第32話 葛藤

 流れるプールで、水にも安次嶺あじみねにも流された俺。

 その後は、各種色んなプールをつまみ食いするように堪能した……というより、安次嶺に振り回されたという方が正しいか。

 プール内のフードコートで食事を済ませ、安次嶺の要望で、もう少しだけ泳いでから帰ろうということになる。


「その前に、ちょっと席外すから待っててね」

「どこ行くんだ?」

「お、お花摘みだよ!」

「ああ、トイレか」

「もう! まーくんの鈍感! 隠した意味ないじゃん!」

「別にそれくらい恥ずかしがることないだろ。じゃあ俺はここで待ってるから」


 頬を膨らませながら、安次嶺が更衣室の方へ向かっていく。

 ちょうど近くにあったベンチに腰掛け、誰とも話すことのないひとときが久々に訪れた。

 この一日、俺は散々安次嶺に振り回されたけれど、安次嶺の方はといえば終始楽しそうにしていた。

 俺なんかと来るより、ずっと相応しいヤツがいると思うけどな。


「今の俺は、俺らしくない……か」


 安次嶺に指摘されたことが、まだ頭の中に強く残っている。

 確かに、少し前……高一の頃より消極的だし、無関心になることが増えた。

 ボクシングを捨てたことが大きいのだろう。

 小学生でジムの門を叩いてから、高校入学後はボクシング部に入り、練習漬けの毎日を送っていた。

 思い返してみても、充実していたと言い切れる。

 はっきりとした目標があって、少しずつだが成長している実感を味わえることができる環境は、日々に彩りを与えてくれた。

 その充実感で得た積極性がなければ、俺は優花とも仲良くなれなかったかもしれない。

 塞ぎ込みがちだったあいつと仲良くなるには、どれだけ塩対応をされようとも、怯まずに向き合えるだけの自信が必要だったから。

 今の、あれこれ言い訳をして誰とも関わらないようにしている俺には無理な所業だ。


「……そんな、俺を成長させてくれた大事なボクシングを差し出すことで、矢嶋に許してもらおうとしていたんだ」


 過去のことを思い出すと、真っ先に出てくるのは後輩の矢嶋だ。

 俺より遅くボクシングを始めたのに、メキメキと頭角を現してあっという間に俺に追いついてしまった逸材。

 高校二年生になり、後輩として矢嶋がボクシング部に入部してきた時は、正直嬉しかった。

 中学にはボクシング部がなかったから、小学校時代から引き続きジムに通っていたのだが、その時矢嶋から、「おれ、塚本さんと同じ高校行きます! そしたら、同じ部活で一緒に練習できますからね!」と言われて、その約束を守ったかたちだった。

 俺は長い間一人っ子で、俺を慕ってくれる矢嶋の存在は、本当の弟のように思えたのだ。


「弟の将来をぶっ潰した兄貴なんて、クソみっともないにも程があるだろ……」


 つい、拳に力が入ってしまう。

 あの事件以降、いっさい振るわなくなってしまった拳。

 俺以上に俺の魂が籠もった二つの拳は、今では生活をするためだけに使われている。

 まるで競走馬を引退して隠居しているポニーみたいだ。

 そんな、何もできなくなっている俺を、安次嶺は今も変わらず好きだと言ってくれる。

 正直、意味がわからない。

 ロジックとして意味不明すぎる。

 俺の態度を見ていれば、たとえ過去に楽しい思い出があろうが、失望して当たり前なのに、あいつからはそんな素振りは見当たらない。

 そんなところに、俺は怖気づいてしまうことがある。

 太刀打ちできない化け物を前にした気分だ。

 だというのに、長く二人で過ごしたこの時間を振り返った時、不思議と充実を感じてしまっている。


「マズい。安次嶺に毒されてる……」


 頭を抱えそうになった時、気づいたことがあった。


「ていうか、あいつ遅くない?」


 思わず後ろを振り返り、更衣室の方を確認してしまう。


「まあ、お花摘みに行ったついでにヤボ用を済ませてるのかもしれないしな……」


 安次嶺がいくら美少女だろうが、人間には違いない。食ったら出す。そうおかしなことじゃない。

 ふと、西條さんのことを思い出す。

 一応今日の俺は、西條さんから安次嶺のお守りを託されているのだ。


「……やれやれ、手のかかるお姫様だよ」


 仕方ない、と立ち上がり、安次嶺を探すことにするのだった。

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