第5話 わたしのスタート

 求めよ、さらば与えられん。

 探せ、さらば見出さん。


 転機は訪れた。4,5年ほど前に、フェイスブックで同じように作家を目指す友と師匠を見つけたのである。


 フェイスブックには、1995年ぐらいからアクセスしている。当時話題のSNSだったから、どんなものなのか興味があったのである。


 しかし、ネット上の友だちとべったり付き合うのに疲れて、それほどアクセスしなくなった。親戚と友人がアカウントにいるのでやめていないが、今後もFBを宣伝目的には使わないと思う。


 FBに参加しているのは友を作るためではなく、主として文章鍛錬のためだった。


 SNS内を検索すると、無料で感想を言い合うコミュニティがあるということだったので、見知らぬ男が運営するコミュニティに参加した。


 師匠は物書きのSさん。その愛弟子はOさんという、カトリック系の有名大学を卒業した人間だった。わたしは仏教系の短大出だったので、純粋に興味を持った。


 Oさんの学歴に興味があったのではない。学歴なんてのは、試験の傾向と対策に長けた人間が持てるもので、ほんとうの頭の良さじゃない。


 両親は高学歴だったが、あまり頭も良くなかったし幸せそうでもなかった。少なくともわたしは不幸だった。だから、学歴のある相手にすり寄っていたわけではなく、その読解力と分析力に期待したのである。



 相手はコメントでしか知らない。もともと彼は相思相愛の女性についてノロケていたことも多かったから、わたしのつけいる隙はなかった。それに、OさんはS師匠と同じように、手厳しい評価をする人間だった。


 フェイスブックという場所は、文章訓練には向かない場所である。フィードも文字も小さいし、アクセスするにもパソコンかスマホを使うから、ひと手間かかる。


 添削が出来ないから、全体的な印象しか語れない。だが訓練は始まった。


 随筆を書けという。師匠からお題が出され、500字程度の分を提出し、仲間がそれを読んで講評する。わたしの胸は、早鐘を打った。その年いちばんの緊張だった。手に汗がじんわりとにじんだ。



 文章訓練の友をつくるのは生まれて初めてだった。しかも贅沢なことに、そこでわたしは、生涯のライバルとなる女性と巡り会った。


 その人はキャラクター描写も情景描写も生き生きしている女性だが、わたしが文章を志していると知ると「ライバルね☆」などと言ってきた。


 わたしはこころが踊った。25年間、ライバルはいなかったが、今は違う。明日への架け橋が、いま、かかったのだ。



 生まれて初めてコミュニティに出した随筆が、S先生の目に止まった。中学生のころ、担任に文章を見せて「ヘボい」と言われたように、ここでもヘボいと言われるのだろうか。

わたしは錐で刺されるように苦しい思いをした。


 すると、S先生は「ここをこう直しなさい。随筆は、一回性の体験を書くものなのです」とおっしゃった。


 そして具体的に直す文章を指示された。わたしは、なんどダメ出しをされても食らいついた。夫は、文章教室にはお金を出さないので、これを逃したらもうあとがないのだった。


 お題は「母」というものであった。わたしは、1988年7月に亡くなった実母のことを書いた。


 遠い昔のことなのに、涙がボロボロこぼれた。自分のことをダメ女とののしった母だったが、大好きだった。その話をリライトしていくうちに、新しい目でその死を見ている自分に気づいた。


 バカだの根気がないだのと、ひどいことばかり言っていた母。しかし死に際に母はわたしの手を握り、

「ごめんね、ごめんね」

 と弱々しく謝罪した。


 母の気持ちがわからなかった。わたしには子どもがいない。しかし、もし子どもがいたら、母のように全力で育てようとするだろうか。ちょっとズレてはいたけれど、母はわたしが大好きだった。謝ってくれるより、生きてほしかった。


 随筆を見たOさんは、「モノトーンで描写されてはいるが、動きのあるシーンが一部あって、印象的だった」と評価してくれた。師匠のSさんは、「絵里子さんは根性がある。いずれ頭角をあらわすだろう」とコメントした。



 根性がある。


 母とは正反対の評価だった。母はわたしを、根性なし、と、ののしったのだ。

 信じられなかった。

 自分は、根性がある。

 頭角をあらわすだろう。

 ほおっとため息が出た。

 長年の胸のつかえが取れていく気がした。


 わたしの文章訓練のスタートは、ここからはじまる。

 その後、リアルでもいろんな人にいろんな文章を見せては感想をいただき、助言をもらい、文章をリライトしたり反発したりしていくうちに、曲がりなりにも見られる文章になってきた。



 S師匠は、いまはフェイスブックから引退している。残された愛弟子のOさんは、有志をつのって閉鎖コミュニティで文章訓練の場をもうけている。わたしはそこで、文章を見てもらっている。


「また同じ間違いをしてますね」

 と叱られたり、

「小説は説明ではなく、描写です。会話はキャラクターの性格を描くもの!」

 と批評されたり、

「でも、アイデアはいいよ」

 と褒められたりしている。


 2023年12月から新聞を取ることになった。ぼちぼちわたしの投稿も載るようになっていたので、今度はこの新聞の短編新人賞を狙っている。地域文化の発展のための賞なので、傾向は私小説である。



 その小説をいろんな人に見せたが、だれもが言う。

「にゃんちゃんはエッセイの方が向いている」

 く、悔しいッ。

 そこで、泥縄式に純文学の比喩を勉強することにした。



 と言っても、わたしはクリスチャンなので聖書の比喩である。「聖書曰く。あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。光の子として歩みなさい。光の子? それはドラクエですか?」と突っ込みをいれつつ、今日で4日ほど続いている。


 飽きっぽいからいつまで続くかはわからないが、できるだけ続けようと思っている。コラムの勉強も含めて、少しは弱点である論理性のもとになる問いの立て方がわかるだろう。




 わたしの勉強は、始まったばかりである。


 スタートラインに立つための前段階は終わったが、まだまだやるべきことは多い。よーい、どん! いま、この瞬間から、スタートは始まっている。今より若い時はない。この命が尽きるまでやってやる。

 光は闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝たなかった。(了)

 


 

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スタート前夜~物語が始まる前に 田島絵里子 @hatoule

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