第10話 呪返
十話 呪返
真が美幸に抱き締められる数十秒前。ナルマはコッソリと真の元を離れて幽子の元へと向かっていた。
幽子はこの日当番だったため、教室に残って当番日誌を書いていた。当番が先生に宛てて報告や相談事を書くことになっている欄に何を書くか悩んでいると、視界の端に見覚えのある白いワンピースが見えた。
「なに、ナルマちゃん」
ナルマの姿に気が付いた幽子は少しだけ不機嫌さを表に出しながら言った。ナルマは幽子の機嫌など気にせずに言った。
「おい。小僧が危ない目に遭っている」
その言葉に幽子は目をカッと開いた。
「ど、どういうこと?」
「乳女を助けようと踏み込んだは良いが失敗した」
「な、なんでッ!? マコちゃんのこと止めなかったの!?」
幽子の口から飛んだ唾を拭いながら、ナルマはシュロロロと笑って返した。
「止めたに決まっておる。だが、小僧はワシの警告を無視して突っ走った」
「契りがあるんじゃないのッ!? マコちゃんに何かあったらナルマちゃんのせいだよッ!!」
ナルマはニタァと嫌な笑顔を浮かべた。
「乳女がいきなり襲ってきたのなら契りの対象になるからワシが守らねばならんが、小僧が自ら進んで危険に飛び込んだのだから契りの対象外だ」
幽子は椅子から立ち上がってナルマの胸ぐらを掴んだ。ナルマの華奢な身体がグワングワンと揺れた。
「マコちゃんに何かあったらタダじゃおかないよ」
息を荒くして睨みつけながら言った幽子だったが、ナルマは悪びれる様子も無ければ焦る様子も見せずに淡々と言った。
「シュロロロ。おぉ、怖い怖い。お前ならワシをどうにか出来るかもしれんが、お前が先に手を出したら果南が契りを破ったことになるがそれでも良いのか?」
「ッッッ!!」
「それよりも良いのか? 放っておいたら小僧がどうなるかワシにも分からんぞ」
ナルマに対して煮えたぎるように沸いていた怒りが一瞬収まった。決して怒りが消えた訳では無いのだが、自分の怒りよりも優先すべきことがある。
それは真の安否だ。
「だったら、マコちゃんの所に案内して」
ナルマはコレから言う言葉が未来を変えるような力を持っていないことを理解したうえで、自分の契りのためだけに形式的に言った。
「止めておいた方が良い。返り討ちに遭うぞ」
「良いから、連れてって」
「ワシは止めろと警告したからな。どうなっても知らんぞ」
幽子はナルマをキッと睨みつけてから、教室の後ろに立て掛けておいた長細いケースから蛇絶(へびだち)の小太刀(こだち)を取り出した。
蛇絶の小太刀。それは蛇を絶つ刀でもあり邪を絶つ刀。草薙神社に古くから伝わる小太刀であり、複数本存在するため幽子も自分用の小太刀を持っている。
今までは神社に保管していたのだが、ゴールデンウィークのナルマの一件から何時何が起きても良いように小太刀を携帯していた。
最初は刃物を携帯することに強い抵抗はあった。だが、幽子は本物の刀ではなく儀式用の模造刀のようなモノだと偽った上で「草薙の神社の決まりで携帯しなくちゃいけなくて」と言うと、クラスメイトは「大変そうだね」と同情の言葉をかけ、教師陣は下手に反対をして幽子の祖父である源ジィにどやされたらたまったものじゃないと黙認した。
「あ、草薙さん。当番日誌書けた?」
もう一人の当番であるクラスメイトの男子に話しかけられた幽子は「ごめん! あとお願い!」と手をパンと鳴らしてウィンクをしながら口にすると教室を走り去った。
残された男子生徒は「草薙さんのお願いならしょうがないなぁ」と嬉しそうに呟いて、幽子の机の上の当番日誌を持って自分の席へと向かった。
ハァ、ハァ、ハァ。
ナルマが宙を高速移動する後ろを、刀の納まった鞘を握った幽子は全速力で追いかけた。
何人かとすれ違った際に、誰もがその異様な光景に釘付けになっていたのだが、幽子はナルマの背中だけを見て走りにくいスリッパで出せる最高速度で疾走した。
「な、何あれ」
ナルマのさらに奥。校舎の端から尋常じゃない邪気が溢れていた。
幽子は鞘に刀が納まっていることをもう一度確認しながら、邪気が溢れる空間へと足を踏み入れた。
ガラガラガラッ!!
美幸の啜り泣く音だけが響く空き教室に、静寂を突き破る音が響いた。
驚いた美幸が扉の方を見ると、そこには小太刀を手にした幽子が息を切らして立っていた。
「マコちゃん!」
幽子は倒れている真と立ち尽くしている美幸を交互に見てから、すぐに真の側に屈んだ。
「マコちゃん大丈夫!?」
幽子はうつ伏せに倒れていた真を仰向けになるように動かしながら言った。
返事がない。声をかけても肌に触れても身体がピクリとも動かない。幽子が急いで脈を確認すると、微かに脈を感じ取ることが出来た。
「ねぇ、アナタがやったの?」
幽子が美幸を睨みつけると、美幸も負けじと睨み返した。
両者が睨み合い、長い沈黙が訪れた。
誰かを犠牲にしなくちゃいけないのなら、それは私で良い。
眼の前にいる彼女が誰なのかは知らないが、いわゆる陰陽師のような人なのだろう。その人に任せれば丸く収まるかもしれない。
本当に?
私が刀のようなモノで斬られて丸く収まるのか?
分からない。分からないが、私の意識が残っている内に彼女に託すしか無い。
その沈黙は、立ち尽くしていた美幸が覚悟を決めるための時間だった。美幸は爪が食い込むぐらいに拳を強く握りしめ、溢れそうになった涙を拭ってから言った。
「そう、だけど」
「ふぅん、そう」
幽子は小太刀を自分のすぐ横に置いた。そしてポケットから身代わり小指の入った御守り袋を取り出すと、真の手の平に御守り袋を押し付け、無理やり握り込ませた。
「マコちゃんは、アナタを助けようとしてたの分かってたよね? 何でこんなことをしたの?」
幽子は再び小太刀を手に取った。カチャリと不吉な金属の音が鳴った。
「私にも、分かんない」
それは美幸の本心だった。
分からない。自分の心が分からない。
誰が悪いの? 私? 私が悪いの? 何で?
私は”呪われている”。悪いのは誰?
呪われるようなことをした私?
それとも私を呪った誰か?
それとも、ありもしない希望の光を見せたこの男?
いや、違う。呪いなんて無い。
伏見君がそう言ってたじゃないか。
でも、本当にそうだろうか。
見抜君が「誰かが私を呪った」と言った時、私は誰が私を呪ったのかすぐに分かった。
だから呪いなんて無いんだってば。
呪いはある。呪いが無いのなら、私の周りで起きた不幸は何だって言うの?
私が私をどうしたいのか分からない。
今こうして思考を巡らせている私が私であるのかも分からない。
誰か助けて。
助けに来てくれた見抜君は私が呪ってしまった。
それは私の意思であって私の意思じゃない。
今目の前にいる女の人。顔も名前も知らないけれど、きっと見抜君のことを大切に想っている人なのだろう。
私のことを許してくれるだろうか。
いや、許してもらえなくても良いじゃないか。
二人仲良く同じ場所に連れて行ってあげれば良いんだから。
「分かんない、か。そっかそっか」
幽子は大きく息を吸った。
分かんない? 何だその答えは。許さない。
マコちゃんを傷付けた奴は許さない。
たとえマコちゃんが大事に想っていたとしても私は許さない。
私が嫌われることになったとしても、私は許さない。
幽子は「そんな言い訳が通ると本気で思ってるの?」と呟きながらゆっくりと立ち上がり、校内用のスリッパと一緒に靴下も脱いだ。
靴下まで脱いだ理由は単純だ。スリッパや靴下では剣術で重要な踏み込みが出来ないからだ。刀は腕で振るうモノだと思いがちだが、実際は腕だけでなく腰や下半身まで含めた全身で振るうモノである。
幽子は鞘から小太刀を抜くと、鞘を床にそっと置き、剣先を相手に向け、いわゆる『中段の構え』と呼ばれる構えを取った。
幽子は怒りに身を任せて美幸を斬り殺そうとしているわけではない。美幸の中にある呪いを斬ろうとしていた。
では何故最初から呪いを斬ろうとしなかったのか。その話をするために草薙流剣術について紹介する。
幽子が今も磨き続けている草薙流剣術。その全ては「振り上げた刀を渾身の力で振り下ろす」という一動作に収束する。
構えこそ違うものの示現流に似た草薙流剣術は、草薙流剣術の始祖でもある草薙様が蛇神という防御という概念が通用しない上位者に渾身の一撃を叩き込むことだけを考えて創った剣術である。そのため、技という技は一つの例外を除いて存在しない。
唯一の技と呼べる技は「裏一閃(うら・いっせん)」と呼ばれている。それは対神用ではなく対人用の技である。
振り上げた刀を渾身の力で振り下ろすという動作に変わりは無いのだが、相手の肌に刃を触れさせながらも薄皮一枚斬らずして振り下ろす離れ業である。裏一閃を受けた相手は、老若男女も剣術に長けているかどうかも関係なく、皆が斬られていないのに斬られたと錯覚すると言われている。
だが、当然の事ながら誰にでも出来るわけではない。裏一閃は寸止めではないからだ。一瞬の内に肌を斬らずして刃を滑らせるように振り下ろすという離れ業は、一歩間違えればただの空振りと化すか肉を切り裂き骨を砕く暴力と化す。
裏一閃は源ジィも刀也も習得していない。霊力にあまり恵まれなかった幽子が唯一持っている特技にして奥義。それが裏一閃。
では何故そんな危険な技を繰り出そうとしているのか。
それは、裏一閃に斬られたと錯覚するのは人間だけではない。神も呪いも斬られたと錯覚する。幽子の狙いは、裏一閃で斬られたと錯覚した呪いが美幸の身体から抜け出た所を追撃することだ。
ここで問題なのは、習得したとはいえ百パーセントの確率で成功するような技ではない。万が一にも、被害者でもある少女を良くて大怪我、悪くて死亡という賭けをするわけにはいかない。
幽子としては、呪詛返しのような第三者の死が確定している選択肢よりはマシだが、出来ればやりたくなかったというのが本音だ。
裏一閃の本質は相手に斬られたと錯覚させる所にある。そのため、全身から殺意を放つことには大いに意味がある。眼の前にいる少女には悪いけれど、手加減することなく全力で圧を放った。
幽子が構えた瞬間に放たれた強烈な威圧感に、立ち尽くしていた美幸は思わず後ろにあった窓に背中と後頭部をぶつけるまで後退りをした。
幽子は集中していて気が付かなかったが、側にいたナルマでさえも後退っていた。
「血の薄れた大したことの無い娘と思っていたが、ひとたび刀を握っただけで”ワシを斬り伏せた忌々しいあの男”を思い出させる程の剣圧。シュロロロ。契りを交わしておいて正解だったな」
ナルマは一人小さく笑いながら呟いた。
集中している幽子にその声は届いていなかったのだが、ナルマがふと真の様子を確認すると、身体の内側で呪いが増殖していることに気が付いた。
「伝染先で増殖しているだと? 以前はここまで強くは無かったはずだが。小僧が呪われた時よりも強くなったということか? これだと小僧の命が危ないな」
別に放っておいても良かった。
現在契りの対象外である見抜真が死のうが自分の野望には関係無い。
ナルマは心の底からそう思っていたが、呪いが増殖して真の生命がさらに弱まるのを感じ取ったその時、全身に稲妻が疾走した。
この男を今此処で殺させてはならない。
然るべき時に然るべき方法で殺さねばならない。
それは直感だった。何の根拠も無い。
見抜真は自らの意思で危険に飛び込んだことから契りの対象外になったため、呪われようがどうなろうがナルマには何のペナルティも無い。それは幽子も同様だ。
だが『今ここで見抜真を殺してはならない。もし今殺すと巡り巡って自分の野望が叶うことは無い』と直感したのだ。
ナルマは基本的に自分さえ良ければ良いという思考の持ち主であるが、たとえ自分が損をすることになっても自分の直感を強く信じるタイプでもある。
かつて、ナルマは自分の直感が損得勘定を引っくり返した時に直感を信じなかったことにより酷い目に遭った。それがキッカケで、ナルマは直感を優先するようになった。
「別に痛くないよ。一瞬だから」
これも裏一閃のための仕掛けの言葉。裏一閃は斬らずして斬る技なので痛みなど無い。重要なのは本気で叩き斬ると信じ込ませること。
覚悟を決めた幽子が踏み込もうと身体を動かすのとナルマが叫ぶのは同時だった。
「草薙の娘ッ!! お前の身代わり小指だけじゃ足りないッ!! 呪いが増殖しているぞッ!! このままだと小僧が死ぬッ!!」
裏一閃のために集中していた幽子であっても、真の事は気にかけていた。
既に振り下ろしていた刀をギリギリの所で止めた幽子。小太刀は美幸の眉間から僅か数ミリの位置で止まっていた。
窓に後頭部と背中を当てていた美幸は、あまりにも一瞬の出来事に身動き一つ取ることが出来ず、ゴクリと音を立てながら唾を飲み込んだ。
「何でそれを早く言わないのッッッ!!」
幽子は小太刀を少女の眉間から離すと、床に置いた鞘を拾い上げ小太刀を納め、真の元へと駆け寄った。
幽子が真の握り拳をそっと開くと、握らせたはずの御守りは炭のように真っ黒になっており、手を開いた拍子に灰のようにサァアと指の隙間から零れ落ちた。
「そんな、足りないってこと? 身代わり小指はもう持ってないのに。ナルマちゃん! どうすれば良いの!?」
あれだけ大口叩いておいて肝心な時に助けを乞う。
それがどれ程みっともない事かは幽子も理解していたが、真や果南の事に限っては幽子はプライドなどという下らないモノを持ち合わせていなかった。
だが、頭を下げて助けを求めた幽子に対して、ナルマは淡々と返事をした。
「ワシにはどうすることも出来ん。ワシは呪うことは出来ても祓うことは出来ん」
幽子は眉と口のは端をプルプルと震わせながらナルマに向かって叫んだ。
「契りがあるんでしょッッッ!? 助けてよッッッ!!」
「契りの対象外と言ったろう。それに助けることも出来ん。仮に呪詛返しの許諾が取れたとしても、小僧の中で増殖した呪いに関しては呪詛返しでもどうにもならん。陰陽師を連れてくるしかない」
ナルマにとっても予測不能の事態だった。
あわよくば見抜真と草薙幽子の二人を野呂美幸の呪いで葬りさる事が出来ると軽く思っていたのに、直感が見抜真の死を否定したのだ。
ナルマは解呪の技術は持っていない。そのため、真を死なせたくないと思っていても、幽子と同様に誰かを頼る他無かった。
大抵のことをいとも容易く行えるナルマにとって、これ程までに自分の無力さを思い知らされたのは忌々しいあの男に斬り刻まれた時以来だった。
美幸には幽子が睨んでいるナニかは見えなかったが、直感で理解した。
そこに存る。
美幸は意味があるのかは分からなかったが、”そこに存るナニか”に目を付けられないように息を潜めた。
幽子はしばらくナルマを睨み付けていたが、突然怒りを露わにした。
「だったら、私がやる」
幽子はナルマに向かって言い捨てると、一度深呼吸をし「もう大丈夫だからね」と真の耳元で優しく囁くと、額と額を重ねた。
大丈夫。私はやり方を知っている。
大丈夫。私はこの方法で命を助けられたのだから。
大丈夫。私は助けてもらったのだから、次は私が愛する人のためにこのやり方をするだけのこと。
大丈夫。私が必ず助けてあげる。
真の額から幽子の額へ、飛び上がりそうになるほど熱くて冷たいナニかが流れ込んだ。
次に襲いかかったのは激しい頭痛と目眩、そして間髪入れずに堪えきれない程の吐き気と腹痛。
だが、途中で止める訳にはいかない。真の身体から呪いの最後の一滴まで絞り尽くすことでしか、呪いの魔の手から彼を救うことは出来ない。
呪いを祓うことは出来なくても、自らの意思で肩代わりすることを幽子は選んだ。誰にでも出来る事ではなく、幽子が忘れもしない二年前の恐ろしい経験の中でかけがえのないものを失いつつも学んだ術だった。
幽子が真と額を合わせていた時間は十秒にも満たなかったが、美幸にとっては数十分にも感じる程にその姿に釘付けになっていた。
ゆっくりと額を離した幽子は口元を抑えながら空き教室の隅にあったゴミ箱に駆け寄り、ゴミ箱に顔を突っ込みながらゴボボボボと大きな音を立てながら胃の中身を全て吐き出した。
吐瀉物にはお昼に食べた弁当と思われるモノが混じっていたが、吐瀉物の大半は”赤黒いヘドロ”だった。
幽子は目と鼻からも赤黒い液体を垂らしながら全ての元凶を一度睨み付けると、頭から床に倒れ込んで動かなくなった。
「草薙の娘、小僧の呪いを肩代わりしたというのか? 小僧は助かったとしてもお前が死ぬぞ」
ナルマは動かなくなった真と幽子を交互に見た。
「シュロロロ。万が一にも果南に呪いが伝染しないようにという当初の目的を考えると、振り出しに戻ったどころかむしろ悪化しているな。小僧も草薙の娘も乳女の呪いに顔が割れたとなると、この場をやり過ごしても襲われるに決まっている。だったらワシが乳女を殺すしかないのか?」
先の割れた舌でチロチロと上唇を舐めたナルマは、今まで深く考えていなかったことに気が付いた。
「ワシが乳女を殺すのは容易だが、乳女を殺した時に呪いがどうなるか分からんな。呪われた人間を殺すと呪いも一緒に死ぬのが大半だが、ワシのような変則的な存在が横槍を刺した時に、呪いの処理がどうなるのか確証が無い。そうなるとワシ以外の力でこの場を収めた方が良いな。さてさて、どうしたものか」
その時、ナルマの頭に一人の人物が思い浮かんだ。
「アヤツなら、上手いことやってくれるかもしれんな」
ナルマは思い浮かんだ人物が自分が行くことの出来る範囲にいることを信じて、存在しないはずの教室を後にした。
「フフッ、フフフフッ。呪いは伝染する。フフフッ」
美幸は込み上げてきた正体不明の感情に、涙を次々と流しながら歪んだ笑みを見せた。
「呪いは伝染する。だったら、呪いを絶つには元を絶たないと」
美幸は床に落ちている小太刀を拾い上げ鞘から抜くと、自らの首筋に刃をそっと当てた。
もう終わりにしよう。
私が私の意思で動くことが出来る内に。
少女の首筋にプクリと浮かんだ真紅の雫は刃を伝わり、鍔からポタリと垂れた。
存在しないはずの教室で真と幽子が倒れた頃。
伏見は教室に残っていた。
最初は帰りのホームルームが終わってすぐに姿を消した美幸が何処にいるのか校舎中を探し回っていたのだが、荷物が机の上に置きっぱなしなのだから教室で待っていれば会えるだろうと思って教室に残ることにした。
やることが無かった伏見は授業よりも遥か先の予習をすることにしたが、伏見にとっては予習などしなくとも授業で一度見聞きすれば理解出来てしまうため、ただの暇潰しでしかなかった。
ならばもっとレベルの高い高校に行けば良かったのでは無いかと思うかもしれないが、伏見にとっては何処に行っても大差が無いのなら、美幸のいる高校に行こうという単純な理由で高野台高校を選んだのだった。
「おい、二枚目」
ナルマが伏見の前の席の机の上に胡座をかきながら話しかけた。
伏見はその声を無視して広げていた教科書の頁を捲った。
「おい、二枚目。お前だ。ワシの声が聞こえているのだろう?」
伏見はナルマの声が聞こえていたのにも関わらず無視をした。自分の事だと思ってもいなかったし、仮に自分の事だったとしても、失礼な奴と会話をする気など無かった。
「時間がない。コッチを見ろ」
ナルマが教科書の頁を捲ろうとした伏見の腕を叩こうとしたが、その手を伏見が掴んだ。ナルマは咄嗟に腕を引こうとしたが、伏見の万力のような握力によって抜け出すことが出来なかった。
伏見はナルマを睨みつけながら言った。
「誰だお前」
「ワシか? ワシは鳴萬我駄羅。蛇神だ」
小学校低学年ぐらいの子供が鳴萬我駄羅の名前を知っていることに伏見は驚いたが、自分の事だと名乗ったことについては露骨に嫌そうな顔をした。
「神? 馬鹿馬鹿しい。そんなモノはいない。それよりもガキが何で此処にいる?」
伏見はナルマの腕を乱暴に離した。
「シュロロロ。お前、良いのは顔だけだな。中身は小僧の方が数倍マシだ」
ナルマはあながち不満でも無さそうに笑いながら言ったが、伏見は無視を決め込んだ。
「乳女が、いや、何て名前だったか。そう、確か『のろみゆき』という名前だったか。その女が」
伏見は話の途中でナルマの胸ぐらを掴んだ。
「野呂さんのことを何でお前が知っている?」
「話すからその手を放せ。身の程知らずの糞ガキが」
一発ぐらい引っ叩いても良いと伏見は思っていたが、美幸の名前を出したということは美幸の知り合いかもしれないと思って渋々手を離した。
ナルマは襟元を正してから言った。
「乳女の事は見抜の小僧経由で知った」
「見抜、あぁ、アイツか」
伏見は一悶着あったことを思い出して眉間にシワを寄せたが、金輪際彼女と関わるような事が無ければ真のことなどどうでも良かった。
「で、野呂さんが何だって?」
「一言で言えば死にかけておる。そこで、二枚目。お前の力が必要だ」
「死にかけているとはどういう意味だ。冗談だとしたら例え子供だろうとぶん殴るぞ」
「シュロロロ。乳女の事になると知性が獣になるのかお前は」とナルマは笑った。
「まぁ、良い。ワシの寛大な心で許してやろう。さて、話を戻そうか」
伏見は納得がいかなかったが、話の続きを促した。
「乳女が死にかけているのは本当だ。嘘だと思うならワシの話など無視してさっさと帰れば良い」
「野呂さんが荷物を置いたまま帰ってこない事と関係があるというわけだな?」
「そうだ」
「荷物を置いたままということは校内のはずだ。だが、そもそもの話、学校の中で死にかけるだなんておかしい。あり得るとすれば呼び出されて誰かに虐められているとかか? 屋上、誰も来ないような準備室か部室、校舎裏、体育館倉庫、いや、校舎裏も体育館倉庫も誰かの目に触れるだろうから可能性としては低いな。そうなると、屋上か誰も来ないような準備室もしくは部室の何処かにいるとしか思えない。野呂さんは今何処にいる?」
伏見が与えられた情報から持論を語ると、ナルマは称賛するようにも馬鹿にするようにも解釈することのできる拍手をした。
「良い線いってるな。二枚目よりも名探偵の方が良いかもな。と、冗談はさておき。乳女は”訳アリの空き教室”にいる。死にかけているのは誰かが乳女を呪ったからだ。今に乳女の精神が死ぬ。精神が死んでも肉体は生きているから表向きには死んじゃいないが、中身が別モノになる」
「呪い? 精神が死ぬ? 中身が別モノ? 何を馬鹿な」
「本当だ」
伏見の反論をナルマは黄色く光る両目で威圧しながら遮った。
「あまり時間は残っていない。共に来い。お前の言葉なら乳女に届くかもしれん」
呪いも神も信じない。
決して信じてはいないのだが、野呂美幸に危険が迫っているというのなら話は別だ。
呪いだろうと神だろうと、彼女に手を出すやつは許さない。
絶対に許さない。どんな手を使ってでも彼女を救い、手を出したやつには制裁を下す。
伏見は覚悟を決めた。
「分かった。お前が誰なのかも呪いがどうたらとかも興味は無いが、野呂さんを助けるためなら何だってする」
ナルマは上唇をゆっくりと舐めた。
「シュロロロ。頼もしい限りだ」
ナルマは伏見の手を握ると廊下へと連れ出した。
「おい、手を放せ」
高速で移動するナルマに引っ張られながら伏見は訴えた。
「ワシの力がないとお前は乳女の元に行くことは出来ない。その原理をお前に説明したところで、お前は理解しようという気が無いから説明する意味がない。だが、安心しろ。ワシはお前のようなガキに欲情などしない。そしてそれはお前も同じだろう? 少しの辛抱だ。男なら我慢しろ」
「大体僕を連れて行ってどうする気だ。野呂さんのためなら何でもするが、先に説明しろ」
ナルマは「どう言えば良いものか」と呟きながら考え、良い案を思い付いたのでそのまま口にした。
「お前は乳女に『全て任せろ』と言って了承を貰えば良い」
「何だそれは。どういう意味だ?」
「信じない人間にそれ以上説明して何になる? 乳女を助けられればそれで良いのだろう?」
「死にかけている状況なんだろ? ふざけているのか?」
ナルマは大きく溜め息をついて面倒くさそうに言った。
「ふざけてなどいない。ふざけているのならワシはお前のような生意気なガキを頼ったりしない。もしもワシが間違っていたのなら、好きなだけワシを殴れ。もうそれで良いだろ」
ナルマと伏見は共に現世と存在しないはずの世界の境界を跨いだ。
伏見の目を引いたのは奥の空き教室で刀を首に当てている美幸の姿だけで、空き教室が二つ並んでいたことも、男子生徒と女子生徒が倒れていることにもまるで興味を示さなかった。
「の、野呂さんッ!」
「ふ、伏見君?」
美幸は予想外の人物の登場により、首筋に当てていた刃を少しだけ離した。深紅の雫が首元と刀を伝って滴り落ちる。
「あ、危ないから、そんなモノ、早く床に捨てるんだ」
伏見は出来るだけ優しく言ったが、美幸は刀を手放さなかった。
「伏見君、私ね、もう駄目みたい」
美幸の目から涙が伝った。
「駄目って何が? まさか見抜の奴が何かしたのか? あの野郎」
伏見の言葉を聞いた美幸は床に倒れて動かなくなった真に視線をチラリと向けてから言った。
「違うの伏見君。見抜君は悪い人じゃなかった。見抜君も伏見君のように私のことを心配してくれていたの。でも、その、私が、私が殺したの。見抜君を」
「殺した? 野呂さんが?」
美幸の視線が何度か逸れることに違和感を覚えた伏見。伏見が視線の先を追うように辿っていくと、真と幽子が倒れていた。
二人の身体はまるで置物のように動かなかった。
「見抜、は分かるが、もう一人は誰だ?」
「私も知らない」
「この二人を野呂さんは刀で殺したってこと?」
伏見は美幸の刀に視線を向けながら言った。
「ち、違う。刀は関係無いの。殺したのは私の呪いの力」
「呪い? そんなものあるはずが」
「そう。呪いなんて存在しない。でも、私には呪いとしか言えない力があるの」
美幸の目は決して冗談を言っている目では無かった。
「まぁ、野呂さんが言うのならその意見を尊重しよう」
伏見はそう言うと腕を組んで考え込んだ。そして美幸が何か言おうとしたタイミングで伏見は話し始めた。
「その呪いの力。誰かに相談したの?」
「してない」
「どうして?」
「誰も、信じてくれないと思ったから」
まぁ、そうだろう。
彼女が言ったので無ければ信じるわけがない、と伏見は思った。
「でも、見抜君は、何か知ってたみたい」
「アイツが? 何故?」
伏見は汚い物を見るように真にチラリと視線を向けた。
「分かんない。呪いを手放すことが出来るって言ってた。でも、殺しちゃった。私が」
「話が飛躍してない? 見抜は嘘を付いていたってこと?」
美幸は首をブンブンと左右に振った。
「違うの。私が助かるためには、呪いを掛けた人を呪わなくちゃいけないみたいで。それを聞いて私、パニックになっちゃって」
呪いを掛けた人を呪わなくちゃいけない。
それが何だって言うんだ?
という言葉を伏見はギリギリのところで呑み込んだ。
この言葉は恐らく彼女にとって”地雷”だ。
これまでの美幸の言葉が正しいという仮定の元に話を進めると、見抜真は呪いの事を知っており美幸を助けようとした。その過程で呪った人間を呪う必要があるという話をしたのだろう。それを彼女は良しとしなかった。
そこから導かれる答えは。
野呂美幸は黒幕と呼ぶべき存在に心当たりがある。
そして、その人物を傷付けたくない。つまり、親密な関係ということになる。
彼女と親密な関係。
そうか、そういうことか。
僕にとっては本当にどうでも良いアイツが黒幕か。
だったらどうでも良い。あとは生意気なガキに任せれば良いだろう。
そのためには信用してもらう必要がある。
「それは、酷い話だ」
「え?」
美幸は伏見の言葉に驚いた。
「そんな事をしなくても助かる方法はあるんだ」
「ほ、本当に? 伏見君」
「あぁ、本当さ」
満面の笑みで言ったが、もちろん大嘘だ。
此処から先は自称蛇神の力を借りないと話にならない。
「だから、『僕に全て任せてくれないか』?」
「え、う、うん。『分かった』。私を助け」
美幸は突然表情を醜く歪ませながら刀を振り上げた。
「避けろ二枚目ッ!」
ナルマのドロップキックが伏見の身体を黒板に叩き付けた。だが、そのおかげで美幸が振り下ろした刀は虚しく空を切るだけだった。
「痛ッ!!」
「だが良くやったぞ二枚目。乳女は呪いの所有権をお前に委ねた! さぁ、願え! 乳女を助けてやるために今こそ呪詛返しをする時だ。乳女の呪いを返してやるぞッ!!」
「呪詛返し?」
「乳女を呪った奴に呪いを返すだけだ。乳女が傷付くようなことは何一つ無い。乳女がお前に刀を振るったのは乳女の中の呪いが呪詛返しを拒んだからだ! さぁ! お前が願えッ!!」
「次なんてあるはずがないが、万が一にも手を組むことになったら今度は最初に全て説明しろ」
「ワシだって好きでお前のような奴と組んだわけじゃかい。まぁ、それはどうでも良い。さぁ、早く言え」
「『呪詛返しを実行する』!」
「シュロロロ。後はワシに任せておけ」
美幸は絶叫しながら刀を振り回した。
ナルマは手印を結ぶと美幸の刀を避けながら距離を詰めていき、美幸の腹に印を結んだままの拳をめり込ませた。
「代理執行、我呪詛返上!」
ナルマが叫び終わるのと同時に美幸の身体が激しく痙攣した。
「嫌ァあああああああッッッ!!」
目、鼻、口。
身体中から赤黒いナニかが濁流のように溢れ出た。
ゴボボボボボッッッ。
喉元にある強烈な不快感を拭い去るために美幸は全身に力を入れて吐いた。喉元にあった異物がズルリと口から落ちるのが見えた。
赤子の手だった。
「な、何だコレは」
伏見は自分が何を見ているのか理解出来なかった。美幸の口から赤子の手が出てきたと思ったら、その後も老若男女の手や指が次々と吐き出される光景を呆然と見ていた。
吐き出された手や指は一列になり、這いずりながら教室から出ていった。
「野呂さん、大丈夫?」
呆気に取られていた伏見だったが、慌てて美幸の元へと駆け寄った。
「う、うん」
そう返事をした美幸だったが、もう一度胃の中のモノを吐き出した。赤黒い液体と共に爪のようなモノが口から溢れ、ビチャビチャと音を立てながら床に広がった。
伏見が美幸の背中を何度か擦っていたその時、教室全体がグラグラと揺れ始めた。
「地震?」
ナルマは倒れた真と幽子を小さな身体で担ぎながら言った。
「この部屋の主が出ていったから崩れ始めているんだ。二枚目は乳女を担げ。教室が崩れ落ちたら二度と帰れんぞ」
伏見は「ちょっとごめんよ」と言いながら美幸をお姫様抱っこすると、二人を担いでも重そうな感じを一切見せないナルマの後をついていった。
「帰りは手を繋ぐ必要は無い。だが離れるなよ」
伏見は返事はしなかったものの、ナルマに逆らう気があったわけではないので、ナルマの近くから離れずに先を急いだ。
しばらく廊下を進んでいると、いつの間にか吹奏楽の練習や運動部の掛け声が聞こえるようになった。
振り返った伏見は、自分のすぐ後ろに壁があることに驚いた。
「信じられない」
「お前が信じようが信じまいが、お前の知らない世界は確かに存在する」
ナルマはニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながら煽るように言った。
「ふ、伏見君。もう大丈夫だから、下ろして」
「あ、ごめん。すぐ下ろすよ」
伏見が優しく下ろすと、美幸は胸元を押さえながらヨロヨロと教室に向かって歩いた。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。サヤも待ってるし、早く行かないと」
何個か先の教室。
そこはきっと沙耶の教室のある辺り。
そこから身の毛もよだつ悲鳴が聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます