第2話

 「コーヒーって美味しい? 」

 「美味しいよ」

 「ほんとに? 」

 「ほんとに」

 「無理してない? 」

 「なんで無理すんだよ」

 「私の前だから」

 「まぁ、あるかも」

 (沈黙)

 「照れんなよ」

 「照れてない」

 午後五時、東側を向くバス停のベンチに座り、夕日の差し込む田圃を眺める。とても商売にできないような、かといって一家で管理するには持て余す田んぼで、肩身を寄せ合って茂る枯れ色の稲が、熟れたように照った。左手は山に囲まれていて、右手の向こうに開発途中の町が見える。街と田んぼの境に駅があって、そこにはバスも走っているから、田舎とも都会ともいえない、中途半端な町だな、と思った。

 「卒業したらどうすんのっ」

 鈴代翔子は足を振って、勢いをつけ、ベンチから飛び上がり、地面に着地した。つま先が地面に食い込み土を掘った。

 「大学に行かせてくれるらしいから、勉強中」

 「ふーん、その後は? 」

 「その後? 」

 翔子は真顔で言った。

 「そりゃそうでしょ。大学入学したら死ぬの? 」

 裕太はしばし沈黙した。前屈みになり、ベンチが軋んだ。

 「いや、わからん」

 翔子は、あはは、と笑って

 「真面目に考えすぎ。みんなそこまで考えてないよ」

 「じゃあ生きるわ」

 「ばんざい」

 翔子はくるりと一回転した。肩まできれいに切り揃えられた髪が、風に遊ばれて乱れた。この町にここまで綺麗に切ってくれる床屋なんてあったのか、と裕太は思った。翔子の目元が夕日に照らされ、オレンジ色の肌は活発な彼女をよく表していた。翔子は眩しい、と言って目を覆うようにして腕を顔の前に掲げ、バス停のベンチの屋根の下に再び戻った。

 「翔子は」

 「私は、そうね」

 翔子はうーんと首を捻る。口元を締め、真剣に考えているようだけど、なかなか口を開かない。

 「自分は考えていないのか」

 「悩んでるのよ。逆になんでそんなにすぐ答えれるの」

 「生きるか死ぬか答えただけ」

 翔子はふーんと鼻を鳴らした。

 「二択であんなに迷ってたんだ」

 「迷ってたんじゃなくて、死ぬなんて思わなかったから。ずっと生きるもんだと思ってたし」

 「永遠に? 」

 「永遠じゃないけど。死ぬまで生きると思ってたんだよ」

 「当たり前じゃない」

 「そうだな」

 翔子はロダンのようなポーズをとって考える。いちいち大袈裟だな、と思った。

 「哲学ね。死ぬまで生きると思ってた。深いわ」

 「からかってんだろ」

 「大真面目よ。私も今、死ぬまで生きると思ってたから。もしかしたら違うのかも」

 「違う、って。死んだらもうそこで終わり、後は生きられない」

 「生きながら死ぬこともあるかもよ」

 「どうやって」

 「そうね、たとえば、忘れられるとか」

 「忘れられる? 」

 「私の名前は? 」

 「翔子」

 「フルネームで」

 「鈴代翔子」

 「もし、私の名前を忘れてしまったら、もう呼べないじゃない」

 「そうだな」

 「名前だけじゃなくて、髪の色とか、背の高さとか、声とかも忘れたら、どう」

 裕太は腕を組み考える。翔子のことを忘れたら。

 頭の中に翔子を思い浮かべ、目を閉じた。

 まず、目が消えた。翔子の顔からアーモンドのような、クリクリした目が消えた。

次に、鼻が点になった。二つの穴と筋は一つの黒い点に集約され、記号になった。そして顔のパーツが段々と簡略化されていき、細い線画になっていく。輪郭はどんぐりのシルエットのようになった。髪はまだ残っている。首から上を後回しにして、次は胴体に注意を向けた。丸みを帯びた線を辿っていく。

 風が吹いた。日に照らされて熟れた土埃のむわっとした匂いに、軽やかな甘い匂いが重なった。彼女の匂いだった。その匂いに何故か懐かしさを覚えた。このまま彼女の姿を消したかったが、匂いが想像上の彼女にまとわりつき、離さない。彼女の姿がはっきりと現れていく。

 翔子は目を瞑って険しい顔をする裕太を急かすことなく、黙ったまま、暗くなるあたりの風景を眺めていた。彼女のその姿は静かな風のようだった。

 彼女を忘れることができず、甘い匂いに喘いでいる裕太は、ふと思った。想像上の彼女は、なんの匂いも放たない彼女は、そもそも翔子ではないじゃないか。隣に座る彼女が、本物の翔子であって、自分の頭の中から翔子のことが抜け落ちても、彼女は隣に座っている。偽物の彼女がどうなろうが、本物の彼女には関係ない話じゃないか。

 裕太は確かめるように横を向いて、彼女を見た。彼女は大きな目を輝かせて見つめ返した。自分の全てを肯定された気がした。その目から溢れる涙を見てみたいと思った。彼女は凪だった。

 彼女の目を見つめているうちに、次第に裕太の胸に怒りが募っていた。彼女は想像上の自分がいなくなることが死だと言った。なんて無責任で、独りよがりな言葉なのだと思った。他人が勝手に自分の死を決定づけるなんて。怒りを覚えた。

 「どう、忘れられた? 」

 微笑んだ彼女の目尻に皺がよる。いくら粉を付けたくっても消せそうにないほど濃く、地割れのような線だった。

 裕太は目線を一度逸らし、彼女の背後にある夕日に沈む町を見て、彼女に戻した。率直に、ずっと一緒にいたいと思った。

 「無理だった」

 「そっか、残念」

 彼女の口調は軽かった。

 「忘れようと思って忘れられるもんじゃないだろ」

 「それもそうね」

  翔子はがっかりした様子で、演技のように肩を落とし、ももに膝をついて、手で頬を支えた。

 「私もいつか忘れられるんだわ」

 唇をとんがらせて、さらりと言った。深刻さは全くなかった。だからこれを言っても、彼女の言葉を本気にしていると思われそうで、嫌だった。しかし、口を開いた。

 「忘れるのが死ぬことじゃないと思う」

 辺りから音が消えたように思えた。翔子の息を吸う音が聞こえた。

 「じゃあどうやったら死ぬの」

 「見えなくなったら」

 翔子は大きな目を見開いて、きょとんとした。しばし考えた後、目をぎゅっとつぶった。

 「じゃあ、今裕太は死んでるの? 」

 「うん」

 「嘘でしょ、声がするし」

 「気のせいかもしれない」

 「気のせいって、今喋ってるのに」

 翔子は腕を伸ばし水平に降った。ガン、と腕が脇腹に当たる。

 「痛い」

 「痛いって言った。死んでるわけない」

 違う、と反論して、やめた。確かに死んでいる人間が痛い、と言うとは思えなかった。しかし、どうにか忘れたら死ぬ、という彼女の考えを否定したかったから、何か言おうと思った。続く言葉が見つからず、項垂れる。

 しばらくして隣を見る。翔子は、降る雨粒を全て受け止めるように、口を開けて上を向いていた。腕はだらんと伸ばし、みっともない格好で。あぁ、とかうぅん、とか喘ぎ声が口から漏れていた。彼女は彼女なりに考えているようだった。

 日が沈む中で、屋根についた光のつかない蛍光灯は、二人を追い出そうとしているように見えた。ベンチの囲いの影が伸びて、道を跨いで田んぼにかかる。スズメと影が稲を取り合う。雲が出てきて、あたりを覆っていく。影が薄暗い地面に消えていく。

 「いなくなったら」

 裕太の発する言葉に骨も肉もなかった。彼の心がむき出しになって、出た。

 「いなくなったら死ぬ」

 翔子は黙っていた。裕太は沈黙を返すように言葉を続けた。

 「その人のことを忘れても、目の前にいたらその人は生きてる。覚えていても、そこにいなかったら死んでる」

 「引越したら死んじゃうの?」

 「いや、いるって感覚があれば生きてる。たとえ引っ越しても、あぁそこにいるんだって思えれば生きてるんだ」

 「実感ってこと。なんか曖昧」

 「まぁ、確かに。でも生きるとか死ぬとかってそんなもんなんじゃない」

 「そうかも」

 翔子は手をベンチについて、足をふらつかせた。彼女の足が押し出した空気がズボンの溝を通って足首を触った。少し暖かかった。

 「だから年賀状出すんだね。ここにいるよって言うために」

 「そこまで考えてなかったけど、そうかな」

 「いいね」

 翔子は黙った。裕太も黙った。

 沈黙する二人の座る囲いの中に風が流れ込んできた。肌寒い、夜の始まりを告げる風だった。言葉が口から離れていくにつれて、それが正解なのか自信がなくなっていく。両手の指を絡めて、手のひらの熱を閉じ込める。頸に汗をかく。

 「でもそれって裕太の考えだよね」

 突然、翔子が言った。体に緊張が走った。

 「うん」

 「じゃあ、私がさ、死とは思い込みである、って言ってもいいわけだよね」

 何が言いたいのかわからなかったが、とりあえず裕太は首肯した。翔子の考えを否定する理由もなかった。彼女はじっと、裕太の目を見つめ、笑った。

 「私たち死なないね」

 翔子は立ち上がり、お尻を叩いて、立ち上がった。昼間の残火が彼女の髪に差し込み、茜色の線を描いた。風がスカートを靡かせる。裕太はその背を、ただ見つめていた。

 立ち上がり、彼女の隣に立つ。そろそろ帰ろうか、と彼女に話しかけようと隣を見ると、彼女は口を半開きにして、空を見上げていた。見惚れているような、覚えろげな記憶を掘り返そうとしているような、そんな表情だった。

 「どうした」

 「あれ」

 翔子は空を指差した。茜色に染まる雲の下に、何か、雨ではない何かが散らばっていた。彼らの目にはその姿形がはっきりと見えていたが、常識と経験からそれを口にするのが憚られた。やがて、翔子がその垣根を飛び越え、

 「傘だ」

と呟いた。赤子の第一声を聞いたような、そんな感動があった。

 翔子はただ立っていた。逃げることも、騒ぐこともせずに、バスの時刻表とともに立っていた。裕太は彼女の横で、鏡のように、全く同じようにして立っていた。不安はなかった。

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