苦いものでも悪くない
参ったな。完全に間違えた。
入り口の近くに置いてあったメニューを読まずに席に着いたのが良くなかった。しかもカウンターの一番奥。正確にはその一つ手前。
隣にはぷうぷう鼻息を鳴らして寝ている謎の茶色い毛玉。逆隣はちゃんとした人間だけど、どうやらオーダーに問題はない様子。スマホをたぷたぷ、出来上がるのを静かに待っている。
今更やっぱりキャンセルで、なんて言いだしづらい。とはいえメニューも決まらない。
出されてしばらく経つ湯呑みに手をつけてしまったので余計に、だ。
悩んでいたら、湯気がふわっと俺の前を通り過ぎた。ぴたりとスマホから離れる指先が、おしぼりを掴んでウォーミングアップ。カウンター越しに隣へ置かれたのは、炊きたての白米と緑色の野菜。
「お待たせしました、ピーマンの肉詰めにツナのおひたしです」
「……すみません。やっぱりさっきの、追加していいですか?」
「大歓迎です。すぐご用意しますね」
隣の人は、多分俺よりちょっと上の女の人。この席に案内される前に注文は済んでいたらしい。その時、何かやり取りしたんだろう。
一人で切り盛りしているようで、カウンターの中には店主の女性だけ。爽やかな雰囲気と、しっかりした和風の小料理屋なのにシェフみたいな服装なのが目を引く。
店主はカウンターの端に置かれた大皿の中から菜箸でおかずを拾う。あの皿の中身は、しっかり焼いた卵焼きかオムレツといったところか。濃いめの黄色が目に飛び込んできた。
「お待たせしました。スパニッシュオムレツです」
ことんと置かれた小皿の上を横目で観察して、思わず息が詰まる。
ケーキのように三角に切られた断面から見えている、細かく刻まれた野菜たち。オレンジのものはにんじん、白っぽいのはたまねぎ、鮮やかな緑は。
「ピーマン、だな」
どうやらこの店は、定番メニューがないらしい。毎日仕入れたもので日替わりの料理を振る舞っているのだろう。初めて入った店だから、システムが分からなかった。
俺は運が悪い。良くない日に来てしまったようだ。
恥ずかしながら、俺はピーマンが嫌いだ。
毎度ながら、酒の席は苦手で逃げたくなる。最近は、ハラスメントや衛生面を盾にして断れるから、仕事の場合は極力そうしていた。いい世の中になったものだ。
ただ、友人との付き合いとなると話は別。なぜか毎回居酒屋に行く羽目になる。
「その顔でお酒飲めないの?」
「こいつ、この顔でピーマン食えないんだよ」
老け顔なのは自覚しているし、アルコールが分解出来ないのは体質だ。
どうしようもないことでからかわれたり、笑われたり。ネタに使われるだけいいか、と思っていた時期もあったが、もうそろそろそんな年齢でもない。
人付き合いも億劫になって、一人で過ごすことが増えてきた。たまにオンラインゲームで見知らぬ誰かと交流する以外は、職場か既存の人間関係ばかり。
それでも、同窓会に誘われた時は、なぜかちょっと嬉しかった。若干の下心もあったけれど、それ以上に懐かしい人間に会って昔のように話がしたかったからだ。
酒なんて飲んでなくて、ピーマンが嫌いなやつが多かったはずなのに。
期待した自分の浅はかさを嘆きつつ、早々に会場を後にした。
二次会ありきで昼過ぎから立食形式。軽食ばかりで、電車を降りる頃には空腹感でダルいくらい。すっかり夕暮れ時だし、街灯もちらほら。休日だから商店街は普段より賑わっている。
何か食べて帰りたいが、具体的にこれというものもなく。
ふらふらと歩いて、入ったことのない横道へ。その先は自分のアパートとは反対方向の住宅街。ちらほらと通る人たちは、自宅へ向かっている様子だ。
飲食店はないだろうと引き返そうとしたところに、ふと目に飛び込んできたのが、茶釜と書かれた小さなランプだった。ささやかな光が、今は妙に気になる。
酒の出そうな店だけど、必ずしも飲まないといけないわけではないはずだ。
風に乗って漂ってくる濃いめの香りに惹かれて、勢い任せにくもりガラスの引き戸に手をかけた。
隣の席の毛玉は、もそもそ動いてのっそり起き上がった。丸くなって寝ていたけれど、起きても丸い。あくびをすると、結構鋭い牙がにょきっと見える。
「おっ、起きたぬー」
カウンターの向こうの店主は、その様子に気が付いて声をかけた。彼女の口ぶりと見た目の感じで、多分この毛玉はタヌキだ。
こんなところでタヌキが何を?
思考が追いつかなくてぼんやりしていたら、タヌキの前にあれやこれやと出てくる。枡に入った透明な液体――水だろう、ほかほかのおしぼり。そして。
「いつの間にか好きになっちゃって」
店主が弾んだ声で話しかける。広げたおしぼりをマットように踏んで、前足を拭くタヌキがにんまり笑った。
縦にざっくり切られた鮮やかな緑のピーマンと、その中に乗せられた肉味噌。タヌキの視線を独り占め。ピーマンは生のようで、つやつやと光って見える。
はふん、とタヌキは嬉しそうに鼻を鳴らして、カウンターへ身を乗り出した。犬と同じなのか、尻尾が揺れているのがなんだか可愛らしい。
ぺろりと水を一口、身をよじって笑うとまた一口。前足でピーマンをたぐり寄せると、ぱかっと大きく口を開いて放り込んだ。
ざくざく、ぽりぽり。
真っ赤な口の中で、牙に砕かれていくピーマン。食べこぼすこともなく、器用に咀嚼しているうちに、ぺろりと消えてしまう。
この不思議な光景に、思わず釘付け。
ピーマンなのに、旨そう。
じわっと涎が溢れてきて、自分でも驚いた。一口くらいは食べてみようか。最近きちんと食べていなかったし、年齢を重ねて食べられるようになっているかも。
タヌキはもう一つを口に放り込むと、むしゃむしゃしながらこちらを見上げる。何か言いたげな瞳をして。
「お決まりですか?」
店主に声をかけられてドキッとした。さすがに悩みすぎだろう。どうしたものかと答えに迷っていると、彼女は察したように続けた。
「……ピーマン、苦手です?」
「すみません、座ってから気が付きまして」
「ちょうど今日がピーマンメニューばかりで……ご飯とだし巻き卵とお味噌汁の定食ならお出しできます」
サイドメニューにあるだし巻き卵、気にはなっていた。そういう頼み方もできるのか。
でも、今はなんだか違う。
「いえ、なんだかピーマン食べてみたくなっていて。おすすめがあればお願いしたいです」
「でしたら、青椒肉絲はいかがでしょう? 味も濃い目で食べやすいですよ」
今までピーマンがあることで、匂いは気になっていたけど食べたことがなかった青椒肉絲。これを機にチャレンジだ。
「青椒肉絲、よろしくお願いします」
勢い任せのオーダーは、なんだか声が震えていた。
記憶より苦くない。青臭さは若干あれど、しゃきしゃきして案外いける。
むしろ結構、いや、かなりうまい。
肉とたけのこと、なにより濃い目のタレのおかげもあって箸が止まらない。炊きたての白米がどんどん減っていく。ほかほかの米の甘みと相性抜群で、気付けばおかわりをもらっていた。
野菜炒めで出された時はぐにゅっとしていた気がするし、全部がピーマンっぽい臭いになるのが嫌だった。肉詰めはダイレクトに食べている感じで強烈な苦み。
実家を出てからは、飯を自由に食べられるから避けていたのに。
「ん、うまっ……」
思わず独り言が出る。あつあつの白米をかき込んでは、はふっと息をつく。時々挟む甘めの味噌汁と、ぱりぱりの浅漬けが楽しい。
隣のタヌキは店内をぐるりと眺めては、枡の中身をぺろりと舐める。時々ピーマンを齧って、尻尾を揺らした。
さっきまでの湿っぽい気持ちが、一口食べるごとにするりと落ちていく。
残っていた湯呑みの中味を飲み干すと、なんだか体が軽くて気分も晴れやか。
「最近のピーマンって、品種改良を重ねてるから昔より食べやすくて苦みが少ないんですよ」
「品種改良」
「調理方法や調味料で食べやすくなったりしますし、経験を重ねて食べれるようになったり……いいかも、って食べ物が増えると、なんか楽しいですよねぇ」
「おかげさまで」
カウンター越しに釣り銭の受け渡しをしながら、店主は嬉しそうに笑っていた。姿形は似ていないが、隣でまたうとうとしているタヌキと笑い方がなんだか重なる。
せっかく話しかけてくれたのに、気の利いた返事も出来ないまま財布をポケットにしまった。
「たしかに、ちょっと今、楽しいです」
「それはよかった。またどうぞ」
ピーマンを食べられただけで大袈裟かもしれないが、自分の中で何か一つ乗り越えた気がする。これくらいのことで言われてきた言葉も、急に馬鹿馬鹿しくなってきた。
席を立つと、隣のタヌキはうにゅう、とかうゆん、とか高めの声で鳴いてこちらを見上げた。タヌキの鳴き声でいいのだろうか。もっと犬っぽいものを想像していたのだけれど。
見慣れてきた気だるげな瞼が、よかったねと言っているように感じる。
引き戸を開いた先は、既に真っ暗。住宅街の向こう側に見える満月が、今日は一段と眩しい。
「ああ、オムレツももらえばよかった」
隣の人のスパニッシュオムレツ、美味しそうだったな。
たまには自分でも作ってみようか、なんて考えながら、軽くなった足でスーパーに向かった。
ばりぼりむしゃむしゃ。たぬちゃんは体の大きさ以上にご飯を食べる。
「こいつぁ旨えな、生でも食える」
「結構賭けに出たけど、ピーマンまみれでも上手くいったわね」
「昔食ったのは苦くてエグかったもんだけど、こりゃいいや。歯ごたえがあってたまらん」
間違えて頼みすぎたピーマンは、あっという間に消えていく。肉味噌乗せにしたら、まずたぬちゃんがお気に召した。副菜としてお店に出したら、案外みんなおっかなびっくり食べてくれて大好評。
あれだけ大嫌いと騒いだ呑兵衛のたぬきは、今や毎日せがんでくるくらい。
「もう一箱ピーマンが届くように念じといてやるかね」
「よしなさいよ、ピーマンで回すの結構大変なんだから」
ピーマンに抵抗がないなら肉詰め、ちょっと微妙くらいならツナや鰹節とおひたしに。煮浸しも反応が良かった。
苦手な人にはオムレツか、濃い味の中華で。青椒肉絲とか回鍋肉、肉味噌炒めも良かったな。
でも、持てるレパートリーをここ数日で出し切ったので、しばらくはいい。だんだんピーマンに飽きてきた。
奥の手はナポリタンかオムライス、と頭を抱えていたら今日でひとまず売り切れ。腐る前になんとかなって、やっと終わったのかとほっとしているのだから。
「ピーマンも昔とは随分変わったモンだねぇ」
「食べやすくなって好かれた方が売れるからね。まあ、世の中の野菜なんてだいたいそんなもんでしょ」
「そうさなぁ。芋もえらい甘くなったし、見たことねえモンだって増えたもんだ」
「時代に合わせて、変わっても良いものだってあるわけですよ」
パリッとしゃきしゃき、歯ごたえ抜群のピーマンに、濃い目の甘辛肉味噌がよく合う。最後の一つはたぬちゃんに。彼はむふっと笑って鼻を鳴らす。
余ったオムレツにケチャップをかけて一口。こっちも我ながら美味しくできている。空のグラスに手酌でビールを注ぐと、たぬちゃんはこっちもと残り少ない自分のグラスを差し出した。
どうしてもとたぬちゃんがせがむので、我が家はいつも瓶ビール。わざわざケースで酒屋さんに配達してもらっている。
「ビールはいつでも旨え」
「瓶だと格別だよねぇ」
「タヌキのふりも疲れるぜ」
でへへ、とにやついてビールをごくごく。見た目は完全にたぬきだけど、中身はどうやら違うらしい。普通のたぬきは喋らないし、お箸も使わない。
オムレツをひょいっとお箸で摘んで、真っ赤なお口に放り込む。たぬちゃんは誰よりも美味しそうに食べてくれるから、細かいことは気にしないことにしているのだ。
「怪しまれないように手で食べられるおつまみ出す私も疲れる」
「箸持った日にゃ、大騒ぎになっちまうからな」
「お皿から直でいけば?」
「ば、馬っ鹿野郎! そんなタヌキみてえなことが出来るかっ!」
「……たぬきじゃん」
「違えって言ってんだろ!」
ちょっとどんくさいし、ご機嫌だとうゆうゆ鳴くし、びっくりすると死んだふりするし。彼のこだわりはいまいちよく分からない。
とりあえず、ピーマンという楽しみを伝えられたことはシェフとして喜ばしいことだ。段ボールに残った最後の一個を何にしようか。シメだから炭水化物かしら。
ビールを片手に、揺れるしっぽを見ながらケチャップの残量に思いを馳せていた。
「なんだこれ、麺がすすれねえんだぞ俺は。タヌキだか……フォークで巻くだあ? お、おお……うーん、こいつはなんとも。旨えな」
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