はじまりはいつも笑顔の中に
古 散太
はじまりはいつも笑顔の中に
春の終わりか、夏のはじまりか。日に当たるとうっすら汗ばむ陽気。
公園と言っても子供たちが遊ぶような遊具類はなく、大人たちの憩いの場のような雰囲気。かなりの数のベンチが公園の中心を囲むように設置されている。
平日の午前。お昼にはまだすこし早い時間。空はすっかり晴れて雲一つない。上空のどこかでヒバリが談笑している。その声をなんとなく聞きながら、山野花代(やまのはなよ)はベンチでひとり、どこを見るでもなく小さく座っている。
肩で揃えられた真っ白な髪に口紅だけの化粧っ気のない顔。薄桃色のウインドブレーカーに、灰色のゆったりとしたレディースパンツ、白いスニーカーを履いた七九歳の花代にとっては、まだ肌寒いが、昨年、六〇年近く連れ添った夫を亡くしたひとり暮らしの家にいるよりは、心が温かくなる公園にいたほうがいい。晴れの日の公園にいれば、若い夫婦とその子供たちがはしゃいでいる様子や、犬が散歩しているのを見るだけで幸せな気分になる。運が良ければ知り合いがやってくることもある。
ベンチの傍らに停めたシルバー・カーのふたを開けて、水筒を取り出す。温かいお茶を、カップにもなっている水筒のふたに注ぐ。カップから湯気が立ちのぼる。
「あの、すみませんが・・・」
背後から聞こえた声に振り返ると、そこに坊主頭で法衣をまとい、網代笠を左手に持った、みすぼらしい僧侶がひとり。
「私にもお茶を一杯、いただけないでしょうか」
僧侶は懐から竹筒を取り出す。その端はふたになっていて、すぽんという間の抜けた音を立てて引っ張り開けて、逆さに持ち直すとカップになっている。
「えぇ、どうぞ。こちらに座って」
年を経た人の角の取れた丸みのある笑顔で、花代が応える。
「すみません」
僧侶は、ベンチの後ろから回り込み、花代の左に座る。
「ご無理を言って申し訳ありません」
「いえいえ、お茶のいっぱいぐらい、どうってことないのよ」
言いながら、僧侶の持つ竹のカップを受け取り、湯気の立つお茶を注ぐ。
それを手渡しながら、
「あなたお坊さま?」
と花代が訊ねる。
「はい。青野利雪(あおのりせつ)と申します。禅の僧侶で旅をしております」
「まぁ、旅? この時代に? ご苦労様です」
「いえいえ、好きでやってることですので」
「でも今どきお坊さまの旅なんて、時代劇でもなかなか見ないわよ」
「そうかもしれませんねぇ・・・お名前をうかがっても?」
カップのお茶を一口すすり、ゆっくり息を吐く花代。
「山野花代です」
「花代さん。美しいお名前ですね」
「あら、ほめたって何にも出ないわよ」
「そんなつもりはありません。心からそう思っただけです」
「そう。うれしい。この年になると褒められることなんてほとんどないから」
「そんなお年には見えませんが」
「もう八〇歳になっちゃう。もう、どうしようと思ってるのよ」
「どうしようとは?」
「旅の方にこんな話をしてもしょうがないんだけどね、還暦を過ぎたぐらいからかな、年を取ることが億劫になってきてね。老眼で本は読みづらいし、腰や膝が悲鳴をあげてるし。それに昨年、夫が亡くなってね。今は近くのマンションにひとり暮らしなのよ。これまでは夫という話し相手がいて、気もまぎれてたんだけど、ホント、どうしようと思っちゃう」
「旦那様におかれましては、お悔やみを申し上げます。しかし花代さんはお元気そうに見えますけど」
「それがね、自分でも気づいてないんだけど、気落ちっていうの? そんな感じなのか、最近は不調続きでね。今もあんまり具合が良くないのよ。でもまぁ、こうして公園にきて、お日様の光を浴びながらお茶を飲ん出られるんだから、まだいくらかの余力はありそうだけど」
口元に手を当てて、上品に笑う花代。
「伴侶が亡くなれば、みな気落ちするものですよ。体の不調は心配ですね」
「ここまで歩いてこられるんだから、そんなにたいしたことではないのよ」
湯気の立つ竹のカップを口に運んですすり、「んはぁぁ」吐息を漏らす利雪。
「申し訳ありませんが、ここで朝食をいただいてもよろしいですか?」
おどろいた表情で利雪を見る花代。
「もうお昼になっちゃうわよ。今から朝食なの? 遠慮せずにどうぞ」
「すみません。それではちょっと失礼して」
利雪は竹のカップをベンチの上に置き、背負っている風呂敷包みを太ももの上にのせて開いていく。中には木製の細長い箱があり、それとともに、レジ袋がある。利雪はレジ袋を手に取り、中から、コンビニのおにぎりを取り出す。
「あ、もしよかったら食べます?」
と花代に訊ねる。ほほ笑みを浮かべて首を横に振る花代。
「私は年だからそんなに食べられないのよ。朝と夜だけ。どうぞあなたが食べて」
「そうですか。では遠慮なく」
おにぎりを竹のカップの横に置いて、風呂敷をもとあったように美しく畳み、わきに置くと、おにぎりを手に取り花代に見せる。
「焼きたらこの具なんです。海鮮が好きなもので」
「お坊さまがそういうのを食べてもいいのかしら?」
おどろいた表情でおにぎりを見つめる花代。
「本当に本当はダメだと思います。私は旅の僧なので、食べられるものを食べてますから。いちばん好きなのはイクラなんですよ」
笑って答える利雪。すっとを手をかざすようにしただけで、包装のきっかけが立ち上がり、それをつまむと手品のような速度で、海苔を巻いて食べられる状態にする。
「へぇ、手品みたいねぇ。私なんてとっかかりすら見つけられないのに」
「慣れですよ。ほとんど毎日おにぎりですから。そうそう、私も食事は朝と夜だけです。だいたいおにぎり一個なんです」
「まぁ、それで足りるの? お腹が空かない?」
「それも慣れると大丈夫なようですよ。最初のうちは物足りませんでしたが、なにせ旅をしてるとお金に余裕がありませんからね」
「ふーん」
利雪がおにぎりを食べる様子を見ている花代。
「美味しそうに食べるわね。ところでひとつ訊いてもいい?」
「はい、もちろんです。なんでしょう?」
「どうして今の時代に旅なんかしてるの?」
口に入れた分を飲み込んで、答える利雪。
「寺を追い出されました。師匠が父でしてね。まぁ親子喧嘩のなれの果てです」
「勘当っていうこと?」
「まぁ言葉で出ていけと言われたわけではないので、勘当とは違うかもしれませんね。手に持った扇子で、クイクイって出ていけという動きをしてましたから」
利雪は言いながら、扇子の動きを手で真似て見せる。
それを見て花代は、
「そんなので追い出されるの?」
と、楽しそうに笑う。
「まさか、私の勘違いだったんですかねぇ?」
言いながら利雪も笑う。
「へぇ、今どきそんなお坊さまもいるのね。それで、どれぐらい旅をしてるの?」
「そうですねぇ、二年ほどでしょうか」
「二年も!」
ほほ笑んだままおどろく花代。
「あちこちウロウロして歩き回っているうちに、旅慣れてしまったようで、今はもう寺に戻ろうと思わなくなりました」
「じゃあこれからどうするの? お葬式とかもできないでしょう」
利雪はほほえみを返す。
「お葬式は、僧侶の仕事のひとつでしかありませんから。本来、僧侶というのは誰もが幸せに生きられるように、人生のガイドをするのが仕事です。お葬式も実際のところ、亡くなった人よりも、残された人のけじめみたいな意味合いが強いですしね」
「でもそれじゃあ収入とかの面で大変でしょう」
「それはもう大変ですね」
「どうしてるの。今どき托鉢しても難しいでしょう」
「はい、日雇い労働などでお世話になって、お給料をいただいて旅を続けてます」
「寝るところは?」
利雪は手に残っているおにぎりを口に押し込み、お茶で流し込む。
「質問攻めですね」
口に手を当てて笑う花代。
「いろいろ気になってしまって。ごめんなさいね、根掘り葉掘り訊いてしまって。お坊さまとこんなお友達のように話すことってなかなかないことだから」
「まぁ確かにそうですね。今のお寺さんはほとんどが引きこもりみたいになってますからね。残念ですが・・・あ、そうそう、寝るときは野宿が七割、宿と、飛び込みでお寺のお世話になるのと、見知らぬ人の家が一割ずつですよ」
「見知らぬ人の家?」
「えぇそうです。その土地で知り合った人の家にお世話になることもあります」
「危なくないの?」
「何も持ってませんからねぇ。もし殺されたりしても、それはそれで寿命だと思ってますから。かえって相手のほうが怖がっているかも知れませんよ」
二人が声をあげて笑う。その声は、子供たちの奇声とともに晩春の青空に吸い込まれていく。
「はぁおかしい。利雪さんでしたっけ? あなた面白い人ね。お坊さまにしておくのがもったいない」
「私みたいなのは、こういう法衣でがんじがらめにしておかないと、何をしでかすか分かりませんから」
「そうかも知れないわね・・・ところで、さっきおっしゃったことですけど、殺されてもそれは寿命なの?」
竹のカップの中に残っていたお茶を一気に飲み干し、背筋を伸ばす。
「私の価値観ですから、あくまでも私の考えですが、自殺以外の死はすべて寿命だと考えています。老衰はもちろんですが、病気でも事故でも、自らの選択ではない死に直面したら、それは寿命だと思っています」
「どうしてそう考えるの」
「まず第一に禅僧であるという理由はあると思います。禅の道を歩む者は、いついかなるときも今を生きなければなりません。それは悟りというものが今にしか存在しないためです。なので、明日のことを考えたり、不安を抱えていては禅の道を歩むことはできません。
別の理由としては、自らの選択ではないからです。私は運命とか運勢というものはまったく信頼がないんですけど、死のタイミングというのは自分で選ぶことができないというところにだけは、運命みたいなものかと思っています。そこに大いなる意思を感じるんです。だとしたら、私がジタバタしたところでどうにかなるものではないとので、寿命だろう、ということです」
花代は、じっと利雪を真剣なまなざしで見つめたまま、話を聞いている。
「もしも、次の瞬間に私が何かの理由で死ぬとしましょう。そうなると、いま自分にできる最善のことをしようと考えます。今であれば、花代さんの質問にできるかぎりお答えしようと考えます。旅の途中なら、一歩一歩を味わって歩くように気を遣います。食事をしていれば、全身全霊で美味しくいただきます。そうすることで、この世に後悔や反省、未練などを残さずに済みます。
死というものに向き合って生きるというのは、『生きる』ことを輝かせることになります。いま起こっているひとつひとつのことに対して全力で向き合いますから、すべての瞬間が充実します。それって、生き生きした人生の輝きだと思いませんか?」
そう言って、花代の目を見つめ返す利雪。その目には確固たる信念の光を宿している。それが何かは分からない花代でも、心を揺さぶられているのは分かる。
「え、えぇ、たしかに利雪さんのおっしゃってることはよく分かります」
「ありがとうございます。人生が生き生きと輝きつづけるためには、すこし大げさですが、死を思い、切羽詰まっているぐらいがちょうどいいんです。だから、つねに死を身近に感じておくためには、己が滅するときはすべて寿命である、と考えておくのが具合がいいんですよ。いつ来るか分からない自分の死のために、いまをしっかり生きるようになります」
「どうしてそこまで・・・」
「明日があるとか、次回があるという考えを排除するためです。次の瞬間に何があるか予測することはできませんから、誰しもいつお迎えが来るのか分かりません。だとしたら、明日とか次回があるのかどうかも分かりません。もちろんどうでもいいことは後回しでもいいと思いますが、自分にとって大切なことを後回しにすると、時として後悔することがある、ということです」
花代はうつむいて足元の地面を見つめる。
「たしかにそうねぇ・・・。利雪さんのおっしゃるとおりだわ。私の夫、昨年亡くなったって言ったでしょ。交通事故だったの。横断歩道のないところを渡ってて、わき見運転の車にはねられてね。即死だったの。私がタクシーで病院に着いたときはすでにもう・・・。
そのとき、本当に後悔したのよ。夫が出掛けるとき、ちょっとしたことで言い合いになったのよ。もうその原因も忘れちゃったけど」
口元に力のないほほ笑みを浮かべる花代。
「夫が『出かけてくる』とだけ言って、家を出たのよ。私も腹が立ってたから知らんぷりしちゃったの。それが私が聞いた、夫の最後の言葉になっちゃった。気をつけてとか、いってらっしゃいとか、どこ行くのとか、声をかけていれば会話になったかも知れないのに、もしかしたら夫は出掛けなかったかもしれないのにって思うと、本当に馬鹿げたことしたなと思うの。
今までありがとうとか、ずっと好きだよとか、幸せだよとか、もっと伝えたいことがたくさんあったんだけどね。ぶすっとした声で『出かけてくる』よ。自分のバカさ加減にもう涙も出ない・・・」
じっと花代を見つめていた利雪が口を開く。
「そうですね。そういう後悔をしないために、今を全力で生きるのが大切ですね」
「もっと早くに利雪さんに出会って、お話を伺っていたら、私もこんな後悔をしなかったのかもしれないわね」
首を横に振る利雪。
「それはむずかしいでしょうねぇ。大切な人を失ったとき、誰もが後悔と反省をするものです。どれだけ力を尽くしても、出来ることすべてをしたつもりでも、いざ大切な人がいなくなると、こうしてあげればよかった、ああしてあげればよかったと後悔して、あんなこともできた、こんなこともできたと反省するものです。それは愛情の深さにもよりますけどね。だから花代さんが後悔したり反省したりするのは、愛情の深さゆえだと思います。それよりも大切なのはこれからです」
顔をあげ利雪を見る花代。今にもこぼれそうなほど、目にたまる涙。
「どうしたのかしら。ずっと涙なんて出なかったから、もう枯れたんだと思ってたのに」
「それは花代さんの心の涙ですよ。あなたの意思とは関係なく、閉ざされていた心の扉が開いたんでしょう。おそらく泣くまいとされていたのではないでしょうか。心の思うままになさってください。人の意思より心のほうが素直ですし、心の修復もしてくれます」
とうとうこぼれ落ちる花代の涙。しかし何かに満たされていくような心持ちが全身に広がっていくのが分かる。
「悲しいときは悲しんでください。つらいときはつらいと言ってください。それが人にとって自然なことです。気を張ることが必要なときもありますが、あなたの心、あなたの考えは、あなただけのものです。誰にも気兼ねする必要はありません」
その言葉を待っていたかのように、花代は利雪に両手を伸ばす。利雪は体を寄せ、花代をやさしく抱きとめる。花代の嗚咽が公園に広がっていく。
何事かと遠巻きに二人を取り囲む視線。幼い子供が「どうしたの?」と指をさす。しかし花代と利雪にとって今、そんな周囲の状況などどうでもよく、花代はおおいに悲しみ、後悔し、反省し、利雪はその思いを僧侶として、ひとりの人間として全身全霊で受け止めている。
しばらくすると、花代の悲しみはひとまず出尽くしたようで、感情の高ぶりも静まっていく。周囲の人たちも、動きのなくなった二人に興味が失せたのか、何事もなかったかのように行動し始める。
「大丈夫ですか?」
自身の中にあるもっともやさしい部分から発せられた声で、利雪は花代を気遣う。言葉による返事はできない花代は、利雪の肩に何度も小刻みにうなづいて、意思を伝える。
気が済んだのか、花代は利雪からゆっくりと離れ、ウインドブレーカーのポケットからハンカチを取り出し、目に当てる。
「利雪さん、ごめんなさいね。取り乱しちゃった」
「いえいえ、私は構いませんよ。それよりも沈んでいた気持ちは、すこしぐらい楽になりましたか?」
ハンカチを顔全体にあてて、何度もうなづく花代。
「それは良かった。人間、自分に素直に生きていないと、余計なものを背負ってしまいますからね」
「・・・ホントね。娘にも私が泣いてるところなんて見せたことないのに、知り合ったばかりのお坊さまの前でこんなことになるなんて」
「知り合ったばかりだからいいということもありますよ。相手が誰かということより、花代さんの心のよどみが流されたかどうかが大切なんです」
どこまでもすっきりと晴れ渡る空を見上げ、両手を後頭部で組んだ利雪は、背もたれに体重を預けて気持ちよさそうな笑顔。
「でもやっぱりね・・・」
鼻をすすりながら花代が、しずかに、ゆっくりと話す。
「でもやっぱり、伝えたいことってあるのよね。これだけは私が死ぬまで背負うことになりそうね」
利雪は姿勢を正し、ハンカチを顔に当てたまま話す花代の横顔を見つめる。
「そうと決まったわけでもないですよ」
利雪は、わきに置いてあった風呂敷包みを太ももの上にのせて、丁寧に解いていくと、中にある木箱の中から一〇センチほどの丸い筒を取り出す。その一端、ふたになっている部分を引っ張り開けると中は線香の束。そこから一本抜き取り、線香の先端を唇ではさむようにくわえる。ふたを戻し、筒を木箱に。次にマッチを取り出し、火をつけ、口にくわえた線香の反対の端に火を近づける。線香に火がついたのを確認できると、マッチの火を手で振って消し、木箱の中にある携帯用の灰皿の中に入れる。火が大きくなってきたところで、線香を指先でつまみ、軽く振って火を消す。白い煙がふわりと立ちのぼり、青空へと吸い込まれていく。
利雪は立ち上がり、花代の前、五〇センチほどのところに線香を寝かせる。
晴れた日中の陽射しにもかかわらず、線香から立ちのぼる白い煙ははっきりと目に映る。最初は青空に吸い込まれるように消え失せていた煙が、空中のある一点で立ち止まるようになり、次第にその場で白いもやのかたまりになっていく。
利雪は花代の肩をやさしく叩く。花代はハンカチをおろして利雪を見ると、満面の笑顔で、花代の目の前に人差し指を立てる。意味が分からずその指を見ていると、利雪の指は、空中に留まる白いもやを差す。その動きに合わせて花代の視線も白いもやへと移動する。
白いもやは意図を持っているかのように、すこしずつ人の上半身を形作っていく。頭部らしき部分が整っていくとき、花代が声をあげる。
「お父さん!」
花代の目には、昨年亡くなった夫の幸せそうな笑顔が見えている。短く刈り上げた白髪頭、目尻に深く刻まれた笑いジワ、何よりも唇の下にある大きなほくろ。まぎれもなく亡き夫。それは半透明で、もやの向こう側の家族連れや公園の木々も見えているが、その手前に亡き夫が立っている。
「すまなかったね、母さん。こんな形でお別れになってしまって」
間違いなく在りし日の夫の声だが、耳から聞こえてくるのではなく、頭の中に浮かんでくる。何かを思い出したときのような感覚。
「どうして? いったいこれは何?」
「利雪さんにお願いしたんだ。お前があまりにも沈んでるから見ていられなくなってな」
横にいる利雪を見る花代。利雪はベンチの背もたれに体重をあずけて、ニコニコと花代を見つめている。
「花代、あのときは本当に悪かった。俺が悪かったんだ。途中でオレが悪いことに気づいたんだけど、引っ込みがつかなくなってな。ついケンカ腰になってしまった。花代は何も悪くないんだ。花代には何の落ち度もない。だから、俺のことでそんなに落ち込まないでくれ。そんな花代の姿は悲しくなる」
止まったはずの涙が、また花代の目にあふれだす。
「私が悪かったの。意固地になってた。あのとき、私があなたを止めていたら、何かちょっとでも声をかけていれば、あんなお別れにならなかったのに。私こそ本当にごめんなさい」
「お前の気持ちは全部分かってる。だからこそ、伝えたくてな。
もういいんだよ、すべて終わったことだ。俺のことを覚えておいてくれるのは嬉しいが、俺の最後なんて人生のほんの一瞬だ。それはもういいじゃないか。ほかにもっと楽しい時間があっただろう。そっちの俺を思い出してほしいんだ。二人で笑った時間、娘も合わせて三人で笑ったこと、旅行やドライブや、いろいろ他にあるだろう。そっちが本当の俺なんだから」
「でも、でも・・・」
「でもじゃないよ。死んでしまった俺がそう言うんだから。花代、前を向いて歩きはじめなさい。いつまでも『あの日』にいてはいけない。お前は名前のとおり、もっと華やかな女性なんだから、もう暗い顔をするのは終わりにしよう。俺はお前の笑ってる顔がいちばん好きだったよ」
「あなた・・・」
ハンカチを太ももの上で握りしめたまま、こぼれる涙をそのままにして、亡き夫を見つめる花代。
「分かってくれたみたいだね。俺はいつでもお前のそばにいる。お前が死んだら迎えに行ってあげるから、それまでは自分の人生を楽しみなさい。俺のことは忘れたっていい。この人生を、花代という人生を楽しみなさい。
これまで俺を支えてくれて、本当にありがとう。そして急にいなくなったこと、本当に申し訳なかった。そろそろ時間みたいだ。そうだ、利雪さん、このたびはお世話になりました」
白いもやの中で、目の動きで利雪に感謝を伝える。
姿勢を正し、目の前で手を小刻みに振る利雪。
「いえいえ、お役に立てれば本望ですよ」
ほほ笑みを見せる白いもや。
「花代、そろそろ行くから。今度会うときは笑顔でな。花代のおかげでいい人生だったよ。幸せだった。本当に・・・ありがとう・・・」
線香の煙がぷつっと途絶える。白いもやは霧散するように姿を消していく。
その瞬間、花代はすっと立ち上がる。
「いってらっしゃい、気をつけてっ!」
それだけ言って、へたりこむようにベンチに腰を下ろす。
無言の時間。風に木々が揺れる音。ヒバリの声。公園内の喧騒。先ほどまで聞こえていなかったことに、花代は気がつき、ハッとする。
「良かったですね、いってらっしゃいって言えたじゃないですか」
利雪は笑顔のまま、花代を見つめている。
「そうね、なんだかよく分からないけど、胸のつっかえが取れたような気がする」
「それで十分です。旦那さんに会えて、ちゃんとお見送りできたんです。それ以外は何も知る必要ありません」
座り位置をすこし斜めにすると、花代は利雪の目をしっかり見つめてから、深々と頭を下げる。
「利雪さん、本当にありがとうございました。話が急すぎて、まだフワフワしてるけど、とても嬉しかったわ。本当にありがとう」
利雪も花代に正対するように座り位置をずらし、合掌して頭を下げる。
「いえいえ、とんでもありません。私は入り口までの案内係です。あとは旦那様と花代さんのお話ですから」
大きく息を吸い、「はぁー」という声とともに吐き出す花代。
「今日のお天気みたいに、なんだかすっきり。ところで、今夜のお宿は決まってるの?」
「いえ、まだ何も決めてませんね」
「そしたらうちに泊まる? こんなおばあちゃんが相手じゃ魅力はないけど、ご飯は美味しいと思うわよ」
「いいんですか? 魅力的な花代さんのお家に泊めていただいて」
花代はほほ笑みながら体勢を元に戻し、公園全体を見つめる。
「私ね、利雪さんのお話をもうすこし聞いてみたいと思うの。こんな年寄りに何が分かる、って思うかもしれないけれど、分からなくてもいいから、聞いてみたいの。いま何がどうなってお父さんとお話しできたのか、とかね。どうかしら」
「お話ぐらいいくらでもさせていただきます。伝わらなければ伝わるようにするのが僧侶の仕事です。しかし本当にお泊り、よろしいんですか?」
「もちろん」
「そうですか、ではありがたく一夜の宿をお借りします。しかし晴れやかな顔になりましたね。はじまりはいつも笑顔の中にあるものです。新しい人生のスタートですね」
「こんなおばあちゃんになってから、新しい人生って言ってもねぇ」
「年齢は肉体だけのことですよ。花代さんは、これからもっと花代さんらしく生きていかれたらいいんです」
そう言って利雪は空を見上げる。
「ほら、見知らぬ人の家にお世話になるでしょ?」
「あら、本当」
二人があっけらかんと笑う声は、どこまでも広がり、賑やかな公園の彩になっていく。
完
はじまりはいつも笑顔の中に 古 散太 @santafull
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