丼の夜があっても

 職場の人付き合いは嫌いではないけれど、飲み会となると話は別。日々の息抜きにと誘われても、なんだか肌に合わなくて断るか早々に帰ってしまう。

 お酒が飲めないのもある。でも、それ以上に、あのわいわい騒がしいのが苦手。カラオケやお祭りも同じような感覚だから、性格もあるのかもしれない。

「はぁ……ご飯、めんどくさい……」

 夫はいい歳をして今夜は得意先との飲み会だとはしゃいでいた。子どもたちももうとっくに家を出ている。元々家事が好きなわけでもない。夫がいるから仕方なく。

 家事から逃げる言い訳のためにパートをしているのに、そこでもたまに開かれる飲み会で、逃げるために家事を引き合いに出していた。

 新婚の時ほど好きではないけれど、離婚したいほど夫が嫌いでもないし、とはいえ一人の時くらい家事はしたくないし。

 波風立てないために、顔だけ出した職場の飲み会。参加費を払っていないから、何もいただかずに挨拶だけしてそそくさと帰る。しばらくアルバイトで入っている大学生の子も、同じようにしてさっさと駅へ向かっていた。

「若い子でも、飲み会が苦手な子っているのね」

 お酒が飲めたら、あの雰囲気が好きなら、もっと楽しくいられるのかしら。

 そんなことを思うと、どんどん憂鬱になる。

 お酒が飲めなくても楽しくお付き合いできるお友達だっているし、家族もそんなことを気にしない。賑やかな場所じゃなくても、楽しめるところはいっぱいある。

 分かってはいても、なんだか虚しくなってしまった。


 とりあえず夕飯を、と商店街をとぼとぼ歩いていたはずなのに、知らない脇道へ逸れている。頭の中にネガティブが広がって気が付いていなかったらしい。

 普段は来ない方向の、見覚えのない住宅街の手前。迷ってしまう前に引き返そうと踵を返す。

 明るめの街灯の中で、ふわりと浮かぶような漆喰の壁が、私の足を止めた。

 茶釜、と書かれたオレンジの光を灯すランプ。くもりガラスの引き戸が優しく輝いて、夜風もないのにそよそよ揺れる暖簾がこっちにおいでと手招きしている。

 見た目は完全にお酒が出るお店。料亭というより、小料理屋といったような。私には向いてないと思うわりに、なかなか足は動いてくれない。

 くもりガラスの向こうにゆらゆら人影が現れて、からからと引き戸が開いた。甘辛いお醤油とおだしの香りが隙間から広がってくる。出てきたのは私の娘くらいの人。

 満足げな表情と、軽い足取り。顔が明るいのはメイクとか若さとは別のもの。

 ちらりと見えるお店の中は、すれ違いの女の人が座っていたであろう奥の空席が一つだけ。カウンター席は数は多くないのに満席だった。

 たまにはちょっと、贅沢したって。

 一人で食べるだけなら、飲み会の参加費よりは安いかも。普段の節約だとか節制だとかは、何故か思い浮かばない。

 自分のパート代を少しだけ使ってみたくなって、穏やかな灯りの中に飛び込んだ。


 カウンターの中から案内された席は、奥から一つ手前。店の外からは見えなかった一番奥には、見慣れないお客さんが座っている。

「今日は丼の日なんです。小鉢は向こうから選んでいただけて、丼はこの中から。お味噌汁は大根のみです」

 てっきり寡黙な男性の板前さんとか、自分くらいの着物の女性が相手をするのかと思っていたら、シェフのような格好の女性が出てきて驚いた。てきぱきとメニューとお冷やを出される。

 周りを見ると、みんな丼をかきこんでいた。それどころか、お酒の気配がないし、それぞれ一人で来ているみたい。

 おしぼりを受け取りながら、シェフの彼女が指した方を見る。絵に描いたような小料理屋のカウンターに並ぶ、大皿入りのお惣菜。

 ふわぁ、と隣の席から可愛いあくびが飛び出してきた。椅子の上に丸まっていたもこもこは、小さな耳ととろんとした目のタヌキ。短めの手を器用に使って、テーブルに置いてるあったお茶わんを手繰り寄せる。

「おっ、起きた。はい、剥き枝豆」

 あくびに気付いたシェフが、ことんと小皿をタヌキの前に置く。ぱあっと目をきらきらさせたタヌキは、人間みたいに枝豆をつまんで食べ始めた。

「ほ、本物……?」

 私の独り言が聞こえたみたい。タヌキはにんまり笑うと、枝豆をむしゃむしゃしながらこちらに顔を向けた。


 カツ丼はこの歳になるとちょっとつらい。イワシの蒲焼丼も魅力的だったけど、ちょうどL字カウンターの先に見えた丼が目に入ってたまらなくなった。

「おまたせしました、肉豆腐丼と、がんもどきの炊いたんです」

「ありがとうございます、いただきます」

 カウンター越しに運ばれた四角いお盆の上を見て、お礼もそこそこに思わずにやけてしまう。

 シンプルな十草柄の丼に、ほかほかの湯気が立つ。真ん中にはタレが染み込んだ茶色いお豆腐。脇を埋める薄切り牛肉としらたきも、しっかり茶色が染み込んでいる。ぱらぱらと散らされたあさつきの綺麗なこと。

 青菜とがんもどきの煮物は、澄んだ色のおだしで光って見えた。このお店では人気の一品なのか、私の分でちょうど売り切れ。なんだかちょっと得した気分だ。

 他人の作ったお味噌汁なんてどのくらいぶりだろう。千切りにされた大根は、しっかり形が残っているのにとろける食感。甘みのあるお味噌をたっぷり吸っていた。

「わ、おいしっ……」

 つい感想が口から出てしまうのは年齢のせいだろうか。恥ずかしいと思っているのに、熱々の豆腐を噛んだ瞬間、じゅわっと染み出た甘辛のタレに思わず熱いと言ってしまう。

 肉豆腐で見えていなかった炊きたてのご飯にも、たっぷりタレがかかっていた。牛から出た脂の艶めきが、照明で揺れて眩しい。

 がっつりした丼も、久しぶりな気がして夢中になって食べ進める。たまに挟むがんもどきが、とっても優しい味で口の中もさっぱり。

 すっかり存在を忘れかけていた隣の席の主が、突然こつこつと黒い肉球と爪でカウンターを叩いた。片付けをしていたのか、厨房の暖簾からシェフがひょこっと顔を出す。

「どうしたぬー……あっ、すみません。生姜って大丈夫ですか?」

「生姜ですか? 好きですけど」

「それなら良かった。出し忘れてました、新生姜。肉豆腐丼の方にはお出ししてるんです。申し訳ございませんでした」

 ぱたぱたと彼女は話しながらカウンターの向こうで小皿を取り出した。タッパーに詰まった桜色の薄切り生姜が盛られて、私の目の前へ。

 ガリのようだけど、肉豆腐と合うのかしら。一切れ摘んで口に含むと、甘さ控えめの酢漬けだった。シャキッとした歯ごたえに、ピリッとくる辛味。紅生姜に近い味で、これはたしかに肉豆腐丼に合う。

「うん、合うわぁ」

「そう仰っていただけると光栄です」

「すみません、独り言……」

「いえいえ、美味しいって声を聞けるのは嬉しいですよ」

 にかっと爽やかに笑って、シェフは他のお客さんの会計に向かった。


 入れ代わり立ち代わり、行列が出来ている様子はないのに常に満席。カウンターの上のおかずも少しずつ減っていく。

 大満足のお腹に、じんわり染みる温かいお茶。隣の席のタヌキは、お茶碗の中の水をぺろぺろ舐めては、出入りするお客さんを観察していた。時々にんまり笑いながら。

「初めて来たんですけど、こちらのお店は長いんですか?」

「いえ、そこまで長くはないです」

「すごく美味しかったです、また来たいわ」

「どうぞどうぞ。一人でまったりな方、大歓迎ですから」

 お会計の時、ついシェフに話しかけてしまうほど、私は上機嫌になっていた。とろんとした瞳で隣から見つめてくるタヌキのせいなのか、カウンター越しにお釣りを渡す爽やかな笑顔のせいなのか。

 お札を出して、小銭が戻ってくるほどお手頃価格だとは思わなかった。もっと払ってもおかしくないのに。

「ありがとうございました」

 気持ちの良くなる挨拶に見送られて、くもりガラスの引き戸を閉めた。外の風は少し冷たいけれど、体の中からぽかぽかしていてちょうどいい。

 ふと視線を横に逸らしたら、茶釜と書かれたランプを見つめて立ち尽くしている子が一人。大学生くらいだろうか、今どきの男の子といった具合でちょっと前の息子を思い出す。

 気になるけど入りづらいのかしら。美味しそうな匂いだけど、高級そうだからためらうわよね。

「あの、迷ってるなら入ってみてください。とっても美味しくて、千円もあれば足りますから」

「あ、ありがとう、ございます……」

「突然ごめんなさい、美味しかったからどうしても伝えたくて……失礼しました」

 普段はいきなり話しかけたりしないのに、自分でも驚くほど気軽に声をかけていた。男の子はびっくりした様子で会釈をして、くもりガラスの引き戸に視線を向ける。

 慣れないことをしたから気まずくて、そそくさとその場を離れることにした。けれど、彼が気になってつい振り返って確認。

 迷いながらも彼は引き戸を開けて、恐る恐る中に入っていく。

「……やったぁ!」

 若いからカツ丼かしら、でも肉豆腐丼もいいし、案外イワシの蒲焼丼だって好きかもしれない。がんもどき、私がラストを食べちゃったんだわ。でも他も美味しそうだったから食べてみて欲しいな。

 不思議なくらい嬉しくなって、小さく決めるガッツポーズ。家に向かう足取りも軽い。緊張していたはずの心が、今はふわふわになっていた。

 誰かを誘いたくなるけれど、しばらくは私だけの秘密の場所にしたい気持ちも湧いてくる。

 仕事帰りのご褒美として、たまに通うことになるのはそこまで遠くのことではなかった。



 豆腐の発注数を間違えた時は焦ったけれど、案外なんとかなるものだ。

 真っ先に思いついたのは肉豆腐、一口サイズのがんもどきをせっせと炊き、ひき肉と混ぜて小さなあんかけ豆腐ハンバーグも。たまたま入ってきた枝豆も有効活用できたし、上出来だろう。

「こういう肉との合わせ方もあるんだなぁ、あっさりしていいやね」

「さっぱりめだからおかずに回したんだけどさ」

「へへ、やっぱり飯より酒に合う」

 たぬちゃんは秘蔵の大吟醸をぺろぺろ、枝豆入りのあんかけ豆腐ハンバーグがお気に召した様子。お腹のぷよぷよのためにもちょうどいいメニューかも。

 それにしても、なかなか妙齢の女性のお客様は珍しい。夜しか営業していないから、どうしてもご家族との時間になりがちみたい。

 開店直後の夕方頃だと今からお仕事の女性の方もいらっしゃるけど、それ以外の時間だともっとお仕事帰りって感じだったり、学生さんが多いから。

「うーん、これって深く考えると社会問題?」

「ま、どういう客層にウケるかってのと、伸ばしてえ客層ってのは別だからねえ。難しいわな」

 お箸でハンバーグを割りながら、たぬちゃんがもふんとため息をつく。味見の時はイワシに夢中で、売り切れた瞬間切なそうにきゅんと鳴いていた。

 仕込みであれこれ捏ねていたので手首が痛い。主にハンバーグにがんもどき。久しぶりにフライも揚げたから、一気に疲労が襲ってくる。

 お風呂上がりに湿布を貼ると、臭いのかちょっと嫌そうな顔をしてたぬちゃんは布団に潜りこむのを諦めた。

「ひりゅうずも売り切れちまったし、おめえさんもなかなかやるもんだよ」

「褒めてるの、それ?」

「とはいえ、ちょくちょく仕入れを間違えるんだからまだまだだな」

「なんだとう? 身も心も図太いやつはこうしてやるっ」

「ぐぇえ、やめろぉ」

 布団の上で丸まっていたのを無理やり中に引きずり込んで、ぷよぷよのお腹をもふもふ捏ねまくる。臭いとくすぐったさで悶えるたぬちゃん。しばらくじたばた、徐々に弱まっていって、力尽きたのかぴたりと無抵抗になった。

 ふうふうしながら、はふんとため息が一つ。

「とりあえず、仕入れは間違えねえように」

「そこはホント、すいません」

 翌日、発注数を間違えて箱にどっさり入ったピーマンを見たたぬちゃんは、厨房の中で叫びながらひっくり返ってしまった。

「馬鹿野郎! こんなもんどうすんだ!」

「へへへ……とりあえずおひたしと肉詰めと青椒肉絲かな、マリネにして明日に回して」

「苦えから俺ァ食わねえぞ。旨そうだけど、食わねえからな。一口なら、まあ、うん。こいつぁ旨えな」

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