第9話 油断



九話 油断



 真が伏見に殴られ、姫倉に助けられた日の夜。


 風呂から上がり、寝る仕度を全て済ませた真は時計を確認してから通話開始ボタンを押した。しばらく接続音が鳴った後にガチャッと繋がる音がした。


『ごめんマコちゃん。遅くなって』


「いや、全然大丈夫だよ。色々あったから報告したくて」


『うん。お願い』


 通話相手は幽子だ。


 真は美幸と少しだけ話せたことやナルマとの会話を幽子に話した。幽子は時々考え込むように「うーん」と唸っていたが、真の説明に口を挟むことなく最後まで聞いていた。


「というわけなんだけど。ユウ姉はどう思う?」


『その前に私の方からも報告があるんだよね。今回の件についてお兄ちゃんに相談したの。お兄ちゃんは今北海道でバタバタしてて来れそうにないみたいだけど、代わりにどうにか出来そうな人を見繕って向かわせるって言ってたよ』


 幽子の兄である草薙刀也(くさなぎ とうや)は、何百年も続く草薙神社に関する家系の中でも飛び抜けた霊力を持って産まれた。子供の時から多くの霊障による事件に携わることで実力を磨き続けた結果、その実力は現代の有数な陰陽師達と肩を並べる程になった。

 高校を卒業してからは現代の陰陽師達が集う「霊障対策室」と呼ばれる国家公務員に該当する組織に所属し、日本中の霊障による事件や常識では考えられないような事象を解決するために全国各地を飛び回っている。

 真は小さい頃に何度か会ったことがあるのだが、見た目は普通の人であることと、真には霊力のようなモノが無かったため、刀也がどれ程スゴい人なのかは正直良く分かっていない。


「その人はいつ頃来れそうなの?」


『すぐには分からない。出来るだけ早く連絡するとは言ってたけど』


 幽子の声が少しずつ小さくなっていた。


「ふぅん。そうなんだ。でも、ナルマの言う通りならいつまでも待ってるわけにはいかないと思うな。とにかく早く野呂さんの呪いを祓わないと大変なことになっちゃうかも」


 真の言葉に幽子は気まずそうに言った。


『それは、分かってるけど。応援が来るまではどうしようも無いよ。私にも源ジィにも呪いを消すことは出来ないから』


 いくら神社の関係者と言っても、専門分野の違いがあるのだろう。


 だが、応援が来るのは明日なのだろうか。明後日なのかだろうか。


 来週? それとも来月?


 助けが来るのと呪いに人格を乗っ取られるのとどっちが先なのか。それが分からない以上は少しでも早く行動すべきではないのか?


「ねぇユウ姉、呪詛返しってのはそんなに駄目なの?」


 真の提案に幽子が息を呑んだ。


『マコちゃん。本気で言ってる?』


 幽子の声は諭すような真剣さに満ちていた。


「応援を待ったほうが良いってのも分かるけど、呪詛返しならすぐに解決出来るんだよ?」


 数秒の沈黙。電波の調子が悪いのかと携帯電話の画面を確認しようとしたタイミングで幽子は話を始めた。


『そう、かもね。確かにそう。ナルマちゃんの言う通りすぐに野呂さんを蝕む呪いは無くなると思う。でもね、野呂さんに呪いを掛けた人が死ぬかもしれないんだよ?』


「それは」


 他人に呪いを掛けたのだから罰として死んでも良い。というのは感情論である。冷静に考えればそんな暴論を正しいと言えるはずがない。

 だが、他人に呪いを掛けておいて何の痛みも味わうことがないのも如何なものか、というのも真の本音であった。


 死ぬ必要は無くとも、少しは痛い目に遭うべきではないか?


 そう思うことは本当に悪いことなのだろうか。


 すぐに解決出来る選択肢があるにも関わらず、その選択肢を最初から放棄している幽子に対して、真はもどかしい感情を抱いていた。


 長い沈黙の後に、真は「それでも、助かるべきなのは呪いを掛けた人じゃなくて掛けられた人だと僕は思う」と答えた。


『ふぅん。そっか。マコちゃんはそうやって考えるんだ。うん、なるほどね』


 幽子の声から感情が抜けていくのを、真は電話越しにヒシヒシと感じ取った。

 幽子は『ねぇ、マコちゃん。冷静に、真面目に聞いて欲しいんだけど』と話を切り出した。


『映画だとかゲームだとか、そういうフィクションの世界の話だと錯覚してない? マコちゃんが言っていることって、知ってる人を助けるためなら何処の誰かは分からないけど死んでも良いって言ってるんだよ』


「そ、そこまでは言ってないよ」


『自覚が無いだけでそういうことを言ってるんだよ』


 幽子がピシャリと言い切った。


 幽子が言いたいことは分かる。分かるのだが、そこまで頭ごなしに否定されるとムカッとしてくるのもまた事実で、真は素直になることが出来ずに口からポロッと漏らした。


「呪いを掛けた人まで助けようってのは甘いんじゃないの?」


 無音。


 幽子の息遣いすら聞こえない。


 通話が切れたのかと思った真は、耳に当てていた携帯電話を離して画面を見たが、画面には通話中の文字と通話時間の秒数が進んでいくのが表示されていた。


『じゃあ、ナルマちゃんに頼めば良いんじゃないの』


 ガチャッ。


 ツー、ツー、ツー。


「ユ、ユウ姉?」


 真は呼び掛けたが、耳に届くのは通話終了を告げる音だけだった。

 喧嘩別れのような後味の悪い通話になってしまったことに真は後悔したが、今回に限っては自分だけが悪いとは思っていなかった。

 幽子のように悠長な事は言っていられない。すぐにでも呪いを祓わねばならないのだから。


 時計の針の音だけが聞こえる部屋の中で、真は携帯電話を充電器に繋げるとそのままベッドに横になった。


 そして、何度も通話の時の会話を思い出しては「ああ言えば良かった」「いや、間違ってなかった」と想像しては後悔するという流れを意識が薄れるまで繰り返した。




 翌日。


 あまり眠れなかった真はいつもより十分程遅く目が覚めたため、いつもより慌ただしい朝を迎えていた。


 いつもより少し遅れて教室に着いた真が自分の席に座って荷物の整理をしていると、美幸が席から立ち上がるのが視界の端に映った。

 何処に行くのかを確認しようと数秒だけ目で追った真は驚いた。美幸は真の元へと一直線に歩いてきたのだ。


「コレ、誰もいないとこで読んで」


 美幸はナニかを、真の机の上の本の下に滑り込ませながら言い、すぐに踵を返して自分の席へと戻って行った。

 美幸の後ろ姿を眺めていた真は、美幸が席に着くのを確認してから本を持ち上げた。そこには綺麗に折り畳まれた可愛いキャラクターのメモ用紙があった。


「え、ちょ、ちょっと」


 思わず美幸に説明を求めようと呼び掛けそうになったが、真はその気持ちをグッと抑えて口を閉じた。そして誰かに見られる前にメモ用紙をポケットに隠すとトイレへと向かった。


 トイレの個室に入って後ろ手に鍵をかけた真はメモ用紙をポケットから取り出した。クラスの女子が折り畳んだメモ用紙を授業中に回しているのは知っていたが、それと同じような物が自分の手の中にあることに違和感を覚えた。


『放課後、空き教室に一人で来て。それまで話しかけないで』


 綺麗な字でそれだけ書かれていた。


「話しかけないで、か」


 それは伏見の一件があったからだろうか?


 昨日は姫倉のおかげで助かったが、伏見と和解したとは言い難いまま別れたため、昨日の話の続きをしようとして伏見と再び揉める可能性は充分にあり得た。

 揉める可能性が分かっているのなら事を荒立てたくないと思った真は美幸の言った通り、放課後までいつも通り過ごすことにした。




「それじゃ委員長、号令」


「起立! 礼!」


 帰りのホームルームが終わり、部活に向かう者や帰宅する者、学校にしばらく残る者達がそれぞれ思い思いに話を始めて教室が一気に騒がしくなった。


 真が黒板の上にある時計を確認するともうすぐ四時になるところだった。


 真が美幸の姿を探すと、美幸は一足先に荷物を持たずに教室を後にしていた。真も帰る支度を済ませた荷物を机の上に並べた状態で廊下へと向かった。


 廊下に出た真は校舎の端にある空き教室を目指して歩いた。誰もが真とは反対方向に進んでいる。空き教室に用のある人がいないのだろう。

 人の流れに逆らうように歩いていると、美幸が廊下の一番奥にある教室に入っていくのが見えた。

 真は歩くペースを上げたのだが、校舎の端から二番目にある教室の前に着いた時に強烈な違和感に襲われた。


 高野台高校の一年生の教室が並んでいる階には空き教室は一つしか無い。その空き教室は校舎の端にある。そのため、端から二番目の教室は今も利用している教室のはずだ。


「え?」


 見間違いかと思った真は、端から二番目の教室の中を覗いた。

 教室の中には誰もいなかった。既に全員帰ったという訳ではなく、机と椅子のような学校の備品以外は一切置かれていなかった。いくら何でも全員が教科書や資料集を含めた私物全てを持ち帰っているとは考えにくい。これらの事実が、今目の前にある端から二番目の教室が空き教室であることを物語っていた。


 では、もう一つ隣に教室があるのは何故?


 真は存在しないはずの廊下と教室へと視線を向けた。存在しないということに目を瞑ればおかしな点は見当たらない。

 本能的に何かおかしいと思いながらも、真は存在しないはずの廊下へと足を踏み入れようとした。


 突然、顔に柔らかくて冷たいモノが触れた。


「んッ!?」


 咄嗟に数歩後ろに下がると、ナルマがフワフワと真の顔より少し高い場所に浮かんでいた。顔に触れたのはどうやらナルマの足の裏だったようだ。


「入るな」


「入るなって。野呂さんがこの中に」


「どうやら間に合わなかったようだ。もう小僧が出る幕じゃない。ここまで来たら陰陽師に任せた方が良い」


 ナルマが真の言葉を遮るように言った。


「ま、間に合わなかったってどういう意味だよ」


 息を荒くして訊ねた真に対して、ナルマは冷めた態度で答えた。


「言葉通りの意味だが? 乳女の意識はもう殆ど残っていない」


 殆ど残っていない?


 真は受け入れ難い事実によって頭を殴られたかのような強い目眩を感じた。


「で、でも、放課後来て欲しいって呼ばれたんだ」


 苦し紛れに反論してみたが、ナルマは気にする様子もなく即答した。


「それは小僧を誘い込む罠だ。意識を乗っ取るとソイツの記憶も共有することになるからな。恐らく昨日のやり取りから小僧が何か力を持っていると思ったんだろう。小僧が正体に勘付いたと思っているのなら、自分の有利な状況に誘い込んで小僧を殺す気だと思うが」

 

 もっと早く行動に移していれば間に合ったかもしれないのに!


 後悔しても遅い事は分かっていても、その感情を抑えることは出来なかった。

 冷静に考えれば自分の命が危ないという重大な要素こそ一番に考えるはずなのだが、真は「幽子に頼れない以上自分がどうにかするしかない」と思い込んで周りが見えていなかった。


 真は縋るようにナルマに訊ねた。


「い、今から呪詛返しをしても間に合わないの?」


「完全に乗っ取られていたら間に合わない。だが、少しでも意識が残っているなら間に合うかもしれん。やってみないと分からん」


「じゃあ、すぐにやってよ」


 ナルマは口をあんぐりと開けた。


「何を他人事のように言っておる? ワシは手伝うだけだ。小僧にも働いてもらうぞ」


「え?」


 そういう話だったか?


 疑問が頭を過ったが、今この場においてその疑問は取るに足らない問題だと思った真はすぐに頭の片隅へと追いやった。


「小僧は乳女に呪詛返しをすることの了承を貰え。乳女も呪詛返しに応じると言うのなら後はワシが責任を持ってやってやる」


「野呂さんの了承?」


「あくまで呪詛を『返す』のだから、乳女が『呪詛を返す気は無い』と考えている限りは実行することは出来ん」


「無理やり呪詛返しをすることは出来ないの?」


「出来ない。だから、意識を完全に乗っ取られていたら間に合わないと言ったんだ。意識を乗っ取った呪いがわざわざ依代を手放す理由は無いからな」


 ナルマは「ここまで聞いてもまだ助けようと思っているのか?」と顔を覗き込みながら真に訊ねた。ナルマの黄色く光る目が真の両目を射抜いた。


「お、思ってるよ」


 そう答えた真だったが、口元と両足が細かく震え始めた。それを見たナルマは頬を上げてニヤニヤと笑った。


「なんだ小僧。怖気付いたか? シュロロロ。まぁ、無理もない。そもそも小僧の手に負える案件ではない。あの草薙の娘ですら一人じゃ怪しい。それぐらいの相手だ。小僧のような無能は乳女の事を見捨てるのが最善策だな」


「こ、怖くなんて無いよ」


 この言葉は嘘である。もちろん、ナルマにも嘘であることはバレているだろう。しかし、真は嘘で塗り固めた言葉で自分を奮い立たせる他無かった。


「シュロロロ。大層御立派な考えの持ち主だな。気高き精神か、はたまた蛮勇か」


 真は深呼吸をしてから一歩を踏み出した。そして次の歩を進めようとした時、ナルマは思い出したように言った。


「あぁ、そうそう。小僧が自ら危険に踏み込むのだから、契りの対象にはならんからな」


「契りの対象? どういう意味?」


「小僧を裏切るようなことは決してしない。だが、小僧を庇いきれなかったとしてもワシは知らんぞ、ということだ」


「そんなの、分かってるよ」


 真はナルマの言葉を「気を付けろよ」というニュアンスだと思い聞き流していたために、ナルマの言葉の持つ重要性を認識すらしていなかった。


 ナルマは真の背中を見ながら「つくづく馬鹿な小僧だ」と、消えそうな程にか細い声で呟いた。


 


 真は存在しないはずの教室の入口の前に立った。教室の窓辺には美幸が外の方を眺めながら立っている。

 真が教室に入ると、誰も触っていないのにも関わらず扉がゆっくりと閉まった。


「野呂さん、来たよ」


 真の言葉を聞いた美幸はゆっくりと振り返った。その表情は絶望しているわけでも歓喜に満ちあふれているものでもなく、何の感情も感じさせない冷めたものだった。


「ホントに来たんだ」


 美幸は窓ガラスを背に真と向かい合った。


「野呂さんの用件を聞く前に一つ確認したいことがあるんだけど」


 真の提案が予想外だったのか、此処で初めて美幸は表情を崩した。


「何? 確認したいことって」


 真はゆっくりと深呼吸をした。そして美幸の目を見ながら言った。


「今僕が話しているのは野呂美幸さんだよね?」


「そりゃそうでしょ。クラスメイトの顔を覚えてないの?」


「あぁ、聞き方が悪かったかな。今話しているのは野呂美幸さんを騙る奴じゃないよね?」


「どういう意味? 私は私だけど」


 真は隣にいるナルマに向かって「嘘はついてない。ということは間に合ってるんじゃないの?」と呟くと、ナルマは「そうかもな」と適当に返した。


「あぁ、それなら良いんだ。それで」


 まだ間に合っている。ならば呪詛返しの許諾を貰って呪詛を返せば助けることが出来る!


 真は希望が見え始めたことにより一瞬緩んだ頬を、まだ終わっていないぞという思いで締め直した。


「それで、呼び出した理由って何?」


 美幸はどう言おうか悩んでいるのか視線を彼方此方に向けてから言った。


「この前の話の続きがしたくて。伏見君が来てそのまま終わっちゃったから」


「あぁ、まぁ、そうだよね」


 もう隠したり騙す必要は無い。呪いのことを正直に話して呪詛返しの許諾を貰えば、彼女を救うことが出来る。


「その、単刀直入に言うのだけれど、野呂さんは呪われているんだ。触れた相手を不幸にする力。何か心当たりは無い?」


「”無い”」


 真の身体の内側にゾワゾワと嫌な痺れが生じた。彼女は嘘をついている。


 だが、何故嘘を付く?


 本当に心当たりが無いのならともかく、彼女は心当たりがある上で無いと答えている。どういう意味だ?


「本当に無いの?」


「”無い”。神も呪いも幽霊も全部まやかしだから」


「ま、まやかし?」


 美幸の嘘のつき方に違和感を覚えた真は少し間を開けてから続きの言葉を口にした。


「信じられない気持ちも分かるけど、野呂さんが呪いの力、いや、言い方が悪かったかな? 不思議な力に悩まされてるってことは分かるんだ」


「ふぅん。”私は困ってない”けど」


 真の額に汗が浮かんだ。真は恐る恐るナルマの方を見た。


「面白いな。乳女の意識が呪いと混ざっておる」


 ナルマは先程まであまり興味が無さそうだったが、ここに来て目を輝かせて美幸の全身を舐めるようにじっとりと見つめた。


 野呂さんの意識が呪いと混ざっている?


「野呂美幸を騙る奴じゃないよね?」という質問に対して「私は私だけど」と答えていたのだから間に合ったはずではないのか?


 だが、もう一度やり取りを思い出した真はある可能性に気が付いた。


「どういう意味? 私は私だけど」


 彼女が質問の意味を理解していなかった場合、それは意図的についた嘘にはならないという可能性。


 混ざっている状況で彼女から呪詛返しの許諾を貰うことは出来るのか?


 迷った真はナルマに訊ねた。


「ど、どうすれば良いと思う?」


「お前が乳女から呪詛返しの許諾を貰う自信が無いならすぐに逃げるべきだな。まぁ、素直に逃がしてくれるかは分からんが」


「ねぇ、誰と喋ってるの?」


 ナルマが言い終わるのと同時に美幸が口を挟んだ。

 美幸にはナルマの姿は見えていない。誰もいない空間に向かって話し続けるのはいくら何でも不自然過ぎたと真は思ったが、しらばっくれるしか無かった。


「え!? いや、何でもないよ」


「嘘っぽい」


 美幸はジトッと真を睨んだ。だが、すぐに元の表情に戻った。


「でもまぁ、電波は届いてないから誰かと相談することなんて出来ないけど」


「え?」


 真は慌てて携帯電話を取り出した。画面には「圏外」と表示されていた。


「な、何で!?」


「そんなの当たり前だよ。此処は存在しない場所なんだから。吹奏楽部の練習の音も運動部の掛け声も聞こえないでしょ?」


 美幸に言われてから真は気が付いた。テスト期間では無いというのに、あまりにも静かすぎる放課後。たったそれだけの事が、今いる場所が現実とは離れた場所であるのだと実感させるには充分だった。


「シュロロロ。良いことを思い付いたぞ」


「な、何? 良いことって」


 真は怪しまれないようにナルマの方を見ずに出来るだけ小さな声では呟いた。


「乳女をこのまま閉じ込めてしまえば良い。そうすればお前も果南も助かる」


「野呂さんを助けに来たのにワケの分からない世界に閉じ込めるって言ってるのか? そんなの駄目だ」


「シュロロロ。まぁ、小僧はそう言うだろうとは思っていたがな」


「ねぇ、見抜君」


 美幸は真に一歩近づいて言った。


「別に”私は困っていない”のだけれど、具体的にはどうやって私の力になろうと思ってるの?」


「どうやってと言われると」


 呪詛返しという単語を使って良いのか迷った真だったが、ふと思い付いたことをナルマに囁いた。


「呪詛返しの許諾っていうのは、『呪詛返しに賛成します』って言わないと駄目なの? それとも、どんな言い方であっても僕やナルマが呪詛返しに賛成したと思えるような事を言えば良いの?」


「試したことは無いが、呪いを手放すことに異議を唱えなければ、それを呪詛返しの許諾だと判断して実行することは出来るはずだ。声に出そうが頷こうが文字にして表現しようが、とにかく呪いを手放すことの許しを貰えばそれで良い」


「そっか。だったらまだ間に合うかもしれない」


 ナルマは「お手並み拝見」と言わんばかりにシュロロロと音を立てて笑った。


「野呂さん。野呂さんを苦しめている不思議な力を、もしも手放すことが出来るとしたらどう思う?」


「それは」


 美幸の表情が突然歪み始めた。本心と呪いが混ざりあったせいなのか分からないが、真は続きを待った。


「手放さなかったらどうなるの?」


「どうなるのか、は正直僕も分からないんだけど、もしも苦しい思いをしてきたのなら、それが続くことになると思うよ」


「”私はそれで構わないよ。苦しい思いなんてしてないから”」


 よし。喋っているのは呪いかもしれないが、この言葉が嘘だということは彼女の本心はまだ残っている。そして「苦しい思いをしたくない」と言っている。


 呪いが嘘を付くのなら「”呪いを手放したくない”」と言わせることが出来れば、その言葉は「野呂美幸の本心は呪いを手放したい」とも解釈することが出来る。

 そうすれば呪詛返しの条件を満たすハズだ。


「手放したくないの?」


「て、手放し」


 そこまで言ってから美幸は口を閉じた。真は此方の作戦が勘付かれたのかと思い全身から冷や汗が吹き出た。


「手放したらどうなるの?」


 真は油断した。


 手放すことにデメリットが無いことを伝えれば、その先にある自分の求めた応えが貰えるのだと思い、いらぬことまで口にした。


「手放しても野呂さんには何も悪いことは無いよ。野呂さんに呪いをかけた人はどうなるのか分からないけど」


 真の言葉に美幸は目を丸くした。


「じゃあ、私の代わりにその人が同じ目に遭うの?」


 マズいと思った真だったが、もう遅かった。真は慌てて身振り手振りを加えながら説明した。


「いや、とにかく野呂さんには何のデメリットも無いよって言いたかっただけで。それに野呂さんに呪いを掛けた奴がいるのなら、因果応報というか自業自得というか」


 美幸はハッとしたように口を開けた。

 そして、頭の中を過った可能性を咀嚼し、ある程度現実味を帯びていることを理解した。


「だったら嫌。私はこのままで良い」


 その言葉は嘘ではなかった。


 野呂美幸は、自らの意思で呪いを手放さないことを選んだ。


「え? な、何で?」


「呪いなんてモノがあるかは別にして、見抜君の言うように私の不幸が誰かに移るのなら私はそんなの望まない。このままで良い」


「え、呪いを掛けた人を庇うの? おかしくない? 何にも悪いことしてない人に呪いを掛けるだなんて、呪いを掛けた人が絶対に悪いじゃん」


「私が悪いの。私が奪っちゃったから」


 美幸は真にもナルマにも聞き取れない程に小さな声で呟いてから、真を睨みつけて歯軋りをした。


 ギシギシギシシ。


 それは最後の希望が潰えたことによる絶望から湧き上がる怒り。そして、何か強い覚悟を決めたことを意味していた。


「の、野呂さんが責任を感じることは無いよ。呪いを掛けた奴が悪い。そんなの当たり前じゃない? 少なくともこんな話を持ちかけてる僕にも責任はあるよ。だからさ」


 真が話している最中に、美幸はゆっくりと真に歩み寄って腕を広げた。そして、突然のことに何の反応もすることが出来なかった真をそのまま抱き締めた。

 美幸は腕を絡ませ、足を絡ませ、頬を擦り寄せ、全身をビッタリと密着させ、蛇が獲物を絞め殺すように全力で真を抱き締めた。


「ま、待って、野呂さん。駄目だ、こんなの」


 美幸の身体から火傷するのではないかと思える程の高温のナニカが真の身体に流れ込んだ。

 真は必死に藻掻いたが、美幸の抱擁から脱出することは出来なかった。次第に顔を真っ青にし、歯をガチガチと鳴らし、何処にも焦点の合っていない死んだ目を四方八方に向けながら動かなくなった。


 美幸が真の身体を解放すると、真の身体はスライムのようにその場にズルズルと崩れ落ちた。

 真の身体はしばらく痙攣を続けていたが、次第に電池の切れかけた玩具のように動きが不規則になり、最後にはピタリと動かなくなった。


「ごめんね。でも悪いのは見抜君だから」


 美幸は啜り泣きながら謝罪の言葉を口にすると、呆然と立ち尽くしながら動かなくなった真を見つめていた。

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