第39話 鼻が利く女

 夕食を確保して、縁寮よすがりょうの玄関に足を踏み入れた時。


「あ」


 ちょうど、靴を履こうとしている豊澤と出くわしてしまった。


「今、帰りか?」


 無視するのもなんとなく気が引けて、訊ねてしまう。


「んだよ、親かよ?」

「……いいや、なんでも。悪かったな」


 相変わらず機嫌が悪いままらしい。

 下手に口を挟むべきじゃなかったな、と思い、さっさとスリッパに履き替えようとする。


「……おい、待て。なんか、知らねえ女の匂いがする」


 鼻をすんすん鳴らして寄ってくる豊澤。

 怖いことを言い始めた。なんだその能力は、犬顔負けじゃないか……。

 今すぐブレザーを嗅いで確かめたい気分になるのだが、どうせ豊澤のデマカセだろう。確かに、個室に長い間和泉と一緒にいたけど……そんな簡単に匂いなんて移るはずがないのだから。


「お前、どこ行ってたんだ?」

「なんだ、嫁かカノジョみたいなこと言って」

「ああ?」

 下手に刺激してしまったことで、豊澤がメンチを切ってくる。

「遊びに行ってただけだ。ちょっとクラスメイトの付き合いに参加しないといけなくなって」

「クラスメイト? 女だろ? 女と一緒だったろ? それも、会長とは違う別の女だ」


 匂いだけでそんなわかるものなのか? 安次嶺も和泉もいい匂いはするが、若干香りの感じが違うなと思うくらいで、嗅ぎ分けられるほどの違いは俺にはわからないのだが……。


「あー、気に入らねえ! なんかいかにも自分のこと可愛いってわかってて愛想振りまいてる計算高い感じの、あたしが一番苦手な女の匂いがプンプンするぜー!」


 性格まで特定できるのかよ。和泉がそういうタイプかどうかは知らないけど、今日の振る舞いだけで判断すると、そういうヤツなのかと思わなくもないのだが。


「あ? お前、なんかちょっとスッキリした顔してねえか?」

「いい気晴らしになった気はしてるよ」


 和泉に引っ張り込まれるかたちでカラオケに行ってしまったけれど、今までのモヤモヤが多少は晴れた感覚は確かにある。


「てめえ、まさかあたしの知らないその女に、その、あれだ、スッキリ……さ、せられちまったんじゃねえだろうなぁ!? なんか、え、えっち的なあれこれでよおぉ!?」


 湯気が立ちそうなほど真っ赤になる豊澤。


「恥ずかしいなら無理して言おうとしなくていい。あと、隠してるわけでもなんでもなく、本当にただのクラスメイトだ。ちょっとばかり社交的かもしれないけどな」

「ほ、本当かよ……?」

「本当だ。だいたい、そんなエロマンガみたいなことホイホイ起きてたまるか」

「わかんねえよ。お前は案外エロマンガみたいなことやらかしかねないからな」


 単に俺が信用ないだけなのか、豊澤が世の中を穿った目で見ているだけなのか、判断に迷うところではある。


「くそっ、マジかよ……これじゃうかうかしてらんねえな……」

「なんだ?」

「お前、明日からまたあたしの料理修行に付き合え。屋上に来い」

「もう俺を許してくれるのか?」

「てめえがロクでもねえ女に引っかからないように守ってやらないといけねえからだよ。お前、放っておくとすぐ女が寄ってくるんだから」


 確かに女は寄ってくるかもな。そろいもそろってクセのあるヤツばかりだから、素直に喜べないけれど。もちろんその中には、豊澤、お前もちゃんと入ってるぞ。


「そうか。ありがとうな」


 正直、昼食はともかく、屋上を使えない今日は思った以上に困ったことになったから。校内にちゃんとした逃げ場があるのはとても安心する。


「お前、ちょっとこっち来い」

「突き放したり、寄ってみせろって言ったり、豊澤は忙しいな」

「うっせ。全部お前のせいだ」


 八つ当たりにも思えるのだが、まあ俺にだって思うところはあるから、豊澤の言う通りにした。

 最悪、再びビンタを食らう可能性を考えたのだが。

 今度の豊澤は俺にフロントスープレックスを食らわせようと考えたらしい。

 俺を正面から抱え込んで、後方へ投げ……ることはなかった。

 そのまま数秒固まっている。

 思ったより重くて投げられなかった?

 いや、違う。この腕の力加減から考えて……。

 抱きしめてきただけだ。

 安次嶺や和泉のように、ふんわりと甘く香るのとは違って、鼻先にすんと染み渡る柑橘系の香りがする。

 そして豊澤は、あっというまに俺から離れると。


「あたしの嫌いな匂いを上書きしてやったんだ! 今日はあたしのことだけ考えて寝ろ!」


 こちらに指を突きつけ、勢いよく背を向けて縁寮を出ていった。

 豊澤はギャル寄りヤンキーらしくスカートが短いから勢いよくターンすると見えそうになるんだよな。今度から、ぼんやりして下半身の方に意識を向けるのは止すことにしよう。


「あいつ……なんなの?」


 豊澤の行動パターンは謎だった。

 ついこの前、俺をビンタしてきたと思ったら、今度は抱きしめて甘やかしてきた。


「DVカレシみたいな行動パターンだな……俺の性癖をおかしくする気か?」


 てっきりヤンキーらしく直情的なのかと思ったら、俺には理解不能な複雑な動きを見せるのだ。


「塚本君。豊澤なんぞより会長を籠絡することに全精力を費やしてほしいのだがね」

「野々部、いつの間に」

「まあ聞いてくれ。日頃から感情の起伏が激しい豊澤なだけに、そこに恋愛感情が絡むとなおさら不安定になる。豊澤をあまり恋愛で振り回すのは感心しない。最悪の場合、我らの大願より君との恋愛を選びかねないからな。我々は少数精鋭ゆえ、同志が一人でも欠ければ大打撃だ」

「恋愛って。まさか俺に対してか? そんなたいそうなもんじゃねえだろ。たんに自分の持ち物取られたみたいで気に食わないだけじゃね?」

「君は鈍いな。実に鈍い。その鈍感さは、後々君に降りかかる火の粉になり得るゆえ、気をつけるがいい」

「はいはい、気をつけるよ」


 あまり関わり過ぎると、また安次嶺とくっつけようとしつこくなるのが目に見えているので、俺はさっさと二階へ引き上げるのだった。

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