金曜日の特権

 金曜日の夜は憂鬱だ。飲み会文化がすっかり消えた社内を抜けると、陽気で眩しい繁華街。老いも若きも浮かれに浮かれている。

 くたくたで自炊をする気力もないし、ご褒美とまではいかなくてもちょっと贅沢をしたい気分。でも、出ている看板にはお酒の名前ばかりが並ぶ。

 呑めない人間には、何もかもが厳しい。

 たまには誰かとご飯を食べに行くけれど、金曜日の度に誘うわけにもいかないし、向こうにだって都合がある。私とて体力はギリギリ、お財布事情も決して良くはない。

 まっすぐ帰るだけなのも味気ないけれど、賑わう街を進むにつれて寄り道する気は消えていく。

 スマホを見てもダイレクトメールのお知らせばかり。自分から誘う勇気も体力もないし、とにかくお腹がすいてきた。一人は身軽で好きなのに、矛盾ばかりが頭を巡る。

「どうせ土日は引きこもりだし」

 チェーン店もいいな、と匂いにつられてふらふら進む。中華料理の定食、にんにくたっぷりでも心配ない。目に飛び込んできた文字ですっかりその気になっていたのに、店の前には行列が出来ていた。

 団体はいなくても、大抵は複数人。中には一人の人もいる。大きな窓からちらりと覗くと、どの卓にも大きなジョッキ。私には苦くて呑めないビール、中華料理には抜群に合うんだろうな。

「お名前を書いてお待ちください」

 ばたばたと動き回る店員さんは、遠くの通路から声をかける。

 ずらりと名簿に並ぶ名前の量、どうやってもすぐに入れそうにない。五日間の労働でくたくたの体と待ち時間を天秤にかけるまでもなく。

 虚しい気持ちを引きずりながら、とぼとぼマンションへ向かった。


 少し遠回りになるから普段は通らない路地に入ると、初めて見る壁に遭遇した。まっすぐ行くと、品揃え豊富でリーズナブルなスーパーがある。体力を振り絞ってお惣菜のタイムセールを狙っていたのに、壁の向こうから漂う匂いに思わず足が止まる。

 香ばしくてパンチのあるにんにくの匂い。くもりガラスの引き戸が、何も言わずに私を誘う。風もないのに揺らめく暖簾と、ほんのりオレンジの光を放つランプには、茶釜の二文字。

 引き戸の脇に小さな看板がぶら下がっていて、引き寄せられるように足が向く。

 【本日、餃子定食のみ 天津飯もできます】

 完全に和の造りなのに、餃子定食と天津飯。わけがわからなくて、暖簾と看板を見比べる。ただ、中からの香りは明らかに餃子だ。

 諦めた大混雑の光景に浮かぶ、焼きたて餃子。後ろ髪を引かれまくっているから、ここにきて目にすると我慢が出来なくなる。

 和風餃子かもしれないし、天津飯も出汁の味かも。外観からして高級そうだから、手持ちの現金でギリギリかもしれない。定食と書かれているから、お酒の心配だけはしなくてよさそう。

 入ったことのないお店は、いつも躊躇ってしまう。美味しくなかったらどうしよう、雰囲気が悪かったら、値段が高かったら。値段が書かれていないとなると更に。

「ごちそうさまでしたぁ」

 がらがら内側から元気よく開いた引き戸。出てきたのはまだ大学生くらいの男の子だった。ちょっとてかった顔は、にんにくの匂いをまとって満足げ。

 戸の前に立っていた私に驚いて、小さくうおぉと唸った彼は、繁華街の方向へと足を進めた。まだ幼さの残る子が一人で出入りするくらいだから、結構カジュアルな店なのかも。

 迷いながらもそのまま引き戸に手をかけて、落ち着いた照明の店の中へ。

「いらっしゃいませ。今片付けますから、奥の席へどうぞ」

 出迎えてくれたのは、パリッとしたコックコートがよく似合う人だった。清潔感があって笑顔も明るく、カウンターの中からてきぱきと片付けをする。

 ここまでくると、奇妙なアンバランスがクセになりそうだった。


 餃子定食のみというシンプルさなのに、組み合わせが案外難しい。

 焼き餃子六個にスープと小鉢が基本のスタイル。炊きたてのご飯はおかわり無料。スープは鶏ガラのシンプルな卵とワカメのスープだそうだ。

 料金を追加すると、ぐんと選択肢が広がる。餃子を倍にしたダブル。おかわりは出来なくなるが、天津飯に変更という手も。

 小鉢は中華風春雨サラダか、もやしの和物。カウンターに乗った大皿の中に入っているのがそうだろう。やはり追加料金で小鉢の二種盛りも可能らしい。斜向かいに座る人が実際に頼んでいた。

 餃子が食べたくて飛び込んだのに、天津飯も小鉢もとよそ見をしている。

 お腹はぺこぺこ、たっぷり餃子を食べるためにダブルにするか。大冒険をして天津飯に変更しようか。小鉢が二種類あってもいい気がする。

 メニューを睨みつけていると、隣からふにゃあと気の抜けた音が一つ。席に案内された時から疑問になっていた、もこもこの動物があくびをした。

 高い脚の専用らしき椅子に、ちょこんと丸まって気持ちよさげにすやすや。目の前のカウンターには枡に入れられたお水が置かれていて、なんだかお供え物のように見える。

 多分、狸だ。独特の顔の模様と、ふかふかの毛並み。犬にに頼んでいたシルエットだけれど、顔は平たくて耳は小さい。寝起きだからか個体差なのか、目はとろんと気だるげでなんだかくたびれているようだ。

 衛生管理を気にするところなのだろうが、珍しい光景につい釘付けになってしまう。案外臭いはなくて、毛もつやつや。

 そんな狸を見つめていたら、向こうも視線に気が付いたのかこちらを見つめ返す。でれっと笑った口からちょこんとした牙が覗く。

 全部食べちゃえばいいのに。

 そう言われた気がして、思わずおしぼりをぎゅっと握った。先ほど出されたお冷を一口、もう一度狸を見ると素知らぬ顔で枡の中の水をぺろりと舐めている。

 よし、決めた。今日の夕飯はご褒美にすると決めたから。

「すみません、注文よろしいですか」


 カウンター越しに頼んだものが配膳されて、無意識に小さく声を出してしまった。普段はほとんど食べた物の写真なんて撮らないのに、我慢出来なくてスマホを取り出す。

「餃子ダブル、天津飯、小鉢の二種盛りです。お醤油とお酢、ラー油はご自由にお使いください」

 店主は調味料の並んだお盆を手で促して、次の注文を取りに向かった。どうやら、彼女が一人で切り盛りしているらしい。次から次へとお客さんは出入りするが、てきぱき料理が提供されていく。

 そわそわしつつ、小皿に調味料を少しずつ。その間にも、香ばしい餃子の匂いが早く食べろと私を誘っていた。

 普段はサラダから箸をつけてさっぱり入るのに、今日は特別。みっちり餡の詰まった焼き餃子を軽くタレにつけたら、息で軽く冷まして一気にがぶり。

 カリッと焼けた皮の内側は、火傷しそうなほど熱い。旨味の溶け出した肉汁がじゅわっと溢れて、濃いにんにくの香りが口中に広がる。蒸気とともにパンチの効いた匂いが鼻を通り抜けて、鼻の下まで熱い。

 もう一口、が止まらない。夢中になって三つほど平らげてお冷を勢いよく喉に流し込む。表面には油がぷかり。気にせず春雨サラダをつまむと、ほのかな酸味で少しだけリセットされた。

 もやしの和物には、すりおろしたにんにくが入っている。器を持ってから気が付いたけれど、今夜の私は気にしない。しゃきっとした歯ごたえに、しっかりとしたごま油の香りが爽やかだ。

 天津飯をどのタイミングでいこうか考えながら、もう一つ餃子を。これまたあつあつの鶏ガラスープをスプーンで一口すすって、そのまま天津飯を掬うことにした。

「んっ、あっつ」

 甘くて酸っぱいとろとろの甘酢あんに、ちょっと固めの卵から見え隠れするカニカマ。中にはほかほかの白米がふんわり登場。ふわとろもいいけど、レトロスタイルの固めも美味しい。甘酢あんがケチャップ風味なのも癖になりそう。

 紺のモダンなコックコートを着たシェフが、和風の小料理屋といった内装の店で出すものとは思えないが。

 むにゅっとしたカニカマの味を口に残しつつ、箸に持ち替えてまた餃子を。春雨サラダと和物にも手を伸ばしながら、スープのワカメをもにゅもにゅと咀嚼する。

 最後の一口は、サラダでさっぱりさせるか。甘酢あんでとろけるか。それとも。

「やっぱり餃子かな」

 心の中でそう呟いて、タレを染み込ませた餃子を丸ごと一つ、豪快に頬張った。


 スーパーで牛乳を買って、一応臭い消し。すれ違った人たちに匂いがバレているかもしれない。でも、金曜日の夜だから気にしないことにした。

 少し重たい胃袋と、心なしかキツいジャケットも気にしない。金曜日を一人で楽しむ術を、一つ増やしただけでなんだか心が楽になる。

 ふと覗いたタイムセールのお惣菜は、すっかり跡形もなくなっていた。いつもと違う過ごし方も、新鮮でいいものだ。

「写真、撮り忘れてたな」

 餃子を待ちきれなくて、スマホは机の上に置いたまま。部屋の鍵を開けた直後、そのことに気が付いた。おかげでスマホケースには、ところどころ油の飛んだ跡がついている。

 また来週も行こうかな、日替わりだとしたら何が食べられるのだろう。見た目も綺麗だったから、次こそは写真を撮りたい。でも多分、きらきら光るような料理を目の前にしたら、写真なんてどうでもよくなるんだろう。

 うきうきしながらティッシュでスマホケースを拭いて、牛乳パックのフタを開けた。




 個数の調整もしたけれど、やっぱりちょうどで完売御礼。謎のたぬきパワーのおかげかもしれない。

 それにしたって、お昼すぎから餡をこねこね、皮で包んで並べるのを数時間。小鉢やスープはまだしも、ずっと餃子でちまちま作業をしていたから手首や肘が重たくなっている。

「機械ってすごいんだわ、やっぱり」

「そらそうよ、人間が疲れちまうから機械を作るわけだろ」

「たぬちゃんパワーでどうにかなんないの?」

「仕方ねえなぁ、ほれ」

 戸棚をがさごそ、ぽんっと飛び出てきたのは普通の湿布。この前買ったばかりの使いかけだ。

 私がどうにかしてほしいのは、餃子の大量生産の話なんだけど。いや、今に限っては肘と手首もなんとかしたい。

 それにしたって情緒がないというか、現実的というか。一風変わった喋るたぬきなのに、肝心な時にひっくり返るし、目に見える魔法も使えない。

 どっこいしょ、と椅子に座り直して、彼はお箸を再び手にした。

「具が余ったら卵焼き、皮が余ったらピザってか。こりゃいいね」

「揚げ餃子もなかなかだったでしょ」

「旨くてすぐ平らげちまったなぁ」

 開店前の試食でばくばく食べすぎて焼き餃子に飽きたのと、いつもの席ではお箸が持てないのと。正確には、持てるけど大騒ぎになるのを避けるためなのと。

 肴代わりに揚げ餃子を半分に割って出したら、爪楊枝でぷすぷす刺して食べていた。それもちょっと目立つ気がする。

「金曜日の夜だから、やっぱりみんなにんにく食べたいし気にしないのが良かったのかも」

「俺たちゃ関係ねえけどな」

 でへへ、なんて笑いながら、余った具のおつまみをもぐもぐ。能天気なたぬちゃんは、グラスにたっぷり注いだビールをかぱっと一気に飲み干した。

 世間の大半は明日がお休み。臭かろうが気にしないし、人に会う予定がなければ更に気に留めない。

 でもこの店は、明日も一応営業予定なので。

「はい、ビール終わり。牛乳たっぷり飲んでね」

「うわっ、ガキじゃねんだぞ、なんだって牛の乳なんざ」

「にんにく臭には牛乳が効くの。今夜は歯磨きもみっちりだよ」

「げぇえっ! 勘弁してくれぇ」

 晩酌で油断していたたぬちゃんは、じたばた抵抗を試みる。牛乳はまだしも、私のみっちり歯磨きは大の苦手。毎晩お風呂のついでにしゃかしゃかくらいで済ますから。

 餃子作りに抑え込み歯磨き、トドメに寝相の悪さ。

「肩まで痛くなってきたんだけど」

「うげぇ、湿布臭え……」

「寝てる間にたぬちゃんが踏んづけてきたからでしょうよ」

 今日はなるべく形の出ないようなものを。煮込んで負担を軽めに。包丁を持つ手は震えるし、混ぜたり和えたりもピキッとくる。

 私が湿布臭いのがバレないように、ちょっと香りの強い料理と、いつもよりせかせか動くことで誤魔化すしかなかった。

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