第19話 お風呂回

 その夜。


「今日はやたらと疲れたな。ただでさえ勉強で頭を使ったのに、安次嶺が鬼神と化するんだから」


 安次嶺も豊澤も帰り、部屋で一人になったことでようやく一息つくことができた。


「――塚本君、ちょっといいか?」


 ひとっ風呂浴びようと一階へ降りた時、野々部が俺を呼び止めた。

 立ち振舞いはいつもの野々部に戻っていて、ようやく安次嶺ショックから立ち直ったらしい。


「む。これから風呂か」

「ああ。……用事があるなら、あとにしてくれないか。すぐ済ませるから」

「そうか。まあ、ちょうどいいかもしれぬな」

「は?」

「塚本君、折り入って相談がある。君にしか頼めない大事なことだ。君かオレの部屋で相談しようと思ったのだが……密談に相応しい場所があった」


 一人で話を進める野々部は、俺の肩にポンと手を置く。


「男二人、裸の付き合いもたまにはよかろう?」


 メガネの位置を直し、レンズをキラリと光らせる野々部。


「お前、なんか過去一恐ろしいんだが……」

「何故だ?」

「いや、無意識でやってるんなら別にいいんだけど」

「それよりどうかね? もし君が、風呂は静かで落ち着いた環境で入りたいと望むのなら、無理強いはしないのだが」

「……いや、別にいいけど」


 ここで変に断ると、俺の方が妙なことを考えている変態みたいになってしまう恐れがあるので、仕方なく野々部の提案を受け入れることにした。

 受け入れたのは提案だけだからな。


 ★


 縁寮の浴室は共同なのだが、多人数が同時に使うことを想定しているだけあって、それなりの広さを誇っている。

 この広さなら、同時に5人は入っても狭く感じることはないだろう。

 銭湯のように、鏡とカランがセットになった台が3つあり、そこにはシャワーも設置されている。一番奥にあるのが浴槽だ。これもまた広い。

 シャワーだけで済ませてしまうことが多い俺だが、この日は野々部に誘われてしまったということもあって、実家のものよりずっと広い浴槽に二人で入っていた。


「いい湯だ。広い風呂はいい。塚本君、君もそう思わないかね?」

「確かに、両手足を広げられる風呂に毎日タダで入れるのはいいけどさ」

「む? 不満そうだな? 聞こう。先程はオレの失態で君に嫌な思いをさせてしまったからな」

「いや、野郎二人の入浴シーンがどこに需要あるのかと思って」

「妙なことを言うものだ。単に入浴をしに来ただけ。需要を気にする必要がどこにある? 一体誰に見られているというのだ?」


 野々部が正しい。

 誰も俺たちの入浴シーンなんか見ていないというのに、一体何を過剰に気にしていたのだろう。


「とはいえ、塚本君は無駄な筋肉のない引き締まった体をしているな」

「なんだよ。急に俺の体をじろじろ見るのやめろよ……」

「変な意味ではない。豊澤には頑なに否定するが、その体を見る限り君はスポーツ経験者だと推測するが、どうかね?」

「俺は帰宅部だよ。これは引き締まってるんじゃなくて、痩せてガリガリなだけだ」

「そうは思えんほど体付きはしっかりしているし、それでいて鞭のようにしなやかな肉体だがな。まあ君が言うなら、そういうことにしておこう」

「含みのある笑い方するなよな。ていうか野々部の方こそ、勉強が得意で運動はからっきしってタイプかと思ったのに、そこそこガッチリしてるじゃねえか。メガネに騙されたよ」

「これでも中学までは剣道に打ち込んでいたのだ。今は辞めてしまったが、それでも肉体と健康維持のための筋トレ程度のことは継続している」


 野々部の妙に落ち着いているところは、体の鍛錬を続けていることの余裕から来ているのかもしれない。

 俺も昔はビビリだったのだが、ボクシングで体を鍛えるようになってから、強面だろうと横柄だろうと対人関係で動じなくなった覚えがある。いざとなったらこいつら倒しちゃえばいいや、という考えるようになったからだ。もちろんそれはある種のおまじないのようなもので、ボクシングをケンカの道具にしたことは誓って一度もない。


「……それで、用事って何だよ? 手早く済ませてくれよな。あんまり長いとのぼせちまうよ。こっちはじっくり浴槽に入る習慣ないんだから」

「ああ。先程のことで、提案があってな」

「先程って、野々部さぁ、まだ安次嶺のこと引きずるの? やめとけよ、安次嶺にコテンパンにされただろ。少なくとも今日だけは安次嶺のことは忘れとけよ」

「勘違いしないでくれ。今日の一件は、オレにとって大きな出来事だった。認めるさ。完敗だ。オレは、己の力を過信し、会長を見くびりすぎていたようだ」


 何も言い返せなかったことを気にしているのか、安次嶺の話になると野々部はトーンダウンした。


「気にすんなよ。俺だって安次嶺があんな怖い顔できると思わなかったんだから」

「……どうやら塚本君は、安次嶺会長とは旧い知り合いらしいな?」

「まあ、ガキの頃、ちょっと色々あって」


 浴槽を出た俺は、台の蛇口を回してシャワーを浴びながら、安次嶺と関わるようになった過去の出来事を話した。


「なるほど。学園で出会う前にそんなことが。安次嶺会長にとって、君は特別なようだ」

「まあ、やたらと追いかけ回されてるけど。本当に好かれているかどうかはわかんねえよ。あれも壮大な冗談かもしれないし」

「いや、オレが思うに、会長は本気だと想像するが」

「なんだぁ、野々部、お硬い顔してお前も恋愛脳なの?」


 豊澤と協力関係にあるのに一切異性として興味ある素振りを見せずに理想に突き進もうとしている堅物の思わぬ発言だ。つい面白い気分になってしまった。


「いいや。色恋沙汰にはとんと疎い。単に、塚本と会長が恋仲であればいいと思っただけのことだ」

「変だな。俺と安次嶺をくっつけてお前に得することってなんかあるの?」

「ああ、あるとも」


 ざばっ、と浴槽から出る野々部。

 こいつは変なところで男らしいようで、手にしたタオルで前を隠すことをしなかった。

 そんなわけで俺は野々部のソイツを目にしたんだけどさ、別に誰も知りたくないだろうから何も言わないよ。まあ、俺の判定勝ちってとこ。


「君に頼みたいことがある」


 そう言いながら、野々部はおもむろにタオルをボディソープまみれにして俺の背中に当てた。

 まさか野郎に背中を洗われることになるとは。

 俺の趣味じゃないから気分は良くないのだが、ここで断るのも変に意識しているようで嫌だ。


「なんだよ、また面倒なこと頼むんじゃないだろうな? 嫌だぞ。そもそも俺はお前たちには関わらないって言ったはずだ」

「そういう理屈で断られることは想定済みだ。だが、君は認めないだろうが、すでに彼女には十分関わってしまっている」

「彼女?」

「安次嶺会長だ」

「あいつが勝手に寄ってきてるだけだぞ」


 俺がどれだけ逃げてもあいつが追いかけてくるのだ。

 とはいえ、今日のちょっとした勉強会のことを思うと、安次嶺とだって一切関わってない、と抗弁するのはかなりキツそうではある。


「塚本君はそうでも、会長はそう思ってはいまい。彼女はおそらく、全校生徒で一番君に気を許している」

「いやいや、副会長がいるだろ。学校ではいつも一緒じゃねえか」

「武市副会長はただの幼馴染であり、会長からすれば単なる友達……もしくは、召使いだとすら言えるな。オレが見る限り」


 俺より一年長く武市を見てきた男の判断がそれである。

 あまり絡みがないから未だよくわからないが、武市はどうも報われない男らしい。


「そこで本題だ」


 嫌な予感しかしなかった。

 今にして思えば、この場でさっさと風呂を出て部屋に籠城するべきだったんだ。

 でも、頭も背中も泡だらけのまま風呂を出るわけにはいかなかったから。

  

「塚本君。君の力で、生徒会長を籠絡してほしい。君が頼めば、彼女はなんでも耳を傾けるのだから」

  

 逃げ遅れたせいで、そんな厄介すぎる提案を耳にしてしまう。


「会長には感謝するよ。綺麗に大願を果たそうという未練を残していた脇の甘いオレを、根本から破壊してくれた。艱難辛苦を乗り越え大願成就を果たすのに、もはや己の矮小なプライドを意固地に守ることはない」


 曇りかけの鏡から見える野々部の姿は覚悟を決めた闘士そのもの。

 どうやら安次嶺は、野々部を厄介な方向に成長させてしまったらしい……。

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