第2話 お話の前は夜明け前

 別の話ではどうか。

 清少納言の『枕草子』は、

「春は曙」

 でスタートしている。


 その当時、貴族の間で素養になっていた漢詩では

「春眠暁を覚えず」

 が常識だった。


 つまり、春は曙を見られないほど眠いのが、通常の感性だった。だからこの清少納言の感性は日本人としての個性があり、貴族たちにウケた。今の日本人でも、この冒頭を知らない人はいないだろう。


 漢詩は男の領域だったが、女性はこれに挑戦したわけである。

 男どもは、常識にガチガチに縛られていた。

 言ってみれば女は非常識だったのである。



 では、このスタートの前はなにか。

 春は夜明けがいちばんよ、というのはわかるが、夜が明ける前はたいてい、闇である。闇が一番濃いのは夜明けだと言う。『枕草子』、スタートの前は闇だった。

(ムリクリだな……)



 日本でいちばん有名な近代作家といえば、夏目漱石か太宰治だろう。

 彼らの代表作のスタートを考察してみる。

「我が輩は猫である。名前はまだない」

 夏目漱石のこの冒頭は、清少納言の冒頭と匹敵するほどよく知られている。



 猫が唐突に現れて、名前がないと言う。暗いところでニャーニャー鳴いていたらしいのだが、このスタートの前はどうだったのか。


 主人公は野良猫だったのだから、決して「恵まれた」生活はしていない。


 明治の頃には爪とぎも猫トイレ脱臭剤もなかったはずである。もちろんチュールもない。保護猫という概念は毛ほどもない。


 猫はカラーひよこや焼き魚をくわえて、脱兎のごとく駆け去るのが普通だった。お魚くわえたドラ猫をおいかけるサザエさんは、実話である。


 藤子・F・不二雄が、家にやってきたドラ猫をヒントに、「ドラえもん」と命名した。これも有名な話である。

 この猫が生まれる前はどこにいたのか。真相は闇である。


  太宰治の『走れメロス』の冒頭。

 「メロスは激怒した」。


 怒りっぽい男である。嫁さんが来ないのは当然だろう。怒る前はなにをしていたかというと、羊とともに遊んでいた。


 怒ったり遊んだり、のんきなものである。学問という光を知らない野生児なのだ。これもまた、闇の中の人物である。

 

 このように、書籍のスタートの前は、闇である場合が多いように思える。


 みなさんは、どう思われるだろうか。


 たいていの場合、本を開くと、読者は、なんの前ふりも知識もなしに、いきなり作者の世界に放り込まれる。読者に熱中させることに成功すれば言うことはないが、へたな作品を読まされるとげんなりである。


  わたしの見るところ、物語には闇がつきものだ。つまり、物語に理性という光が差し込む前は、作家の心の中に闇がうごめているのである。宮崎駿を、NHKドキュメンタリー『仕事の流儀』で見たときには、こんなシーンが目についた。

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