第3話

 インクに沈む立花町の上空、傘の群れの中に、一人の男がいた。

 男は傘の柄を握る右手に力を込め、日が沈み影に落ちた地上を見渡していた。田舎だからか光もなく、とっくに地面は見えなくなっていた。男は傘を持って飛んでいる現状を受け入れられず、足をばたつかせたが、どこにも固い地面はなかった。男は早々に諦めた。

 時々傘を持つ手を左手に変えて、右腕を脱力し、ぷらぷらと降った。太陽の熱が溶け、冷たくなった空気を指で混ぜる。夜の空気は柔らかい。指の腹が僅かに凹んだ。

 すでに降る傘はまばらになり、視界が開けてきた。遥か遠くまで、雲は断続的に空を這っていたが、傘はこの辺りにしか降っていなかった。手に持った傘は、ふわりふわりと浮かんでいく。

 突然、自分は一人なのだと孤独感に襲われた。男は右手で暗闇に包まれた体を弄る。スーツに皺ができ、更に深い闇ができる。シャツがズボンから出て、花びらのように広がり、隙間から冷たい風が身体中を触った。

 ついに傘の先端が分厚い雲に触れた。

 男は全身を脱力して、上空へと彼を導く傘に従った。彼自身は全く望んでいないことだが、従うより他に選択肢はなかった。傘は一定の速さで雲の中へ進んでいく。視界はモヤに覆われ、足のつま先が見えなくなった。男は祈るように目を瞑った。

 瞼の上から光が差し込んできて、男は恐る恐る目を開けると、彼は雲の上に立っていた。男は驚き、よろけて手をついた。落ち葉が重なった地面のような、柔らかさの裏にしっかりとした地盤が感じられた。

 いつのまにか、手に持っていた傘は消え、手のひらにかいた汗が蒸発していく。太陽の代わりに月が照らし、男はあたりを見て思わず息を呑んだ。紺色の空に埋め尽くされた星が、宝石のように煌めいている。

 男は絶景を堪能しながら、目的もなく彷徨った。とりあえず前進しておきたかった。当てもなく歩くに連れて、だんだんと景色に慣れていき、消え掛かっていた孤独感が再び膨らんでいった。

 男は孤独だった。空に張り付いた月に見つかるのを恐れるように、体を縮こませた。満天の星と純白の雲に囲まれ、ここに一人の人間がいることが異常であるように思えた。彼は今すぐにでもここから出たかったが、地上に帰る方法は全くわからなかった。

 だから、前方に黒いシルエットが浮かび上がり、それが人であるとわかった時、男は激しく高揚した。自分以外にも人がいたことが本当に嬉しかった。影に歩み寄っているうちに、輪郭と凹凸がはっきりし出して、丸みを帯びた輪郭とスカート、ブレザーが見えた時、それが女子学生であることがわかった。

 「え」

 表情が見えるまで近づいた時、彼女は目を花びらのようにふわぁっと開いて言葉を発した。どこか呆気に取られているかのような、戸惑っているような様子だった。男は彼女を知っている気がした。

 「君は、ずっとここにいるのか」

 彼女はこちらをじっと見つめて、腕を前に組みながら右足を一歩後方に退けた。男は慌てて、降ってきた傘をつかんだらここまで飛ばされてしまったのだ、と経緯を話した。彼女は何も言葉を話さなかった。少し震えているようにも見えた。

 「人だ、と思って嬉しくて」

 話が終わると、彼女は腕の緊張を緩めて腰の横に下ろしたが、二人の距離は縮まらなかった。彼女の男を見る目は、どこか祈りを込めているように見えた。

 「君も傘につかまってきたのか」

 彼女はこくんと頷いた。男はため息をついて腰を下ろし、手を雲についた。彼女も傘に連れてこられたなら、ここから出る術もわかっていないだろう。人を見つけて色めき立ったが、結局自体は好転しなかった。

 落胆し、言葉が途切れた時、爪の伸びる音が聞こえるほどの、あたりの異様な静けさに気づいた。自分たちが死んでいるように思えた。ここは天国なのではないか、と思った。

 傘が降った?街が沈んだ?傘に飛ばされて雲の上に立っている?バカみたいだ。常識が男の全てを覆いつくした。私は死んでいる。それは確信に代わった。体から一気に力が抜けて、大きくため息をついた。私は死んだのだ。

 彼女は腰を下ろさず、じぃっと食い入るように男を見ていた。視線に気づいて男は彼女の方に目をやった。彼女は口をパクパク開きながら、何か言いたげな様子で、目は真っ直ぐ男を見ていた。彼女も死んでいるのか、と哀れみを感じた。

 目があった二人は、どちらも逸らしたりはしなかった。男の胸の内に不快感はなかったし、違和感もなかった。男は彼女が自分を見つめることを当然だと思っているかのように、彼女の視線を受け入れた。

 「あ、あの」

 半開きになった彼女の口から、音が発せられた。彼女はう...わぁ...と言葉にならない音を発して、狭い眼窩の中で彼女の黒目が泳いでいる。男は次の言葉を静かに待った。

 「・・・裕太?」 

 初めて、彼女の言葉に意味が乗った。その瞬間、彼の胸の奥から日が昇るように、全身が熱くなり、指の先から湯気が出てきた。記憶の端が見えた。見つめる彼女に夕陽が差し込んで見えた。

 ズブっ、と足が地面に、雲に沈んでいく。雲が突然、男を支えることをやめた。一瞬のうちに腰まで浸かった。

 「裕太!」

 彼女は男の手を取った。二度目の名前を呼ぶ声は、確信に満ちていた。男は彼女の手を掴み、沈んでいく体に抵抗しようと足をばたつかせたが、無駄だった。男に寄り添うように、彼女も雲の中に沈んでいった。

 「裕太、覚えてない?翔子。鈴代翔子」

 男は目の前の人間を見つめた。点が分裂し、アーモンドのような黒い目と、鋭い花に分かれる。輪郭が彼女の頬をなぞり、甘い匂いが鼻を差した。肩まで短く切り揃えられた髪が風に揺れ、反射した月明かりが鈍く光った。もう少し、もう少しだった。

 鈴代は男の目を焦がすほどに見つめた。黒い煙が雲を覆いつくしてしまいそうだった。彼女は体を男の方に引き寄せ、とんと胸に顔を埋めた。男は彼女の頭を腕で包んだ。そうしなければならないように思えた。

 男に彼女の熱が伝わってきた。一定のリズムを打つ、本能に刻まれた、心地良い熱が男の臓器の内側に届いた。彼女は生きていると思った。

 「翔子」

 彼の吐く息は、彼女の熱と同じ温度だった。 

 ついに二人は雲を抜け出した。今宵、雲を抜け出す影は二つではなく、それは夜空を埋め尽くす星の数よりも多かった。それが近づいた時、地上の夜ふかしたちは空を見上げ、空を覆い尽くすそれに感嘆した。

 その日、立花町に傘が降った。

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傘と熱 丸膝玲吾 @najuna

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