第6話 奇妙なボール

 何とか復活できるようになったことで、

「俺って、悪運が強いのかな?」

 と感じるようになった。

 確かに野球において、肘を壊すまでは、性格的に、自信過剰であって、途中勝てなくなっても、

「今だけだ、研究されただけのことで、こちらが研究しなおして、相手の苦手なコースに投げ込めば、そんなに撃たれるようなこともなんだ」

 と思っていた。

 戸次投手の最大の武器は、豪速球だった、

 だからと言って、ノーコンというわけではない。コースへの投げ分け、変化球とのコンビネーションなども、他の投手並みにできたのだ。

 一年目は、それこそ、お互いに分からないところもあって、豪速球を投げ込むだけで、相手を抑えることができた。

 最近のプロ野球界で、新人のピッチャーが活躍する場合は、豪速球投手の場合が、ほとんどだった。

 だが、高卒ルーキーの活躍ともなると、もうここ10数年、いなかった。最後に高卒ルーキーが、二けた勝利を挙げたというのは、おおよそ、15年ぶりだったようで、勝ち星が、重なっていくごとに、新聞は、

「高卒ルーキーの大活躍」

 ということで、騒ぎ立てるのだった。

 デビュー戦は、開幕3戦目だった。

 高卒ルーキーが、一年目から一軍に台頭し、しかも、開幕ローテーションの中に入るなど、本当に久しぶりのことだった。

「高校野球で、優勝投手として、ドラフト一位で入団した選手は、なかなか活躍できない」

 と言われた時代だった。

 いや、過去のプロ野球の歴史においても、高卒ルーキーが二けた勝利を挙げ、その名前を刻んだ人の中に、

「優勝投手」

 というのは、ほとんどいなかった。

 しかし、高校で優勝投手になり、鳴り物入りで入団してきて、そのまま二けた勝利を挙げた投手は、最終的に、名球会に入っている人が多かったりした。

 名球会というのは、ピッチャーでいえば、200勝、そして、バッターで言えば、2000本安打を達成した選手に贈られる称号であった。

 名球会というのは、プロ野球協会というよりも、かつてのレジェンドのような選手が定めたものであり、最近の野球の変化から、その選定にも少し変化が表れてきた。

 特に投手が少し変わってきた。

「最近の野球は、昔のような先発完投が多かった時代とは違い、中継ぎ、抑えのピッチャーも多い」

 ということで、セーブの数も名球会入会への条件に加わったりした。

 さらに、これは投手に限ったことではないが、最近のプロ野球は、海外を目指す人が増えてきた。

 日本である程度の実績を上げて、その実績を手土産に、メジャーリーグを目指すというものであった。

 日本で、数年活躍し、海を渡って、向こうで活躍する。この流れは、今から、四半世紀前くらいからあったのだ。

 それまではというと、

「日本の野球と、メジャーの野球ではあまりにも差がありすぎて、同じ野球といっても、まるで別のスポーツのようだった」

 とまで言われていた。

 つまりは、

「日本は野球で、メジャーは、ベースボールだ」

 ということであった。

 だから、助っ人外人というと、ほとんどが、ホームランバッターであり、

「現役大リーガー」

 と言われる選手が、日本に助っ人としてきたりなどすれば、年棒も違えば、下手をすると、ロッカーも違ったりして、明らかな特別待遇だったりした時代だった。

 当然、契約も複数年契約で、日本の選手の足元にも及ばない額の金を、その選手一人に払っていたのだった。

 ただ、

「あたりもいれば、外れもいる」

 ということで、日本に来て、

「現役大リーガー」

 と呼ばれたその名前にふさわしい活躍をする選手もいた、

 しかし、中には、まったく振るわない選手もいた、鳴り物入りで入団し、スプリングキャンプでは、その打棒が連日報道され、

「さすが、現役メジャーリーガー。オープン戦で、ホームランを連発」

 などと新聞記事の一面を独り占めしていたものだった。

 だが、実際にシーズンに入ると、まったく打てなくなっていた。

 敵チームのスコアラーによって、選手の欠点が研究され、開幕から、まったく振るわないという状態に陥ることも少なくなかった。

「オープン戦にいくらホームランを連発してもなぁ」

 とばかりにいわれるようになった。

 開幕から、ずっと、4番を撃ち続けている。いくら不調でも、打順を変えることをしない監督もいる。

 もちろん、監督の信念に基づいている場合もあるだろうが、それよりも、

「オーナーの命令」

 が多い場合もあった。

 オーナーとすれば、

「最初は日本の野球に慣れていないだけで、そのうちに、慣れてくると、打ちだすよ」

 といって、監督に、

「決して、4番から外したり、ましてや、スタメンから外すなどもってのほか」

 と言われていたのだろう。

 だから、4番を撃ち続けることになるのだが、オーナーの指摘とは、実は正反対であり。ほとんどの選手は、

「慣れてくる」

 というどころか、それよりも、選手自体が、自信喪失してしまうことの方が多かった。

 メジャー昇格してから、ずっとホームランを打ち続け、その勢いをかって、いろいろな球団が食指を伸ばすことで、複数球団に籍を置いていたのだった。

 日本の場合は、

「他球団に移る」

 というと、一番の原因としては、

「トレードというもので、自分たちのチームの補強する部分の選手を獲得するために、放出する交換相手」

 ということで、あまりいいイメージがなかった。

 一般社会人としても、

「職を移る」

 というと、いいイメージがない。

 何といっても、当時の日本は、

「終身雇用」

「年功序列」

 と呼ばれるのが普通で、一つの会社で、定年まで勤めあげるというのが、当たり前の時代だったのだ。

 だが、アメリカ風の、

「実力主義」

 と言われ出して、企業による引き抜きなどが行われるようになると、年功序列、終身雇用というのは、幻のようになっていった。

 バブル経済が弾けたことも、大きな原因だっただろう、だから、

「会社には、仕事のできない人間はいらない」

 などという言われ方をして、

「リストラしやすくした」

 ということもあったのではないだろうか?

 元来リストラというのは、

「会社を合理的な運営をする」

 というポジティブな考えのはずなのに、いつのまにか、

「人員整理」

 というネガティブな考えに変わってしまったというのだろうか?

 ただ、幸いにも、戸次がトレードされることはなかった。選手によっては、トレードされることが、復活の兆しになる選手もいるが、戸次尾場合はそうではなかった。

 だが、彼自身にも、

「ずっと東鉄球団にお世話になる」

 という気はなかったようで、それでも、今はその気持ちを奥にひそめ、とりあえずは、復活しないことにはどうなるものでもなく、必死にリハビリ、そして復活を目指していたのだ。

 二軍での生活は、それほど苦痛ではなかった。

 それでも、なかなか一軍切符を手にすることができなかったのは、焦りにもつながっていたが、そのうちに、それほどきついものではなくなっていた。

「慣れというのは、怖いものだ」

 と感じたのも事実だったが、辛さから逃れるという意味では、嫌なことではなかった。

 辛さというものが、一体どういうことなのかということを、この二軍生活で分かった気がした。

「その時の辛さが一番つらいもので、過去に味わった辛さがどんなにきつくとも、あくまでも、今への前哨戦でしかない」

 と思うようになってきた。

 そう思ったのは、そもそもの転落の最初だった、

「2年目のジンクス」

 だった。

 あの時は、

「自分がまさか、二年目のジンクスに引っかかるとは、思ってもみなかった」

 という感覚だったが、それよりも、まず、

「二年目のジンクスなどというものは、迷信であって、そんなものが本当に存在するなんてビックリだ」

 ということを感じた。

 一軍で、あれだけできた1年目で、自信がそのまま過剰になってしまったということは、自分でも認めざるを得ないだろう。

 しかし、まさか、

「同じことをやっているのに、なぜ去年と違うんだ?」

 と感じたのだ。

 確かに、

「一年目を研究されて、二年目に自分が思っているようにはいかない」

 ということが、

「二年目のジンクス」

 ということなのだ。

 というような話を聴いたことがあったが、本当にそんなことが起こるとは、信じられなかった。

 だが、考えてみると、こちらには、その防御方法などあるわけはない。何しろ、相手が研究してくるとしても、いかな方法を取ってくるか、自分には分からない。自分の弱点を知っていて、そこに対する対策を取ったとしても、相手は全然違う方法で来たとすれば、まったく防御にはならないからだった。

 だから、できるとすれば、

「二年目のジンクスをいかに生え返すか?」

 ということであり、二年目は受け身でしかなかった。

 理屈はそうなのだが、それを考えていると、少し虚しさもあった。

「これだったら、毎回、相手との駆け引きに終始するばかりではないか?」

 ということであった。

 というのも、

「俺は野球選手で、ずっと野球しかやってこなかったので、そんな頭を使うようなことができるだろうか?」

 という考え方から、

「毎回毎回、そんな腹の探り合いのようなこと、何か嫌だな」

 と思うようになった。

 野球をやっている時は、

「どんとこい」

 という感じで、何であっても受け止めるというような精神状態なのであったが、実際には、小心者で、考えることが、それほど深くなくとも、同じところをクルクルまわるという、堂々巡りをいつも繰り返しているような、そんな繊細な神経の持ち主だったのだ。

 それを今まで見せなかったのは、野球において出来上がった、

「自信」

 だったのだろう。

 自惚れや、自信過剰は多々あったが、それも自分で悪いことだとは思っていなかった。

「自惚れも自信過剰も、それで自分が成長できるのであれば、それでいいじゃないか」

 というものだった。

 それらが自分に影響してくることとして、どちらかというと、

「敵を作る作らない」

 という方にくるだろうと思っていたので、言動には注意をするようにしていた。

 余計なことをいうと、敵を作って、自分が苦労するだけだ」

 と、子供の頃から言われていて、他のことはいざ知らず、これだけは、守るようにしていたのだ。

 それが幸いしたのか、これまで言動にて、炎上したり、人の恨みを買うことはなかった。

 中には、マスゴミにいいたい放題に話をして、案の定、炎上してしまう人がいたが、そういう人は、何度も同じようなことを繰り返している。

「本人が分かっていないのか、それとも、生まれつきのくせなのか?」

 のどちらかなのだろうとは思ったが、実際にはどちらなのかということは、正直分からなかったのだ。

 選手として、プロ野球界に君臨している先輩たち、中には、大きな口を叩いている人もいるが、それは、数年実績を重ねてきている人で、マスゴミによっては、炎上として報道しているところもあるが、ほとんどのところは、

「その言動も、実力のうち」

 ということで、選手としての栄光への道を歩んでいる中での一つの、

「武勇伝」

 のようなものだといってもいいだろう。

 戸次は、そこまでの選手でもない。今までプロ野球界でも、

「一年目、大活躍をして、その後、どんどん、尻すぼみになってしまい、そのまま引退してしまう」

 という選手が山ほどいた。

 自分がまさか、そうなりそうなところにいるというのは、正直ショックなことであったが、まだなったわけではない。

「これからの自分をいかに見つめるか」

 ということなのだろうが、精神的にかなりきついのは、当然のことだった。

 ただ、成績が悪くなった最初の頃程、

「自分が難しいことは分からない」

 という気持ちがやわらいできた。

 それは、

「考えることから逃げていた」

 というのが、今から思えば、本音だったのではないかと思うのだが、確かに、二軍に落ちてしまって、最初、焦っているつもりはないのに、

「本当は焦っていたのではないか?」

 と思うと、

「何かから逃げていた」

 というよりも、

「すべてのことから逃げようとして、その逃げているものを一つに絞りたくない」

 という意識が強かったのではないかと思うのだった。

 だから、焦りを感じたくなかったのであって、焦っていると思うと、その時点で逃げられない、いや、一定の答えを用意しなければ、

「何かに追いつかれてしまう」

 という恐ろしさがあったのだ。

 その何かというものの正体が分からない。

 分かっているからといって、怖くないわけではないのだが、分からないよりは、ましなのだろう。

 そんなことを考えていると、

「野球というのは、考えるスポーツなのかも知れないな」

 と感じるようになった。

 だからといって、

「何をどのように考えなければいけないのか?」

 ということが分かるはずもなく、ただ、

「考えるというくせのようなものをつけないといけないんだろうな」

 というような、漠然とした考えが浮かんできたりするのだった。

 まず、手術に全力を注ぎ、さらには、リハビリが待っている。それを乗り越えることで、やっと、復活が見えてくるのだ。

「復活への切符が手に入る」

 ということであり、

「復活が約束された」

 というわけではない。

「これからも、投げ続けることができる」

 ということであり、

「今までのような活躍ができるわけではない」

 ということなのだ。

 つまりは、物事が先に進むにつれて、自分が思い描いていることが、すべて成功に結び付くわけではない。もちろん、ことごとく失敗するわけでもないが、今までは、なるべく考えないようにしてきたことから、本当は分かっているのに、分からないつもりでいた。

「それが野球選手というものだ」

 と感じた。

 ちゃんと分かっていることを認めてしまうと、選手として、せっかく持っている、

「闘争心」

 が、うまくいかなくなると思っていたのだ。

 逆の意味としての、

「逃走心」

 というダジャレに変換されてしまいそうで、それが嫌だったのだ。

 確かに、今までの自分は、闘争心の塊だったかも知れない。しかし、そこは、裏を返せば、心のどこかで、

「逃走心」

 というものを思い浮かべていたのではないかと思うと、ちょっと悪い兆しが見え始めた時、本当は、

「いまさら」

 といってもいいことを、まるで、

「初めてのことだ」

 と言わんばかりに感じていることを予感していたのだった。

 リハビリが成功し、二軍で復帰を果たすと、最初は、

「これで、後は慣れてきさえすれば、一軍復帰も時間の問題だ」

 と思っていたのだ。

 そもそも、その時は、

「二年目のジンクス」

 ということがあったということを失念していた。

 忘れたわけではないのだが、頭の中になかった。

 というのは、

「それを思いだしてしまっては、弱気になってしまい、せっかく上昇気流に乗りかかっているところを水を差すことになってしまう」

 と言っても、過言ではないだろう。

 二軍のマウンドに上がっていると、一軍での一年目を思い出す。

「三振に取ろうと思えば、いくらでも取れる」

 というくらいの自信だったのだ。

 確かに、スピードボールは、昔納得しながら投げていた時に戻った気がした。コントロールは、生まれついてのものだったので、ケガの前と後で、かわりはない。だから、復活まで、あと少しだと思ったのも、当然のことだった。

 そして、ケガが治って、何とか2軍の片隅で、復帰のための練習をしている時であった。

 いつも、戸次のことを意識しているファンがいることに、最初は気づいていなかった。

 復帰のために大切なこととして一番の問題が、

「下半身の強化」

 だったのだ。

 子供の頃に

「プロ野球選手になりたい」

 ということで、必死になって練習していたあの頃を思い出させるのだった。

 ずっと毎日、走り続けていた。自分が、マウンドに立っているという意識は、そこまではなかったはずだったが、おぼろげにそれが見えてくると、努力が報われてきていることを自覚できるようになったのだった。

 今度は、投球練習に時間をかけるようになると、毎日、自分が上達していることを分かるようになった。

 日に日に増してくるように見えるスピード、

「有頂天になるな」

 というのが、無理だというもので、すでにその時は野球部に所属していて、キャッチャーから、

「すごいぞ、どんどん速くなっている」

 と言われて、またしても、有頂天になったものだった。

「これだったら、全国大会出場も夢じゃない」

 と言われ、その話が次第に大きくなり、新聞社が取材に来るほどだった。

「今年の夏の地区大会の目玉」

 ということで、写真入りで記事になった。

「全国大会への切符のカギを握るのは、戸次投手」

 などと書かれると、もう有頂天の絶頂にあった。

 身内からであれば、

「お世辞」

 という可能性が十分に高い。

 しかし、それが、マスゴミの手によるものであれば、その信憑性はかなりのものではないだろうか?

「戸次君は、最近にない剛速球を投げているから、他のチームも打ちあぐねるんじゃないか?」

 と漠然と言われたが、その中で一人の記者から、

「戸次君の球は、ただ早いだけはなくって、他の人にはない回転があるから、打ちにくいのさ。ただ、回転数が早いというわけではなく、グイグイスピードが乗ってくるので、その分、不利送れるし、バッターには力が入らない。三振が取れなくても、重くて、遠くには飛ばない特殊なボールを投げるのさ」

 と言われた。

 しばらくは、ずっと三振奪取が続いていたので忘れていたが、復帰するようになって、その時の言葉を思い出した。

 すると、タイミングよく、ある一軍の強打者で、新人の年に、比較的よく打たれたバッターがいたのだが、彼が、雑誌取材で、

「どの投手の球が打ちにくいですか?」

 と聞かれて、

「戸次投手」

 と答えていた。

「戸次投手ですか? その理由は?」

 と聞かれ、

「彼は、不思議な球を投げるんです。ここぞという時に相手を討ち取るボールなんでしょうが、三振を取りにくるボールじゃないんですよ。それよりも、相手のバットごと粉砕してくるかのようなボールなんです」

 と答えていた。

 記者は、意味がよく分からないということであったが、選手の方も、

「どう説明していいのか分からないが」

 ということであった。

 確かに言われてみると、そのバッターは一年目には結構討たれたが、2年目以降、つまり成績が悪くなってから、逆に対戦成績はよくなっていたのを思い出していた。

「でも、戸次投手相手には結構打っていた印象があるんですけどね」

 というと、

「それは、彼が一年目の時ですよ、でも、2年目以降は、ほとんど打てなかったんですよね」

 というので、

「えっ、そうだったんですか? それは意外でしたね」

 と答えたのは、戸次の成績が一気に下がったからだろう。

「今まで抑え込んでいた選手に、ことごとく撃たれていた」

 という印象があったからだ。

 しかし、彼はいう。

「これは私だけではないですよ。きっと、一年目に結構打った選手は、2年目以降は、戸次投手を苦手にしているはずです。特にホームランバッターによく言えることじゃないですか?」

 といっていた。

 実際に、調べてみると、その通りだということが分かったようで、その雑誌に、またそのことを書かれていたのだった。

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