マルチリベンジ
森本 晃次
第1話 文化の発展
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年11月時点のものです。
最近のプロ野球というと、昔の時代に比べると、かなり様変わりしてきたのではないだろうか?
一つ言えるのは、球団サイドというよりも、まわりの環境。特にマスゴミ関係が、大きな影響を示しているのではないだろうか?
特に、テレビやラジオ、新聞などである。
ここからの話は、大きな駅におけることであるが、小さな駅には、売店すらなくなっているくらいだ。
新聞などは、スポーツ新聞というと、駅の売店に必ず売っていて、サラリーマンが、ホームや改札口の前の売店に刺さっている新聞を抜いて、
「おばちゃん、これね」
とばかりに、ちょうどのお金を用意している場合は、お金を、放り投げるように渡していた光景が見られた。
朝の喧騒とした時間帯だからこそありえることだが、最近では、それも見なくなった。
なぜなら、駅に売店がほとんどなくなり、特にホームに売店がなくなってきている。
しかも、そのかわりに、駅構内にコンビニが進出してくるようになった。
以前は、鉄道会社が、売店経営もしていたし、コンビニに近いような直営店で、コンビニのようなものがあった。
しかし、それらから、ほとんどが撤退する形になり、あるとしても、一部のおみやげ屋くらいではないだろうか。
だから、コンビニに、
「営業委託を行い、販売をやらせることで、場所代をもらっている」
という形であった。
少しでも、経費を削減し、業務を縮小することで、人件費の削減でも狙っているのか、それだったら、コンビニを経営させることで、コンビニも駅に進出できるし、駅も場所を再利用できる。
さらに、駅とすれば、客へのサービスも怠らずに済むのでありがたかったことだろう。
そのうちに、新聞の販売の権利も譲渡する形になり、駅や、コンビニはよかったかも知れないが、客は不便になったことだろう。
客側は、今まで忙しい時であっても、馴染みのおばちゃんだから、顔パスとばかりに、ちょうどのお金を用意していれば、お金をそこにおいて、
「おばちゃん、ここおいとくね」
ということで事なきを得ていたのに、今は相手がコンビニだと、そうもいかない。
今までのおばちゃんのような融通が利く人がいるわけでもない。レジにいるのは、
「言葉も通じないような、若い外人連中ではないか」
あいつらには、本当に融通が利かない。
融通が利かないだけではなく、片言の日本語しか喋れないやつらではないか。
昔の課外国人、特にブラジルあたりの人たちは、少しでも日本に馴染もうという意識があったが、最近の、
「留学生」
などとほざく連中に、融通などというものは一切効かない。
しかも、言葉を覚えようという意思があるのか分からない。最近はそれでも、長いこと日本にいるのだから、当たり前なのだろうが、何とか言葉が通じるようになったのだ。
これは、コンビニに限ったことではない。大都市部の駅周辺であったり、繁華街などにある、コンビニ、ファストフードの店など、そのほとんどが、外人の留学生という名のガキどもばかり、そんな連中なので、まったく日本に馴染もうという意識がないように見えるのだった。
だから、今まで、
「おばちゃん」
が相手で、少々のことは、
「顔パス」
だったものが、そんなわけにはいかなくなったのだった。
コンビニにおいてしか、新聞を買えないとなると、これまでの駅のホームで、電車に駆け込む前に新聞を買うという安直な方法ができるわけはない。
何と言ってもコンビニなので、レジに並ぶ必要がある。レジは朝のラッシュ時間当然混んでいるだろう。
何と言っても、レジに並んだ人の数。そして、そこで購入するものを考えると、かなりの時間が掛かるのは必至である。
電車にこれから乗る人、電車でやってきて、これから会社に向かう人、あるいは、この駅を乗り換えとして使っている人、駅利用者がさっそうするから当たり前のことであろう。
それに購入するものも、多種多様ではないだろうか?
パンやおにぎり、中にはお弁当と言った、朝食の類、朝食があれば、当然、飲み物もある。その時一緒に新聞や雑誌を買う人もいるだろう。そんな人がレジに並ぶのだ。一気に履けるわけもなく、一人に時間もかかるし、並ぶだけで大変であった。
その時間を見越して新聞を買おうと思うと、
「新聞だけを買うのに、これだけ並ぶというのも、何か癪だ」
ということで、こちらも、新聞だけではなく、同じように朝食を買うということになるのが必定だろう。
けがの功名なのかも知れないが、結果、朝のラッシュ時間は当然、コンビニにとっても書き入れ時と言えるだろう。
逆に、その時間に売ればければ、その日の売り上げは知れているといってもいいだろう。
ただ、最近では、そんな思いをしてまで、
「新聞を買おうと思う人もいないのではないか?」
と思えてきた。
確かに、スポーツ新聞を読むというのは、毎日のルーティンとしては、誰もがしていることであったが、最近はどうなんだろう?
一つは、昔のように、
「テレビの民放のゴールデンタイムに、プロ野球放送をやらなくなった」
ということである。
昭和の時代、つまり、テレビが普及してからずっと、夜の7時頃から、9時くらいまでは、どこかのチャンネルで、毎日のように、プロ野球放送が行われていた。昭和の家族であれば、家長である父親にチャンネル県があり、この時間は、野球というのが、ある程度決まっていた。
しかし、次第に時代はバブルになってくると、サラリーマンは、
「残業による残業」
ということで、家に帰ってくる時間が遅くなり、野球放送の時間までに帰ってくるということもなくなってきただろう。
家に息子などがいる場合は、その息子が野球を見ることもあったが、受験生になれば、テレビすら見なくなる。
だからと言って、
「じゃあ、裏番組は何をやっていたんだ?」
といって、すぐには思いだせないほど、イメージが薄くなっていた。
だからなのか、母親も、その時間、テレビを見ているというよりも、家事に忙しかったといえるだろう。
静かだと、殺風景だったということもあって、テレビはついていたかも知れない。ただ、もちろん、息子が受験生の時は、テレビは消していただろう。
ただ、受験生であれば、塾や予備校に行く時間があるので、学校から帰ってきて、あるいは、学校から直接塾に行く日は家にいないことになる。
さらに時代は進み、母親が共稼ぎをする時代が出てくると、その時間、
「家には誰もいない」
という時も増えてきただろう。
ただ、時代はバブルがはじけ、旦那は残業がなくなり、母親も夕方には帰ってくるようなパートくらいになると、ある意味、普通の家庭になってきたのかも知れない。
だが、それは、普通の時間に家にいるというだけのことで、雰囲気は、少し異常ではないだろうか?
食事にしても、家族が揃って食べるということもないだろう。それぞれに同じ家にいても、それぞれに用事があるのか、会話すら皆無になった家庭だって多かったはずだ。
心の中では、
「寂しくなったものだ。何とかしたいものだ」
と昭和の家庭を知っている人は思うかも知れないが、ある意味、どうすることもできない。
たまに一緒に食事を摂るようになっても、会話などないという、重苦しい時間であれば、何も一緒に食べる必要などないのだ。
しかも、その時代になると、テレビは一家に一台などというわけでもなく、息子の部屋にもあったり、夫婦の寝室にもあったりする。
さらに、ビデオなどの録画装置もあれば、
「何もその時間に、その番組を見る必要もなく、録画したものを、自分のタイミングで見ればいいだけのことだ」
ということであった。
だから余計に、家庭内でバラバラの行動になる、
しかし、それを家庭崩壊といえるだろうか?
その当時はどこの家庭もそんなもの、だから、平和が保たれていたのかも知れない。もっとも、一触即発の状態だったのかも知れないが、それでも、波風が立たずにその日が終わっただけで、ホッと胸を撫で下ろすという人も少なくないだろう。
そういう意味で、テレビを見るのが楽しみな人というのは、減ってきた。
「じゃあ、何を楽しみに生きていたのか?」
と聞かれると、正直分からない。
一人一人違っていたということなのだろうか?
昔のように分かりやすく、
「家に帰って、ひとっぷろ浴びて、ビールでも飲みながら、野球を見る」
などという時代は、今は昔だったのだろう。
人それぞれの楽しみ方があったのは、多種多様な趣味があったということなのか、それとも、無関心な時代だったということなのか、正直、ピンとこなかった。
今は完全に時代は変わってしまった。
テレビすら、見る人が完全に減ってきた。時代はパソコンから、ケイタイ、さらには今のようなスマホの時代になってきた。
テレビというのも、番組が様変わりしてきたのには、大きな転換期があった。
その理由として一つあるのは、問題の、
「ゴールデンタイムにおける野球放送であった」
今では、まったく見ることのなくなった野球放送、そもそも、全盛期だった頃から問題があったのだ。
そのすべての問題の起源は一つであり、
「放送時間の問題」
だったのだ。
野球というスポーツは、時間で勝負がつくスポーツではない。サッカーやバスケットなどは、決まった時間の中で、
「よりたくさんの点を取った方が勝ちだ」
ということであった。
しかし、野球はそうではない。延長戦に入らない限り、プロ野球は、どんなに点数が離れていようが、必ず、九回までは行う。
その理由は明白であった。
「サッカーやバスケットと違い、野球は完全に、攻守が別れていて、片方が攻撃している間、片方は守備に就いている」
というのが、野球だからである。
だから、攻守が目まぐるしく入れ替わるサッカーなどは、ハーフタイム45分という感じで、時間が決まっている。
しかし、野球の場合は、何点取ろうが、スリーアウトになるまでは、1時間でも2時間でも1イニングを行うのだ。
だから、試合時間も早ければ、2時間ほどで終わるが、長い時は、5時間を超える時もある。
そういう意味で、野球は、なかなか終わらないスポーツということで、9時に放送が終了ということになれば、問題は、
「延長放送をするか?」
ということであった。
実際には、
「30分延長」
というところが多かった。
だから、市販のビデオ機の機能には、
「延長放送機能」
なるものがあって、
「前の番組が野球などで、放送が延長になる可能性がある時は、開始は9時かあになるが、終了は予定時間の30分後まで録画する」
という機能だった。
つまりは、実際に延長が行われた時、録画したものを見ると、最初の30分には、野球が入っている。しかし、延長がなかった場合には、最初から自分の見たい番組は入っているだろうが、最後の30分には、それ以降の、別の番組が入っているということになるのだった。
それでも、まだ延長機能があるからよかったが、それがなければ、見たい番組が、最後まで見れないということになり、実に悶々とした気持ちになるだろう。
昔であれば、野球延長のため、後続番組が遅れることで、11時には終わり、そこからお風呂にでも入ろうと思っていた主婦は、そこから30分後ろにずれ込むのは、溜まらないことだっただろう。
何しろ、昭和の頃の主婦というのは、
「朝が早い」
というのは当たり前のことで、それくらいのことができなければ、主婦とはいえないというほどだったのではないだろうか?
つまり、ゴールデンタイムにおける野球放送というのは、それだけ家庭の中で占める割合が大きかったということである。
ただ、これは、
「野球終了後の番組を見る主婦に対してのこと」
であるが、肝心の野球を見ている人にとっても、30分というのは中途半端だった。
基本的に野球の試合というと、平均して3時間というのが、相場だったような気がする。途中から、プレイボールが夜の6時くらいからに繰り上がったようだが、前は6時半というのが、どの球場でも当たり前のことだった。
だから、終了時間も平均で9時半くらい、そうなると、今度は、
「一番のクライマックスが見れない」
ということである。
「九回2アウト、満塁」
などというシーンにおいて。
「まことに残念ながら、あと30秒で、お別れすることになりました」
などと言われると、実にたまらない。そうなると、そこから先、放送局に多数の苦情電話が殺到するであろうことは、当たり前のことだっただろう。
とはいえ、放送局にもどうすることもできない。なぜなら、放送局が番組を製作するためには、
「スポンサー」
というものの存在が絶対不可欠だからだ。
どこかの、某国営風放送局であれば、
「受信料」
などという、わけの分からない方法で、国民からまるで税金のごとく集金に回ればいいのだが、民間は、CMなどを流したりして、スポンサーになってくれた人が、コマーシャル台として出してくれた金で番組を作るので、番組は、
「スポンサーのもの」
ということになる、
だから、スポンサーが、
「ダメだ」
といえば、放送局にはどうすることもできない。
だから、野球も、いくら抗議の電話が入ろうとも、決定が覆ることはない。
そこで、出てきたのは、
「スカパー」
と呼ばれるような、
「有料放送」
であった。
彼らの言い分としては、
「野球中継は、試合開始から、終了まで行う。さらにmヒーローインタビューから、勝利のイベントまで行う」
というものであり、しかも、放送内容は、フランチャイズチームを完全に贔屓した番組だ。
つまりは、その球団のための番組ということで、ファンとすれば分かりやすいことである。
それでも、試合を最初から最後までやってくれるのだから、お金を少々払ってでも見られればありがたいというものだ。
家に何台もテレビがあれば、自分だけで試合終了まで見ればいいからである。
月額といっても、1チャンネルで、千円未満というもので、
「プロ野球パック」
などといって、すべてのスポーツチャンネルと、月額で、3000円くらいで見れるのであれば、実にありがたいのではないだろうか?
月額3000円といえば、一日100円くらいのものである。販売機でジュースやコーヒーを1本買うよりも安いと思えば、プロ野球パックで契約する人も多いだろう。
そんなのが、約30年くらい前から出始めてきた。20年くらい前からすっかり定着してきたことで、
「野球ファンが、民放離れするようになった」
ということで、野球の視聴率。つまりゴールデンタイムの視聴率がガタ落ちになってしまったのだろう。
そうなると、視聴率の悪い、野球を放送していても、しょうがない。
今はその時間に何があるかというと、ほとんどが、バラエティ番組である。
正直、見る気もしないので、どんな番組をやっているのか分からないが、どうもバラエティというのも、昔とは若干違ってきているようだ。
クイズ形式のものもあれば、田舎に芸能人がいって、田舎を紹介したり、食レポをしたりという感じでもあった。
9時以降も、昔のような、
「二時間サスペンス」
などという番組もなくなってきていて、実際には、7時台からの延長っぽい感じではないだろうか?
昼の番組も様変わりしていて、情報番組系が多くなってきたが、なぜかその中のコメンテイターに芸人が多いのはなぜだろう?
かつて売れたが、今は鳴かず飛ばずの人、そんな人が多いように見受けられるのは、見ていてあまり気持ちのいいものではない。
「なんで、こんなに、いつ見ても、芸人ばっかりなんだ」
といってもいいだろう。
「これじゃあ、毎日、正月番組を見ているようではないか?」
ということにある。
実際の視聴率というのはどうなのだろう?
野球の時に比べて、雲泥の差で落ち込んでいるのは分かる気がするが、それでも、中には、
「テレビだけがついていて、実際に見ているわけではない:
という人も結構いるのではないだろうか?
そんな人ばかりではないとは思うが、
「家事をしながら」
などというのであれば、バラエティ番組がついているくらいの方が、
「寂しくなくてちょうどいい」
ということになる。
だが、時代は進んできて、パソコンなどでネットが流行ってくると、またしても、テレビ離れというものが深刻になってくる。
実際に、携帯電話が普及してからというもの。昔は一家に一台が当たり前だった、
「固定電話」
というものが、姿を消しつつあった。
生活必需品として今まであったものがどんどん減ってきたのは、
「腕時計」
というのもそうかも知れない。
「腕時計を見なくても、今では、携帯電話で、時間が分かる」
ということであった。
そういう意味で、今まで生活必需品だったものが、パソコンや携帯電話の普及によって、どんどんいらなくなってくる。
前だったら、電車の時刻表など、ダイヤ改正が行われる少し前から、駅に、
「ご自由にお取りください」
といって、置かれていた時刻表も、配られなくなった。
「スマホで確認してください」
と言われるだけで、
「スマホのない人は?」
と聞いても答えてくれない。
そんな時代になったのだった。
今では、そんなスマホ時代に突入していた。
スマホ時代になると、今度は、
「パソコンがいらない」
「テレビもいらない」
という時代になってきた。
というのも、スマホ一つで何でもできるからだ。
パソコン機能もほとんどスマホでは充実している。さすがに仕事として使うには、難しいところがある、たとえば、エクセル、ワードなどの、実際にマウスやキーボードでやっていたことは結構難しいし、プリントアウトというのも、普通にプリンターに繋ぐというのも、不便なのかも知れない。
しかし、インターネットであったり、SNSなどの、
「スマホから発展したようなアプリ」
であれば、スマホが断然使い勝手がいいだろう。
遊びに関しても充実している。しいて言えば、画面が小さかったり、多窓が難しかったりするくらいだろうか?
パソコン一台買うよりも、スマホを数台買うという人もいるだろう。
「パソコンは、仕事用に会社にあればいい」
という感じであろう。
テレビにしてもそうだ。
パソコンと同じように不便なのは、画面が小さいというくらいで、テレビや映画だって、趣味にしている人であれば、こちらも、
「月額いくら」
という形で視聴ができる。実にいいことだ。
パソコンやテレビに比べて圧倒的な利便性というと、
「ケイタイ」
という言葉の語源を考えれば分かることだろう。
「携帯」
つまりは、
「いつでも、どこででも見ることができる」
ということだ。
それが、携帯電話からの強みであり、いうほど普及はしていないが、タブレット端末というのも、同じ理屈だろう。
ただ、パソコンも最近は小さくなっていて、持ち運びもスムーズになった。それでも、スマホの普及には勝てない。やはり、今の時代のITというと、スマホなのだろう。
これも、そのうちに、
「まだスマホを使っているのか?」
と、新しいものが生まれるかも知れない。
時代は、常に進歩しているというもので、
「時代に置いていかれないようにしないといけない」
というものだ。
ただ、逆に、
「古き良き時代のものが、よかったりするのもこんな時代だからであろうか?」
たとえば、神社仏閣や、お城のような、名所旧跡などを愛でるように見て回る人も、想像以上に多い。
それを考えると、
「新しいものばかりを見ていると、たまに、古いものに造詣の深さを感じることがあるというのが、人間なのかも?」
と、まるで悟りでも開いたかのように感じるのも、もっともなことではないかと思うのだった。
そういう文化の発展を考えると、
「時代の流れが、それに沿っているものなのか?」
あるいは、
「答えとして信憑性のあるものなのか?」
ということを、いろいろ考えてしまうのだった。
そのことに関しては、機械やシステムだけではなく、日常生活の中でもいろいろあって、行政であったり、法律なども、本来であれば、絶えず見直さなければならないものだろう。
そんなことを考えていると、
「全体を見渡すことも大切だが、一つ一つの生活の一部を見ていくことも、大切なことだといえるのではないだろうか?」
と思えるのだった。
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