傘と熱

丸膝玲吾

第1話

 ある日の夕方、立花町に傘が降った。

 二方を山に囲まれ、低地に位置する町の南には電車が通っていて、そこに、地面に灰色の箱を無造作に置いたような小さな駅があった。北に行けば行くほど田んぼが目立ち、人が少なくなって、山の裾に押し出されるように住宅が点在していた。それは町が自然に侵食されているようだった。

 傘が降った時、町人は灰色の雲に浮かぶ点々を、じぃっと目を細めて見上げた。草木が根を張るようにゆったりと地面に近づいてくる点々は、雨粒でないことは確かだったが、その正体がわかるまで、人々は首を伸ばして立ち止まっていた。ある人は雪だと言ったが、雪が降るにしては早いし、この町で雪は数十年ほど降っていなかったから、誰もそうだとは思わなかった。

 次第に黒い点々が大きくなり、輪郭をあらわにして、それが傘だと分かったとき、綱渡りが成功したような、小さな歓声が起こった。人々は足を止め、口を開けながら少年心をむき出しにして、空を見上げた。彼らはすぐさま傘を自分たちの町に受け入れた。もちろん、拒絶する方法もなかったのだけど、大きく布を広げ、空を覆い尽くす傘の群れに対して、恐怖ではなく高揚感と期待を抱いたのは、彼らが日々うっすらと閉塞感を感じ、退屈であったからだった。

 やがて空から降りてきた傘が地面に触れた。次々に積み重なる傘に、人々は見入った。大体の傘が、誰かに使われたように、皺が寄っていたり骨が錆びついていたり、柄をどこかにぶつけたように凹んでいたりした。空から降ってきたことを除けば全く何の変哲のない傘だったのだが、人々はそれを食い入るように見つめた。空から降ってきた、この事実が傘に物語と幻惑を付随させて、彼らを惹きつけていた。

 これは飛行機から落としたのではないか、傘屋から飛ばされてきたのではないか、単なる偶然か、と人々の中でさまざまな憶測が飛び交った。しかし、どれだけ見ても目の前にあるのはただの傘だったから、興味は持続しなかった。

 次第に熱は冷め、傘は興味の対象から、障害物に変わっていった。すでにある人々は降ってくる傘を鬱陶しそうに手で退けた。どこかでクラクションがなったのが聞こえたが、誰に向けられたものでもない音は、鼠色の雲に霧散していった。

 「おわっ!」

 突然、誰かの叫び声がした。

 叫び声には恐怖と驚きが混じっていたから、人々はその声に強く惹きつけられて、指揮者が棒を振ったかのように、一斉に声主の方を見た。

 声主は、三十代ぐらいの男性だった。紺色のスーツに、斜めに白い線が入った黒色のネクタイを閉め、背中には黒い、四角い箱のようなリュックを背負っている。工場で大量生産されているような彼が注目を集めたのは、右手に黄色の傘を握って空を飛んでいる、その様子からだった。

 それは飛んでいるというよりも、傘に引っ張られ、空に引き摺り込まれたがために、手を離したくても離せない危機的状況だった。人々は呆気に取られ、口を開けて立ち尽くした。

 中には助けようと、飛ぶ彼の元まで歩く人もいたが、オロオロと右往左往するだけで、どうすることもできなかった。人々は、普段鉄仮面のように表情を微動だにしないビジネスマンが、慌てた様子で傘に引っ張られる様子がおかしくて、ほとんど周りはクスクスと笑い、そのピエロを取り囲んで、喜劇を楽しんだ。彼からしてみればたまったものではなかったが、彼も地上を見る余裕すらなく、振り落とされるまいと傘の柄をしっかりと握った。

 ピエロは誰かに助けられることもなく、地面に帰ることもなく、傘の海の中に沈んでいった。

 喜劇が終わって席を立ち、家路につく人々の前には傘があった。飛んで行った彼から目を離し、いざ目の前の傘と対峙すると、人ごとだと思えたものが、急に現実味を帯び出した。傘が自分たちに仕掛けられた鋭い罠のように思えた。柄を握った瞬間に空へ飛ばされるのではないかと、決して触らないように、両手を握りながら、ポッケに手を突っ込みながら、家へと急いだ。彼らはもう一度、傘が降った、という事象に真っ向から対峙し、この現象の異質さを改めて認識した。彼らの中に恐怖が芽生えた。

 バスロータリーの近く、駅前に驚きの声が上がった。

 今日何度目かのどよめきに、多少疲れを感じながら、周囲の人の反応に遅れた人たちは、ざわめきに向かって振り返った。そして、それは駅前特有の現象ではなく、自分の身の回りにも起こっていることを知った。

 見ると、地面に落ちた傘が、地面に触れた柄と生地の縁の部分から溶け出して、傘下に水溜りを作っている。黄色い傘は黄色く溶けて、紺色の傘は紺色に溶けていた。

 地面に触れる傘から次々に溶け出して、巨人がインクをこぼしたかのように、町一帯がおよそ自然界にない色で覆われた。ある子供が母親の手を引っ張りながら、「スプラトゥーン!」と言った。

 はしゃぐ子供に対し、大人は冷めていた。

 見慣れた傘の代わりにできた、色とりどりの水たまりは、なんだか得体のしれないものであり、不気味で、近寄りがたかった。合成着色料のような、人工物であることを声高に主張したような色々に、子供の手を握る親の足が早まった。

辺りは暗くなっていく一方で、アスファルトの上にできたインクは地面に染み込むことはなかった。次々にできる水たまりを避けられずに、人々の足は十色に塗られていく。色とりどりの足はマーブルが散らばっているかのようだった。

 誰かが「まだ降ってる」とつぶやいた。

 それは誰に向けられたものでもなかったから、薄紅が差す灰色の空に溶けていくはずだった。しかし、人々は不安によって周りの物事に過敏になっていたから、その誰かの言葉を、誰かが耳に入れ、空を見上げた。一人、また一人と増えていく。不安が伝染していき、質量のある霧となって町を覆っていく。

 降り続く傘は止まず、住人は小粒の不安を胸に抱き、足元を見て、それはみるみるうちに膨れ上がった。足が別の生き物のように動く。事態を飲み込めない上半身は、本能の獣のように、反射的に目の前の傘を避けていく。

 地面に溜まったインクはやがて混ざり合い、黒色になった。インクは足裏、くるぶし、脛、膝小僧、と量を増していった。町人は必死に走った。人々は入り乱れ、傘にぶつかり、押し出された傘の骨が誰かを刺した。傘に覆われ視界は悪く、住人は見えない段差に引っかかりながら走った。

 やがて胸の高さまでインクが溜まり、車はほぼ液体に浸かって、車に乗っていた人々は、それを捨て、どこへいくでもなく泳ぎ、泳げないものは必死にインクをかき分けた。

 ある母は子供を抱き抱え、自分の顔の高さまで持ち上げて空気を吸わせようとした。子供は何が起きているか、状況が全く理解できず、綿毛みたいに飛んでくる傘に無邪気に手を伸ばした。

 母はその手を引っ込ませようとしたが、空を飛んでいたサラリーマンを思い出した。ハッとして空を見上げても、空にひしめく無数の傘が邪魔で見えなかったが、このまま歩いていても助かりそうはなかった。母は自分の持っていた荷物を全て下ろし、子供を左脇に抱え、飛んできた透明なビニル傘を手に取った。

 触れた瞬間、柄がどろりと溶けた。片栗粉を混ぜた水のように、シワの刻まれた手を、生暖かい液体が這っていった。最後の望みが消えた母は子供を水面に置いて、どうにか浮いてくれないか、といろいろ試してみたが、無駄だった。母は子を両手で抱き抱え、空を眺めた。

 暗い空を背景に、大きく生地を広げた傘の裏面は、大きく口を開けた肉食獣のようで、あぁ、これは傘の食事なのか、と思った。

 母と子はインクに沈んだ。そして、夜になって、町はインクの海に呑み込まれた。




 

 

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