第39話 怒り

 ウルスラ=ペインローザの胸の内には、いつも怒りの炎が燃えていた。

 剣術の名家であるペインローザ家の一人娘として生を受けた彼女は、幼い頃から性別の壁による理不尽に晒されてきた。

 ペインローザ家は代々、近衛としてエルスワース王家に仕えてきた。

 ウルスラはそんな先祖たちに憧れ、自らも近衛として王家に仕えたいと願った。その旨を母親に伝えると困ったような、哀れむような表情をされた。


 ――あなたは女の子なんだもの。他にもっと良い生き方があるわ。


 その時は母親がいったい何を伝えたいのか理解できなかった。

 もっと良い生き方とはなんですか? 

 そう尋ねて返ってきたいくつかの例は、ウルスラの胸にはまるで響かなかった。

 近衛兵として王家に仕えること。

 それこそが自分にとってはもっとも良い生き方なのにと。


 真意が分かったのは、もう少し大きくなった後だ。


 父親は世継ぎの男児が中々できず、常に不機嫌だった。

 ウルスラにとってはずっと怖くて、近寄りがたい存在だった。

 それが変化したのは数年が経った頃だった。

 弟が出来たのだ。


 待望の世継ぎができて喜んだ父親は、熱心に剣の指導をした。

 かつて近衛団長を務めていた父親は、我が子をその座に就かせようとしていた。けれど大きな誤算が起こった。

 弟は強くなかった。

 剣を振るうことよりも、詩を書いたり草花を愛でることを好んだ。野心や闘争心はなく、誰に対しても笑みを振りまく優しい子だった。

 父親にとってはそれが大いに不満だった。

 お前は剣だけを握っていればいい。詩や草花を愛でることなど不要だと断じた。


 ウルスラは弟が羨ましかった。

 自分は剣を握れと言われたことすらない。それどころかむしろ、遠ざけられた。当然、父親の指導を受けたこともない。

 出来ることなら替わってやりたいと思った。

 指導はやがて苛烈さを増し、手を上げることも増えていった。情緒豊かだった弟の表情からは日に日に感情が削ぎ落とされていった。


 ある日、見かねたウルスラは弟に対して決闘を申し込んだ。

 もうこれ以上は止めさせなければならない。

 そう考え抜いた末に出た結論が、弟との決闘だった。


 ――弟よりも強いことを証明できれば、父親は私を近衛にしようと考える。そうすれば弟は剣術から解放されるはずだと。


 父親の立ち合いの元、その打ち合いは執り行われた。

 父親としては弟に勝利を味合わせて自信を付けさせようと思ったのだろう。まさか女のウルスラに負けるはずがないと。

 それまでウルスラは剣の腕を父親に見せたことはなかった。母親に言われて以来、独学で一人剣を振り続けてきただけだった。


 それでも、力の差は圧倒的だった。


 父親の熱心な指導を受け続けてきた弟の剣を、ウルスラの剣は容易く打ち破った。決闘は瞬く間に決着を迎えた。

 呆然とする父親の下に、ウルスラは駆け寄って告げた。

 私が弟の代わりに近衛兵団に入団する。だから弟を解放してやって欲しい。詩や草花を自由に楽しませてあげて欲しいと。

 父親は長い沈黙の後、乾いた地面の罅割れから這い出るように吐き捨てた。


 ――ウルスラ、お前は近衛兵団には入れない。


 それを聞いた瞬間、ウルスラは胸を抉り取られたような衝撃を受けた。震える声で先の言葉をどうにか紡いだ。


 ――それはなぜですか……?

 ――女だからだ。


 女だから。

 たったそれだけの、けれど絶望的なまでに根源的な理由。

 父親は額に手をつきながら、今にも泣き出しそうな表情で呻いた。


 ――なぜ女のお前に武芸の才が宿ってしまったんだ……。


 その顔を見た瞬間、ウルスラは絶望的なまでに悟ってしまった。自分の剣は、誰からも望まれていないのだと。


 弟はその後、身投げをして命を絶った。

 あの日の決闘が決め手になったのだろうとウルスラは理解していた。

 自分の全てだと思い込まされ、これまでの人生全てを懸けて積み上げてきたものを、姉の私がいとも容易く打ち砕いてしまった。


 心優しい弟を殺してしまったのは他でもない自分だ――。


 ウルスラはその後も、剣の鍛錬に励み続けた。

 無心に剣を振り続ける。そうしている時だけはほんの少しだけ気が紛れた。

 けれど、自分の剣は誰からも求められてはいない。

 近衛にはなれず、名を上げるための剣術大会にも参加することができない。

 女だから。


 ――自分が弱いからというなら、諦めて受け容れられる。だが、私は他の男たちよりも遙かに力を有しているのに。


 胸の内で赤く燃える怒りの炎はやがて青に変わり、氷のように凍てついた。

 誰を守るために、あるいは誰を倒すために剣を振るうのか。

 それすらも分からず、ただ弟に対する贖罪と理不尽に対する怒りに駆られて、ウルスラは来る日もひたすらに剣を振り続けた。

 自分はこのままどこにも行けない――。そんな鬱屈した思いを抱えながら。


 ある日の鍛錬の時だった。

 極限まで集中したウルスラは、風に吹かれて落ちてくる木の葉に対して剣を振るった。地面に落ちてきたいくつもの木の葉は、一葉も残らず真っ二つに両断されていた。

 剣を鞘に収めるのと同時、背後から拍手の音が聞こえた。


「素晴らしい芸当ですね」


 振り返った先には白いドレス姿に身を包んだ女がいた。

 一瞬、息が詰まった。

 金糸のような艶やかな髪に、気品の漂う美しい顔立ち。後光が差したその姿は、まるで天上の女神のように見えた。それでもすぐに警戒心を取り直し、鋭い口調で問う。


「……なんだ貴様は。何者だ」

「私はあなたのファンです」

「……ファンだと?」


 白いドレス姿の女はくすっといたずらっぽく微笑むと、言葉を紡いだ。


「ウルスラ=ペインローザ。あなたには卓越した剣の才能がある。それを腐らせておくのは勿体ないと思いませんか?」


 そして陶器のように綺麗な手を差し出してきた。


「私の近衛になってくれませんか?」


 それが彼女――セラフィナ=エルスワースとの出会いだった。

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