が欠けてしまっており、胴体には何かで殴りつけられたような痕がいくつもあった。よほどひどい仕打ちを受けたのだということは、疑いようもない。
この割れた牙も爪も、血を吐くまで殴られてできたのだろう傷や痣も。
すべては彼の主であり、たった一人の家族であるあの赤髪の少女を守るために、死に物狂いで抵抗したが故の負傷なのだと、デュークはすぐに理解した。
少女を追い詰める奴隷商人たちに果敢に立ち向かい、激しい抵抗の末に、無念にも力尽きてしまう。そんな情景が目に浮かぶようだった。
(すごいな、君は……俺にはできなかったよ)
自分とは違い、最後まで少女を助けようとしたこの勇敢な犬に、デュークは尊敬の念を覚えずにはいられなかった。
こんな冷たい裏路地ではなく、せめてどこか見晴らしの良い所で眠らせてやりたいと、デュークは横たわるヘレンに手を伸ばそうとして。
「…………ゥ……」
それが契機となったわけでもないだろうが、横たわるヘレンの血まみれの口から微かに、しかし確かに呻き声が漏れ聞こえ、デュークは虚を突かれたように顔を上げる。
ヘレンは、生きていた。
呼吸は壊れた吹子のように弱々しく、フサフサの白毛は血や泥で汚れてガサガサになり、声を出すのも辛そうなほど満身創痍の体で。それでも、ヘレンは生きていた。
デュークはすぐさまヘレンの首に手を回してそっと持ち上げると、自分の膝の上へと乗せてやる。
ヘレンは再び小さな呻き声を上げ、それからゆっくりと閉じていた瞼を開ける。
瞼の下から姿を見せた、その満月の如き金色の眼と対峙して、デュークは今度こそハッとして息を呑んだ。
死に瀕してなお、いまだヘレンのその目だけは、少しも死んではいなかった。
このままでは死んでも死にきれないと、眼差しだけで不屈の心を訴えていた。
彼はまだ、諦めてはいなかったのだ。
(……そうか)
首に回していた左手に力を入れ、もう一方の手でその大きな体を支えるようにしてヘレンを抱きかかえると。
(そうだな)
彼の目を真っ直ぐに見つめ返して、デュークは決然と頷いてみせた。
※ ※ ※
「私はべつに獣医ではないんだけどもね」
ボロボロの大型犬を抱く緑髪の少年を出迎え、ミグロッサは溜息交じりにそうこぼした。
場所はノア中層の第六区。
賑やかな露店通りからは少し外れた住宅街に、その小さな診療所はひっそりと、隠れるようにして佇んでいた。
「しかも、どうやら何かワケありらしい」
診療所の入り口で、くたびれた白衣の両ポケットに手を突っ込む妙齢の町医者――ミグロッサ・グラーニェは、前触れもなく現れた昔馴染みの少年を緩慢に見やる。
「……まぁいいや。とりあえず、うん、入りなよ。その状態で突っ立っていられても困るし」
「ありがとう、メグ姉」
「いいよ。しかしまぁ、よく毎度こんな重症な野良を見つけてくるね。君のお陰で、私も随分と専門外の技術が磨かれたものだよ、デューク」
部屋の奥の診察台に犬を寝かせるようにデュークに言いつつ、ミグロッサは冗談めかして口端を上げた。
「で、今日はこのやたらと場所をとる白毛くんってわけか。はい、ちょっとごめんね」
デュークに見守られながら、ミグロッサは横たわる大型犬の体をあちこち触り、その反応を見ながら慎重に怪我の具合を調べていった。
「うーん、右前脚と、脇腹辺りかな。触られるのを嫌がるね。腫れてるし熱もあるから、骨にひびが入っているのかも知れない。噛み痕が無いから、他の犬と喧嘩してできた傷でもないようだし、どこか高所から落ちたか。あるいは……誰かに殴られた、って感じか」
容体から大体の事情を察し、ミグロッサは感心する。
「しかも、はは、コレは随分と肝の据わった奴らしい。体中ひどい有り様なのに、後ろ脚やお尻、尻尾なんかはまったくの無事。一片の逃げ傷なしとは漢じゃないか。きっとこうしてぶっ倒れるまで、この傷を負わせた相手に立ち向かったんだね」
「治るかな」
「治すさ。この子のことは、うん、私は気に入った。それに、安心しなよ。たしかに重症だが、君が早くに連れて来てくれたお陰で十二分に手の施しようがある」
棚に陳列してあった薬品のビンやら医療器具やらを取り出し、それを診察台の横に備え付けられているスチール製のサイドボードに並べてから、ミグロッサは本題を切り出した。
「でれより……この子、一体どこで見つけてきたのかな?」
ミグロッサの問いに、デュークが事の一部始終を説明する。
今日、下層の裏路地で、一人の女の子と一匹の犬に出会ったこと。彼らが複雑な状況に置かれていたということ。
一人と一匹に訪れた、その不幸の全てを。
「……ふむ、なるほど」
無駄のない手付きで応急処置を進めながら、ミグロッサは相槌をうつ。
ほどなくして当面の手当てを終え、一息ついて手近な回転イスに腰掛けると。
「それはちょっとマズいかもね」
デュークの話に少し引っ掛かるところを感じ、ミグロッサは顎に手をやって眉根を寄せる。
「マズい?」
「人身売買を、それも移動都市までもをマーケットに手広くやれる組織はそう多くない。ましてや貴族相手のオークションを開けるくらいのコネを持つとなると、ザウス商会か、キエン社か……いずれにしろ、まぁ、その辺りの相当デカくてヤバい連中だろうね」
ミグロッサは片手の指を折りながら目ぼしい名前を挙げていくが、そのどれもが、眼前の少年には聞き慣れないものらしかった。
「あいつら、いわゆるアンダーグラウンドでの大手だからね。君みたいな一般市民――いや、君は少し違うけど、とにかくこういった『裏』の世界に関わったことが無い人間にはあまり知られていないだろうから、無理もないさ」
ミグロッサは元々、帝国本国で父親と医者をやっていた。
医者といってもロクな診療所を開くほどの金もコネも無いスラムの町医者だったのだが、それだけに患者の中には、あまり堂々と陽の下を歩けないような人間も多かった。
ミグロッサがデュークも知らない帝国の裏社会に明るいのも、そういった経緯からのものだった。
「ピュラちゃん、だったかな? その女の子も運が無かったね。この手の大手連中に捕まった奴隷は、大抵ほかの奴隷たちよりも悲惨だよ。知ってるかい? 特に貴族や上流階級に多いんだけど、そういう大手で奴隷を買おうって連中の中には、そりゃもう反吐が出るような趣味嗜好を持った変態もいる」
ミグロッサはそこでわずかに目を細め、吐き捨てるように言葉を続けた。
「そのピュラちゃんもきっと、何かしらその手の『付加価値』を付けられるんだろうね。良くて何かの病気を意図的に患わされたり、かな。もっとひどければ体の一部を……いや、うん、この話はもう止そうか。今更、言っても仕方ないし」
「余計なことを言ったね」と、ミグロッサはそこで話を切り上げた。
見ず知らずとはいえ、その赤髪の少女はデュークのすぐ目の前で連れていかれたのだ。
彼女がこれから辿ることになるであろう悲惨な末路をわざわざ口にするのは、彼にはいささか酷な話というものだろう。
我ながら気を遣えない女だな、とミグロッサは自嘲気味に首を振る。
だがそんな心配とは裏腹に、デュークの様子は落ち着いたものだった。
きまり悪く思って様子を窺うミグロッサの前で、事もなげに横たわる白犬の頭を撫でるだけだ。
(……あの目は)
しかし、ミグロッサはやがて、少年の深緑の瞳が不思議な輝きを放っていることに気が付いた。
その不思議な輝きを、ミグロッサはかつて一度だけ見たことがある。
四年前……そう、四年前だ。
デュークがこのノアに乗り込むと言い出した日の前の晩も、思い返せば彼は同じような目をしていたのだ。
「……待っててくれ」
最後に一度だけ診察台の白犬の頭を撫でてそう呟くと、デュークが診療所を後にしようとする。
「どこに行くんだい?」
「……ちょっと買い物に」
「冗談が上手いね」
「ヘレンのこと、頼むよ」
立ち止まり、首だけをこちらに向けてそう告げるデュークに、ミグロッサはわざとらしく肩を竦めて見せて、しかし「万事任せてくれ」と鷹揚に頷いた。
「わかった。まぁいいよ、行っておいで。この犬のことは私がちゃんと見てるからさ。そっちはそっちで、思うままにやればいいさ」
立ち去るデュークの背中にひらひらと手を振って、ミグロッサは自分の藤紫色の髪を軽くかき上げる。
それから脱力気味に回転イスの背もたれに体をあずけ、ポケットから取り出した棒付きキャンディーを口に含み、診療所内をぐるりと見回す。
「さて、と……これではさすがに窮屈かな」
仮にも医療施設の看板を掲げている手前、最低限の清潔さは保てているつもりだが。
それでも部屋のあちこちに薬品の入った木箱やら丸めた紙束やらが乱雑に置かれているせいで、ただでさえ広くはない空間はさらに狭苦しく見えた。
「次にデュークが来るときまでには、もう少し片付けておいた方がいいかもね。ねぇ、君もそう思うだろ? 名犬ヘレンくん」
ミグロッサが微笑みかけても、ヘレンはもちろん何も返事をすることはない。
ただ、その寝顔は先ほどまでと比べて幾分か、安らかなものになっている気がした。
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