第2話 高校野球というもの

 テレビでプロ野球の放送をしなくなって久しい昨今、高校野球は以前のように放送していた、

「某国営風放送局」

 であったり、

「主催新聞社の系列放送局」

 であったりするところが、放映権を持っているのか、実況している。

「やはり、地域の代表や、母校の応援などということで、高校野球は人気がある」

 ということであろう。

 しかも、国営風放送局は、コマーシャルがないので、空き時間のようなものがない。

 そもそも、民放のコマーシャルというもの、あんなものを誰が見るというのだろうか?

 正直見ていても、

「何が楽しいんだ?」

 としか思えない。

 アイドルや、イケメンが出ていると、確かに、若者などは見るかも知れないが、

「だから?」

 と言われてそれまでである。

 確かに見ることは見たとしても、

「その商品を買うか?」

 と言って、まず買わないだろう。

 もちろん、買う人もいるだろうが、それは、コマーシャルを見るから買うわけではない、確かに、似たような団栗の背比べのような商品であれば、

「推しが宣伝しているものを買おうかな?」

 と思うだろうが、正直、そこまでこだわることはないだろう。

 明らかに、使い勝手の良さは人によって違うだろうから、一概には言えないが、その人にとって一番と思えるものを買うだろうから、CM効果というのは、それほどでもないのではないだろうか?

「頭の片隅にちょっと残った」

 という程度で、スーパーなどに買い物にいけば、そんなことはあまり頭になく、それよりも、

「どれが安い?」

「どれが売れてる?」

 という形のものを探すことになるだろう。

 それを思うと、

「コマーシャルの効果よりも、実際に商品を目も前で見て感じる方が、圧倒的に強いと思うのだった」

 ただ、スーパーなどでは、宣伝として、CMに出ている俳優のポスターやパネルなどを使って、

「CMで話題の」

 というポップをつけて、実際に有名かどうかは別にして、あたかも売れているかのような演出をするに違いない。

 だから、そういう意味で、CM効果というのは、一定レベルであるのではないだろうか?

 しかし、実際にCMに入ると、たいていの人が、そこで白けてしまうだろう。

 特に最近増えてきたバラエティ番組などでは、何を考えているのか分からないが、放送の構成の中で、

「ちょうどいいところで、CMに入る」

 というものだ。

 視聴者に期待を持たせるところでCMに入るので、そこで、チャンネルを変えるわけにもいかない。例えばクイズ番組なので、尺を持たせるということなのか、回答に近づいた時、やたらと、CMで引っ張ったりする。

 確かに、何度もCMに入られ、答えが出そうなところで引っ張られると、

「えい、くそっ」

 とか思うのだが、チャンネルを変えるに変えられない。それが、放送局側のトラップのようなものだといってもいいだろう。

 ただ、それは、昔のように、

「テレビは見るが、どのチャンネルにするかは、その時の心境」

 と思っている場合はそれでもいいかも知れない。

 昔であれば、

「二時間サスペンス」

 などを、夜9時から11時までやっているとすれば、他の局が、一時間番組を組んでいるとして、大体、50分すぎくらいに、放送が終了するとして、わざとちょうどそのタイミングくらいに、女優の入浴シーンなどの、目を引くシーンを入れておくと、チャンネルを探していた人の手が、そこで止まり、今度は途中からであっても、その番組を見てしまうという、男のいやらしい心理を突くという、あざとい方法が取られたりしたものだ。

 特に、勧善懲悪が売りの時代劇などで、主人公が、

「印籠」

 を見せたり、

「背中の桜吹雪」

 を見せ、ちょうと、悪者を懲らしめる時間をいつも同じくらいの時間にあてているという、完全ともいえる、ワンパターンな番組であるが、日本人、特に年配には、圧倒的な人気があった。

 だが、逆に、人によっては。

「45分くらいから見始めても、肝心な部分が見れるから、気分がスカッとする場面を見ることができる」

 として、バラエティをやっていれば、ちょうどその時間にチャンネルを回す人も多かったことだろう。

 だから、ちょうどそれくらいの時間に、他のチャンネルの視聴率が少し落ち、その代わり、

「勧善懲悪の時代劇」

 の視聴率が、爆発的に伸びることで、平均視聴率では、そこまでなくとも、瞬間視聴率は、

「いつもトップ」

 ということになるであろう。

 それが、テレビというものの面白いところだが、そんな鉄板だと思われた時代劇も、ここ10年くらいで、放送されなくなった。

 これも野球と同じで、

「映画や時代劇などの専門チャンネルが、有料放送でできたので、皆そっちに流れた」

 ということであろう。

 そもそも、末期の時代劇というのは、年配向けというよりも、若者向けだった。

 それこそ、アイドルやイケメンがたくさん出ていて、若者の視聴者獲得を狙うという、本当に末期の気違いじみた発想だったといってもいいかも知れない。

 それを思うと、

「時代劇は、ずっと血を流しながら続けてきたようなものだ」

 ということであった。

 それを聞くと、昔の特撮で流行った有名な言葉を思い出した。

「血を吐きながら続けるマラソン」

 という言葉があった。

 その言葉の意味としては、昭和の昔、第二次大戦後に起こった、

「東西冷戦」

 つまりは、民主主義陣営と社会主義陣営の争いがあったのだが、それは、超大国として君臨していた、

「ソ連とアメリカ」

 の対立であった。

 そこで、両国は、直接対決はしないが、いろいろな科学技術で争っていたのだ。その代表例が、

「核開発競争」

 であり、

「宇宙開発競争」

 であった。

 核開発とは、まさに、原爆、水爆開発で、いたるところで核実験を行っていたのだ。

「放射能の問題がある」

 と言われているのにである。

 宇宙競争も、核開発に似たところがあった。

「宇宙ロケットの開発は、大陸間弾道弾である、ICBMの開発に直結する」

 というもので、結局は、核開発であったのだ。

 そんな核開発競争を皮肉った言い方が、

「火を吐きながら、続けるマラソン」

 ということであった。

 こちらが開発をすれば、向こうはさらに強力なものを作る。するとこっちもさらに強力なものを……。

 ということになるのだが、それは、世界滅亡への階段を昇っているという意識から、そう言葉を使ったのではないだろうか?

 そもそも、核兵器開発というものを、どちらも危険視していなかったのは、

「超兵器を持っていれば、相手がむやみに攻撃してこなくなる」

 という、いわゆる、

「抑止力」

 が、あったからで、まるで、

「一つの檻の中に二匹のサソリを入れるのと同じだ」

 というたとえ話があった。

 サソリは、お互いに相手を殺すだけの力はあるが、それは、同時に自分も殺されるという危険を孕んでいるということだった。

 だから、力が互角であれば、気を抜いたほうが負けるといってもいいだろう。相手が鉄壁の防備をしてくれば、迂闊に手を出すことはできないし、相手も攻撃できないという、緊張が張り詰めた異様な雰囲気の世界であろう。

 つまりは、

「世界中が緊張の糸を張り詰めた状態だった」

 ということであろう、

 ただ、これは一歩間違うと、痺れを切らして攻撃をしてしまうと、相手も報復してくる。つまりは、

「核ミサイルの撃ち合い」

 ということになり、結果は言わずと知れているだろう。

 実際にそんな映画はいくつもつくられたし、マンガにも小説にもなったことであろう。

 核兵器に限らないが、ほぼ拮抗した力を、お互いの抑止力に使うということは、理屈ではわるいことではないのだろうが、実際の緊張状態というのは、なってみなければ分からない。

 そんな時というのは、えてして、想定外のことが起こるというもので、緊張に耐えられなかった隊員が、核の発射ボタンを押すということもないとは言えない。

 だから、二重三重の防護柵は取っているだろう。

 一つのボタンだけでは発射は不可能で、3つくらいのボタンを押さないと、発射できないという状態だ。

 もし、例外的にできるとすれば、

「敵対国がミサイルを発射した時の、報復だけであろう」

 つまりは、こちらから、セキュリティを無視しての発射というのは、

「自国の滅亡」

 を意味しているということであろう。

 だからこそ、

「血を吐きながら続けるマラソン」

 なのだ。

 緊張がいつ、暴発するか分からない。そんな緊張も長くは続くはずもない。

 第二次大戦から、ソ連の崩壊までの、約半世紀近くも、よく緊張に耐えてきたものだ。

 それまでの間に、

「朝鮮戦争」

「キューバ危機」

「ベトナム戦争」

 と、幾多の危機的なことはあったが、直接対戦はなく、あくまでも、

「代理戦争」

 ということだったではないか。

 それを思うと、

「血を吐きながら続けるマラソン」

 で、一体、両国はどれほどの血を吐いて、さらに、他の国が置いていかれたかのように感じたのかということであった。

 核戦争というものが、

「抑止につながる」

 という神話が崩れたのが、キューバ危機だっただろう。

 アメリカを始め、ほとんどの人が、

「全面核戦争」

 という危機を見ることになったのだった。

 そんな時代から今で、約60年、世界は本当に成長したといえるのだろうか?

 核開発のためか、対話を狙ってか、ミサイルを撃ち続けているところもあるのだが、実際の目的はどこにあるというのか、実によくわからないところであった。

 話が逸れてしまったが、高校野球で、評判になった投手がいて、その投手が、実は、

「両手利き」

 ということで、右投げも左投げも可能な投手で、しかも、

「高校野球選手権大会」

 で、全国優勝を成し遂げたのだった。

 元々、

「高校球界トップの剛速球投手」

 という触れ込みがあった。

 そういう意味では、

「両手投げ」

 というところは、それほど有名ではなかったが、実際に、全国大会で、両手投げをやってのけると、翌日のスポーツ新聞ではトップであった。

「戸次投手。変幻自在の投法。剛速球だけではない天才投手」

 などと新聞には書かれて、大きな話題を呼んだ。

 しかも、全国大会の中で、球速も、160キロ代のボールをボンボン投げ込んでいた。

 元々は右投げで、左は、

「相手が左バッターの時に、たまに使うくらい」

 ということであったが、左の威力もなかなかなもので、左でも、150キロ級のボールをどんどん投げこめるようであった。

 もちろん、そんなものを見せられれば、プロのスカウトも、大変なものだった。

 彼がそれまで左投を披露しなかったのは、

「地区予選のようなところであれば、右だけで充分に通用する。秘密兵器になるようなことを、何もそんな地区予選で、曝け出すことはないだろう」

 ということであった。

 実際に、右投げだけで、しかも、ほとんどストレートばかりで、予選大会では、ノーヒットノーランを2回達成していた。

 地区予選の7試合をほとんど一人で投げぬき、そのうち2試合がノーヒットノーランというのは、すごいものだ。

 バッティングの方も結構いいようで、地区予選でも、全国大会でも、合わせて、3本のホームランを打っていた。

 スカウトの中には、

「打者としての彼もいいな」

 ということで、打者としてしかみていない球団もあったようだが、本人は、

「あくまでもピッチャー」

 ということで、そこだけは譲れないと思っていた。

 高校卒業してからの進路に関しては、本人の意志として、

「とにかくプロ」

 ということであった。

 しかも、入団するのに、どの球団がいいという意識はなかった。

「指名してくれるのであれば、喜んでいきます」

 と口では言っているが、本当は好きな球団がないわけではなかった。

 実際に、ドラフト一位で、案の定、12球団のうち、8球団までが競合するという、かなりの倍率だったが、彼を指名した球団は、地味な球団で、どちらかというと任期はなかた。

 しかも、優勝からはかなり遠ざかっていて、戸次が見ていても、

「ああ、これは、負け癖がついてるな」

 という思いはあったのだ。

 だから、正直迷ったが、入団をきめた。

「公約だったからな」

 と、どこにでも行くと言った手前もあったが、それよりも、

「優勝させれば、俺が目立つことができる」

 と思ったのだ。

 実は彼の目標はそこにあったわけではなく、まだ先にあった。だから、目立つということは願ってもないことであり、

「目立たなければ、逆に意味がない」

 といってもいいくらいではないだろうか?

 高校野球というと、彼の友達に、真剣、

「高校野球が嫌いだ」

 というやつがいた。

 その理由として、いろいろ言っていた。

「金にものを言わせて、いろいろなところからスカウトしてくる」

 というやり方が気に入らない。

 といっていたし、

 さらに、逆の意味になるのだろうが、

「野球留学と称して、特待生扱いにし、学費はただ、学生寮もただ。そんな状態で入学させるのだが、辞めることは許さない」

 というよりも、

「辞めた場合は、学費免除も、学生寮費免除も、すべてがなくなるので、他の学生と一緒なのだが、今まで野球しかやってこなかったので、勉強ができるはずもなく、結果、最終的には退学していくしかない」

 ということになるのだった。

 確かにその状態になると、勉強にはついていけない。そうなると、学校を辞めることになる。家には、

「自慢げな状態で出てきている」

 ということで、いまさら帰るわけにもいかない。

 そうなると、大体、悪い先輩がやってくるのだ。

 その先輩も、野球を何らかの原因で辞めなければならなくなり、今のような状態になっている。

「仲間がいっぱいいるぞ」

 という甘い言葉に載せられて行ってみると、

「そこでは、何やら怪しい事務所だったりして、次第に、悪い組織から抜けられなくなった」

 というような話を聴かされるのだった。

 それを考えると、

「高校野球なんか、甘い言葉に載せられて行っても、結局は、面倒なんか見てくれるわけもない」

 というのだった。

 実際にドラマなどでよくあるのは、

「大学や高校に、スポーツ推薦とかいう名目で、中学か、高校から一定数の、スポーツ推薦の生徒を入学させることで、行った先は、

「いい人材を得ることができ」、

 推薦した方には、一定のマージンが入るというそういう流れがあるということなのだが、実際には、そんなにうまくいくわけはない。

「無理をさせて、ケガをする選手だっているだろう」

 本当であれば、そんな選手を学校のためにケガをしたのだから、保証してやるくらいでもいいはずなのに、選手として役に立たないと思うと、お決まりの、

「学費免除」、

「学生寮免除」

 などを、撤廃し、特待生としての立場も反故にされる。

 つまりは、

「スポーツができる。学校の名誉に役立つということで連れてきたのに、できなくなった人間を、養う必要はない」

 ということであった。

 だから、

「学校というところは、血も涙もない」

 ということで、ついてくれない人、ケガをする人がいることを見越して、大目に取るということをするのだろうが、実際に、落ちこぼれた子供は、どうしようもない、

 それを思うと、

「文武両道などと言っているが、しょせんは、生徒というのは、学校経営、いや、もっといえば、一部の人間の懐が潤うというだけの、政治家でいうところの、贈収賄と何が違うというのだろうか?」

 というところである。

 そういう意味で、一番そのたとえとして言われそうなのが、昔から、

「高校野球」

 を中心とした

「学生野球」

 である。

 さらに、高校野球が嫌いな人で、よくあるのが、

「学校の名誉とかいうけど、どういうことなんだろうか?」

 という人がいる。

 また、気に入らないこととして、マスゴミなどでよく言われることとして、

「過去7回出場の名門校」

 などというような言い方をしたり、

「初出場のフレッシュな高校」

 などという言い方をするが、考えてみれば、今回が生徒にとっては初めてなので、

「過去にいくら全国出場が何度もあるからといって、強豪かどうかというのが分かるわけはない」

 といえるのではないだろうか?

 強豪ということであれば、少なくとも予選大会を勝ち抜いてきたのだから、

「各地の代表はすべて、強豪校だ」

 といえるだろうということだ。

 しかし、そんな中で、

「そんなことは分かっているつもりでいて、しかも、こういう言い方が一番嫌いだと自分で感じているくせに、○○高校は強豪校だから、などという話を知り合いと話す時に、無意識に口走ってしまう自分が一番嫌だ」

 といっている人がいた。

 その人の気持ちはよく分かる。一番嫌いなはずなのに、知り合いと話を合わせるという意味で、嫌いなことを棚に上げて言ってしまう自分が情けなく感じられ、嫌な気分に陥るのだった。

 実際に有名校だというのであれば、贔屓目に見て言えるとすれば、

「監督が変わっていないので、伝統的な連中で鍛えられているので、それが実を結んだ」

 というくらいのことであろうが、それも、試合をしているのは、生徒たちで、監督ではない。

 監督が昔からの監督で、

「いつも生徒を全国大会に導いている」

 ということなのかも知れないが、高校野球などは、プロ野球や大学野球と違い、

「一人の超高校級などと呼ばれる選手がいれば、全国制覇ができる」

 といえるのではないだろうか?

 だから、昔から、

「大学野球のマンガはそんなにないが、高校野球のマンガはたくさんある」

 といってもいいのではないだろうか?

 一人の選手にスポットを当て、野球漫画を描くということは、よくあることだ。脇役として、いろいろなキャラクターで、チームメイトやライバルが出てくるというのが面白いのだ。

 プロ野球を描くのであれば、サクセスストーリーというよりも、人情者であったり、本当に昔のスポコン関係でしかあまりないような気がする。

 そういう意味では、

「高校野球は描きやすい」

 といえるのではないだろうか?

 また高校野球において、

「学校の名誉のため」

 あるいは、

「県の代表として」

 などと言われるが、確かに県の代表として、全国に行く時は、壮行会のようなものを開いてもらったりして、大応援団で、球場に駆けつけるということになり、選手がいよいよ、新幹線などに乗り込んで、大会の場所に遠征するという時、まるで結婚式が終わったカップルに対してのように、新幹線のホームで万歳三唱を行う。それこそ、

「大日本帝国における、学徒出陣のようではないか」

 と言われるだろう。

 しかし、一回戦で負けて早々と帰ってくれば、駅には誰も待っている人はいない。まるで修学旅行が終わって、戻ってきたかのようだ。さすがにそこは優勝でもしない限り、この態度は変わらない。

「県の代表といって送り出したのだから、いくら負けたとはいえ、帰ってきた時に、最低でも見送った時の人くらいはいてもいいのではないか?」

 といえるだろう。

「もし、それができないのであれば、最初から駅での見送りなどしなければいいんだ」

 と思う。

 実際に、そういうシーンを書いた4コマ漫画もあり、気の毒なところを風刺して敢えて書くというのも、ありなのではないだろうか?

「その裏に何があるというのか?」

 あるいは、

「お金が絡んでいる」

 ということもある程度分かっているのに、それでも、

「地元の代表」

 というのがありなのだろうか?

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