一見さんには豚汁を

 なんとか生活出来るだけのお給料と、残業もほとんどない仕事。不満はないはずなのにどこか虚しくなっている。転職するつもりはないけれど、プライベートが潤うような趣味もないから余計に。

 出逢いが欲しいとも思っていなくて婚活とかはしていない。煩わしくて飲み会を断っていたら、いつの間にか誘われなくなった。

 アルコールの匂いも嫌いだし、酔っている人に嫌悪感のようなものを抱くからちょうどいい。でも、たまに楽しめる人が羨ましくなる。

 はしゃいだ空気に満ちた駅前の繁華街を歩いていたら、ふと入ったことのない路地裏の道が気になった。もう何年も住んでいる街なのに、行ったことがない。

 マンションとは逆方向だし、用事もないので行く必要がないと思っていた。なのに進んでみると知らない街のようでわくわくする。自分の中にもこんな冒険心があるなんて。

 ぽつぽつと灯りの数が少なくなって、少しずつ住宅街に近付く。その一歩手前に、ぱっと目を引く壁が一つ。

 夜の街並みに浮かぶような優しい白の壁に、オレンジがかった灯りが広がっている。懐かしいくもりガラスの引き戸に呼ばれた気がして、足を止めた。

「茶釜?」

 雰囲気的に和食の店構え。小さなランプに書かれているのは店名だろうか。控えめな照明がとても上品で、気軽に入れる雰囲気ではない。おおよそ、会員制の料亭か何かだと思う。お酒嫌いの庶民には縁のない店だ。

 引き返してさっさと帰ろう、と引き戸の前で向きを変えた。

 ふわっと漂ってくる炊きたてご飯の甘い香り。懐かしくなる牛蒡の匂い。頬を包み込むような出汁の気配。

「美味しそう……」

 お腹からぐうと音がして、胃が香りに共鳴する。

 高くてお金が足りないかも。食べられるものがないかも。満席で入れないかも。その前に一見さんお断りかも。

 そんな不安が駆けめぐるのに、吸い込まれるように足が動く。普段と違う行動に戸惑っているわりに、自分の手を止められない。

「いらっしゃいませ、一番奥の一つ手前が空いてますからどうぞ」

 余計な考えが解決する前に、明るい声がするする席へと案内していった。


 清潔感のある店内はL字型のカウンター席だけ。私が入ったらすっかり満席で、一番奥は空席に見えて先客がいた。

 お客さんというより、もふもふした丸い塊が。

 毛がふわふわと上下しているので、丸まって寝ているのがなんとなく分かる。椅子の木目に馴染んだ焦げ茶と黒の混在する長めの毛。くるんと体に巻きついたふかふかの尻尾。

「すみません、今日は豚汁しかないんですがそれでもよろしいでしょうか?」

「豚汁、ですか」

「はい。作っていたら作りすぎてしまって。あとはここにあるお惣菜で、お好きなものを一つお選びください」

 カウンター台に乗せられた三つの大皿。中身は魚の照り焼きと、牛蒡と肉を炒めた何か、緑の野菜の和え物らしきもの。

「ああ、すみません。こちらに説明が」

 紺のコックコートに白の腰巻きエプロンという和服の内装には結びつかない姿の女性が、スケッチブックに書かれたメニューを差し出した。この店のオーナーシェフ、といった出で立ちだ。

 本日、豚汁定食のみ。お惣菜、ぶりの照り焼き。牛ごぼ炒め煮。空芯菜のにんにく炒め。お惣菜追加も可能。卵焼きと自家製味玉はそれぞれ別料金。

 どうしよう。選択肢は多くないのに悩む。料金がリーズナブルだから更に。ボリューム含めてチェーン味の季節限定ハンバーガーセットよりも安いくらい。

 冷静になるために、先程出されたお茶をすすった。大皿の中身はまだあるけれど、少しずつ減っている様子は見受けられる。

 暖簾の奥の厨房と、カウンターの中を行ったり来たりするシェフの手にあるお盆の上には、丼みたいな大きさのお椀。目の前を湯気がふわふわ流れていく。

「あの、すみません」

 ぱっと目についたものに惹かれて、勢い任せにカウンターの中へ声をかけた。


 明日のことなんて気にせずに、香ばしいにんにくの欠片が混じる青菜を口に入れる。出す前にさっと温め直してくれたので、熱くてさっぱりしたごま油がとろりと広がった。

 しゃきっとした歯ごたえに、クセのない爽やかさ。味付けもあっさりなのに、ついご飯が進む。ピリッとアクセントの唐辛子は見た目も鮮やか。ほんのり甘い炊きたてご飯をもう一口。

 空芯菜を、初めて食べた。中華風のこういう炒め物自体が初めてかも。おひたしみたい、と思っていたのに結構ガツンとくる。

「すみません、おかわりください」

 外食でおかわりは恥ずかしいと遠慮していたのに、今日は我慢が出来ない。ほかほかのご飯はシンプルなのにもっちり。お箸がまったく止まらない。

 おかわりが来るまで、素朴な木目を生かした大きなお椀に手をかける。元々はごろごろしていたであろう野菜の、少しとろけている角がたまらなく愛おしい。

 表面に浮かんだ脂できらきら光る中から、溶けて艶の出ているにんじんと、見た目で柔らかさの分かるさつまいもが覗く。珍しい具材もまた面白くて、先にさつまいもを取り出した。

 その瞬間、隣の席からひゅっと風が吹いた。

「起きた……」

 くわっと大きなあくびをして、隣の席の主が四脚をきゅっと伸ばす。犬にしては見たことのない毛並みだと思っていたけれど、目の周りの模様を見ると多分たぬきだ。

 すとんと椅子の上で犬のように座り込んだ主は、こちらを見上げて鼻をひくつかせる。とろんとした瞼と、きらきらの瞳。

「た、食べる?」

 お箸の先をちらっと見て、たぬきは小首を傾げた。あざとく見える仕草に、ついきゅんとしてしまう。

 でも犬はたまねぎがダメだから、たぬきも同じかも。豚汁の中にはたまねぎ以外も具がたくさん。そもそも動物からしたら塩分が高い。勝手にあげるのもいけない気がする。

「こらっ、いじきたぬ」

 ぐらぐら揺れていたお箸を遮ったのは、凛々しいシェフの声だった。ムッとしたたぬきは彼女に向かって座り直す。おじさんのような深いため息をつきながら。

「申し訳ございません、うちのたぬが」

「いえ、こちらこそ勝手にあげようとしてしまって……可愛くてつい」

 あつあつおかわりを手渡して、シェフが深々と頭を下げた。それにしても、うちのたぬ、という響きがなんだか可愛い。

 めっ、と強めに彼女が睨みつけると、たぬきはスンと拗ねてカウンターの角に顎を置いた。


 時間が経っても冷めない豚汁は、少し甘めの優しい味付け。さつまいものほくほくした甘みに相性抜群で、意外な組み合わせに驚いてしまった。

 ささがきごぼうは薄めでしゃきっと、よく出汁の染みたぷるぷるこんにゃくに、噛むとジューシーな薄切り豚。卓上の唐辛子をぱらっと振って、火傷しそうな汁を啜ったらまたご飯を口に放り込む。

 叱られてふてくされたたぬきは、ぷうぷう鼻を鳴らして目を閉じている。可哀想なことをしたけれど、無意識ににやけるくらい可愛い。

「もしお好きでしたらこちらを。先ほどのお詫びです」

 眉を下げたシェフが、ことんと小皿を目の前に置く。先程から、誰かが帰るとふらりと次のお客さんが入ってくるのを繰り返していて、彼女はぱたぱたしていた。

 小皿の上には、ちょこんと黄色のお菓子がひとつ。皮付きのさつまいもがごろごろ入った蒸しパンだ。

「でも、そんな」

「初めていらしたのに驚かせてしまいましたので」

 ぷしゅん、と隣から可愛いくしゃみが飛ぶ。ぽやぽや顔のたぬきはうっすら目を開けて、じっと私を見つめた。

 美味しいから、食べてほしいな。

 そう言われた気がして、素直に蒸しパンをいただくことにした。ほくほくのさつまいもと、素朴な甘さのふわふわ生地が舌に優しい。言われた通り、食べてみて良かったかも。

「こっちはたぬちゃんの分。甘さ控えめね」

 ぐにゃっとしているたぬきの前に、ころころの蒸しパンがいくつか。食べやすいように一口サイズに切り分けてあった。

 隣には大きめのお猪口に白い飲み物。牛乳にしてはつぶつぶしている。動物専用のミルクかもしれない。

 並んだものを見たたぬきは、ぱあっと表情を輝かせて大きな口を開いた。

 黒い肉球が黄金色の蒸しパンを掴んで、つやつや赤い口の中へ。わはーっ、と嬉しそうに鳴きながらお猪口の中身をぺろぺろ舐める。

 はぐはぐしながらにんまり笑ったたぬきの、満足げな口元。お猪口の中はぴかぴかで、見ているこちらの方が清々しくなる。

 ガラスの引き戸は、入った時より格段に軽い。お腹の底から香るにんにくと、まだぽかぽかの豚汁。牛ごぼも食べておけば、いや別の具の時のお味噌汁も飲んでみたい。

 ペットは飼えないけれど、動物が見たくなった。たまには有休を取って、のんびり動物園にでも行こうか。あの蒸しパンも美味しかった。簡単なものでいいからお菓子作りもやってみたいな。

「また、来よう」

 虚しく嘆いていたところが少し埋まった気がして、いつもと違う帰り道がなんだか明るく感じた。



「お客様におねだりしないの」

「可愛い可愛いたぬきちゃんがいるからまた来ようって思わせる作戦だっての。客寄せたぬきしてやってんだよ」

「どこが可愛いのよ」

 よっぽどお気に召したのか、たぬちゃんはさつまいも蒸しパンをばくばく食べている。甘酒との組み合わせも好きみたい。

 いつも仕入れている八百屋さんから、さつまいもが余ったと話を聞いて引き取ったらまさかの一箱。訳アリのキャンセル品だからと言われたけれど、料理に使うには最適だった。

 椅子にぐでんと腰掛けて、ぼりぼり脚で器用にお腹をかいている。たぬちゃんはさつまいもが好きらしく、箱から出した時からずっと厨房で小躍りしていた。

「汁物にさつまいもってのは珍しいのか?」

「さあ……あんまり意識したことないけど。豚汁は里芋だったりじゃがいもだったりするかなぁ」

「なんかみんな驚いてたな。まあいいや、旨かったし」

 お店の余りを温め直して、冷凍のおうどんを入れただけ。空っぽのお椀はいつもよりぴかぴかだ。我ながらかなり上手く出来た豚汁だったので、お客様にも好評だったのはとても嬉しい。

 とはいえ、厨房にはまだまだ箱にどっさりさつまいも。なんとなく作った蒸しパンではまったく消費が追いつかなさそう。

 もこもこボディをわしゃわしゃ洗いながら、頭の中はレシピでいっぱい。

「きんぴらとかさつまいもご飯にするか、カレーとかホワイトシチューのじゃがいも代わりも良いかなぁ」

「大学芋作ってくれよ、甘さ控えめじゃねえのをさ」

「甘いものもアリかぁ……」

 とはいえ、うちの店に来る人たちにスイーツの需要があるのだろうか。そもそも私自身、そんなに作った経験もないから簡単なものしか作れない。

 飛沫をぶるぶる散らして、ぽんっとボリュームを取り戻す毛並み。その奥のぷよぷよは最近また増した気がする。

「またちょっとお肉が増えたんじゃない?」

「なんだとぉ、失礼なやつめ。布団の中で屁ぇこいてやろうか」

「最低!」

「うーん、芋を食いすぎて普通に屁が出そう……」

「いやもうこのタヌキじじい!」

 客寄せにしては居眠りばかり、招き猫だけどちゃっかりおねだり。お神酒代わりにお酒を置いて、神棚みたいな扱いをしている。喋るたぬきだなんて知られたら、ちょっと面倒な事になるかも。

 強烈な臭いの一発は、真夜中なのに換気必須。お店の中では絶対やらないと二人で誓って、新鮮な空気を吸いながら夢の中で献立を考えることにした。

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