第40話 壊れた世界
エルスワース王国第四王女――セラフィナ=エルスワースの手引きにより、ウルスラは近衛兵団への入団を果たした。
女性の入団は、近衛兵団始まって以来初めてのことだった。
王族や貴族たちは彼女の入団にこぞって反対したが、セラフィナが強引に押し切った。
――性別など関係ありません。重要なのは女性かどうかではなく、私たちを守るための腕があるかどうかでしょう。
妥協案として、入団試験を執り行うこととなった。そこで実力を証明することが出来れば入団を許されるというものだ。
ウルスラは近衛兵団の精鋭たちと打ち合いを行った。その中には王国一の精鋭と称される剣士もいた。近衛兵団がウルスラの入団を拒もうとしているのは明白だった。
しかし、王族や貴族たちが見守る中、ウルスラはその身に傷一つ負うことなく、彼らを完膚なきまでに打ち負かした。
誰にも文句を言わせない、それは圧倒的な力だった。
近衛兵団に入団後、ウルスラはセラフィナの護衛を担当することになった。それはある種の厄介払いだった。
しかしウルスラにとってはむしろ好都合だった。彼女に仕えるために近衛になったのだ。他の王族たちを守る気など毛頭なかった。
セラフィナは時折、城内から姿を眩ませることがあった。
城の者たちが慌てふためく中で、ウルスラだけは慌てなかった。
城内に隠された王家の人間しか知らない地下通路、城外へと通じるその通路を抜けた先に広がるなだらかな丘。セラフィナの姿はいつもそこにあると知っていたからだ。
花畑の中にいるセラフィナの下に近づくと、彼女はウルスラに気がついた。
「どうです? 上手に出来たでしょう?」
抜け出したことに対してまるで悪びれることもなく、手元の花冠を誇らしげに見せてくる。
彼女が自分で編んで作ったのだろう。
拙さもあるが、色とりどりの花々がとても綺麗だった。
普段は凜として威厳のある佇まいのセラフィナだが、ウルスラの前ではこうして年相応の子供のような一面を覗かせることがあった。
ウルスラは困りながら言った。
「姫様。勝手に城内を抜け出すことはお控えください。この丘だけならまだしも、この前は城下にも行かれたとか……」
「民衆の声を聞くのは、王族の務めですから」
「その割には食べ歩きを楽しまれていたようですが?」
「じ、自分のお腹の虫の声を聞くのも、大事なことですから」
頬を赤らめたセラフィナはそう言うと、手元の花冠を差し出してくる。
「ウルスラ。これはあなたの分です」
「私の……?」
「ええ。きっと似合うと思いますよ」
ウルスラは困惑しながらも、花冠を受け取った。
「私には花冠など似合わないかと……」
「自分で自分の可能性を狭めてしまうのは勿体ないことですよ。それに」
「……それに?」
「あなたのことを想って、私が丹精に編んで作った花冠です。まさか、被りたくないとは言わないですよね?」
意地悪な笑みを向けてくるセラフィナ。
王女にそう言われてしまっては断ることはできない。
ウルスラは恐る恐る花冠を頭に載せると、セラフィナの方を見やった。
「い、いかがでしょうか……?」
「ふふ。思った通り、よく似合っています。可愛いですよ」
花冠を被った自分の姿を見ることはできない。
けれど、彼女がそう言うのなら、悪くないのかもしれないと思えた。
「ほら、これでお揃いですね」
セラフィナは自分の分の花冠を被ると、微笑みかけてきた。
その姿があまりに眩しくて、尊くて、ウルスラは思わず目をすがめた。胸の奥がぎゅっと締め付けられるような心地がした。
何だか切なくて、それ以上に暖かい。それは初めて抱く感情だった。
近衛兵団に入団してからも、周囲からの風当たりの強さは変わらなかった。
女だからという理由で他の近衛たちからは疎まれ、冷遇を受けていた。
いくら功績を挙げても、誰も自分のことを認めてはくれなかった。
けれど、構わなかった。ただ一人、自分の剣を必要としてくれる人がいれば。
現実から逃れるために、あてもなく剣を振っていた頃とは違う。
ウルスラは剣を振るう理由を得た。
セラフィナを守るために、そして彼女に仇なす敵を倒すために。
セラフィナと過ごす日々の中で、ウルスラは自分の胸の内にある凍てついた氷が、少しずつ溶けていくのを感じていた。
幸福な時間だった。それはずっと続くものだと思っていた。
あの男が現れるまでは――。
☆
躾の成されていない野良犬のようだ――それがあの男に抱いた最初の印象だった。
闇を煮染めたような黒髪に、灰を被ったように荒んだ瞳。
全身に拭いきれない血の匂いがこびりついている。
ある日突然、セラフィナが連れてきたその男――。
レグルス=ブラッドモアは明らかに異端だった。
かねてより噂は聞いていた。
貧困街の孤児だった少年が、闘技場において前代未聞の千人斬りを達成し、ブラッドモア家の養子に貰われることになったと。
その荒んだ瞳には、劣悪な環境で育った者特有の不信が宿っていた。自分以外の人間を全員敵だと認識しているような。
セラフィナの手引きにより、その男は近衛に入団した。
ウルスラの時と同様、周囲は強く反対した。
貧困街出身の人間を王女の傍に置くことなど危険極まりないと。けれど、セラフィナは彼らの忠告に耳を貸そうとはしなかった。
出自など関係ない。実力のある者に、それ相応の地位を与えるべきだと。彼のことは私が責任を持って面倒を見るからと。
彼女のその言葉を体現するかのように、レグルスの実力は本物だった。
王国有数の精鋭たちが揃う近衛兵団であっても、誰一人敵う者はいなかった。明らかに格が違うのだと誰の目にもはっきり分かった。
ウルスラはそれまで、自分と同等の剣士に出会ったことはなかった。
男であっても、女であっても。相手になる者はいなかった。
けれどその時、初めて出会った。
自分と同等――それ以上かもしれないと思える相手に。
恐らくは向こうも同じ事を考えていたのだろう。
近衛になってから、ウルスラとレグルスはしばしば打ち合いに興じた。どちらが強いのかをはっきりとさせるために。
勝つこともあれば、負けることもあった。勝率はほとんど互角だった。
どちらも負け越しを許さなかったのは、そこに自らの存在価値が懸かっていたからだ。
セラフィナを守る剣になる。そのためにはもっとも強くあり続けなければならない。
他の誰かよりも劣ることを認めた瞬間、剣の価値は損なわれる。強くあることだけが自分たちの存在価値なのだから。
最初こそ野犬のように荒んでいたレグルスだったが、セラフィナの元に来てからは、少しずつ変わり始めていた。
周りに対してはまだ敵意が抜けていない。
けれど、セラフィナに対する時だけは、表情が柔らかくなっていた。時にはぎこちないながらも笑みを覗かせることもあった。
かつて獰猛な野犬だった男は、忠実な猟犬になっていた。
セラフィナもまた、レグルスのことを気に入っている様子だった。
彼を振り回し、困らせるのが楽しいというふうに、奔放に振る舞っていた。そんな彼女の姿はとても魅力的に映った。
二人が親しげに話している姿を見ると、ウルスラは心臓をごっそりと抉り取られるような感覚に襲われた。
それは怒りとも、憎しみとも違っていた。
寂しくて、哀しくて。
自分が大切に仕舞っていた宝物を取り上げられてしまったかのような。
もっと切実で、巨大な感情だった。
考えれば考えるほど、その沼に沈み込んでしまいそうになる。
だからより一層、剣に打ち込むことにした。
レグルスを打ち倒し、自らの存在価値を証明する。セラフィナの剣になれば、あの男を彼女から遠ざけることが出来ると。
何もかもが決定的に損なわれたのは、王城で行われた社交界の日だった。
城の最上階にあるホールは、まるで不夜城のように爛々とした輝きを放っていた。
煌びやかなドレスを身に纏った貴族や王族たちが、洗練された振る舞いを以て、権力争いに明け暮れている。
近衛兵として警備にあたっていたウルスラは、先ほどまであったはずのセラフィナの姿が見えないことに気づいた。
セラフィナは社交界を嫌っていた。仮面の笑みの下に欲望が渦巻く、醜悪な集いを。
ウルスラは貴族たちの間を横切ると、会場を抜けだし、城の裏手に回った。彼女が姿を眩ませた時に向かう場所はいつも決まっていた。
城の裏手にある森を抜けた先にある丘。
氷のように冴え冴えとした月の下――彼女は果たしてそこにいた。純白のドレス姿に身を包んだ彼女は、闇の中でも青い燐光を纏っていた。
かつて花冠を送ってくれた花畑。
その中で、セラフィナは傍らに立つレグルスに向かって語りかけていた。
――誰もが皆、生まれや身分に関係なく、望み通りに生きることのできる世界。そんな自由な世界を私は作りたいのです。
ウルスラも何度か聞かされたことがあった。彼女の理念に共感し、彼女の望む世界が来れば良いと思った。そうすれば、男も女も関係ない。誰もが自由に生きることができるから。
セラフィナはこの国に生きる人々は皆、不自由だと説いた。庶民も貴族も王族ですらも国家に仕える奴隷なのだと。
そう前置きした上でレグルスに告げた。
「レグルス――お前は、お前だけは国ではなく、私個人に仕えなさい。セラフィナ・エルスワース個人のために忠を尽くしなさい。その身も、心も、全て」
胸がざわついた。何か見てはいけないものを見ている気がした。
決定的な破滅の予兆があった。
「これは命令ではありません。単なる私の願いです。お前には自分の意志によって、自らの未来を選び取る権利がある」
「セラフィナ様。俺はあなたの剣です。あなたが望むのなら、俺は立ち塞がるどんな障害をも排除してみせます」
レグルスはセラフィナの元に跪くと、胸元に手を置いた。
セラフィナはその答えに満足そうに頷くと、微笑みと共に告げた。
「レグルス、私と共に目指しましょう。この国の頂を」
流れ込んできたどろりとした黒い粘性の液体が、つむじから足先までを満たした。まるで夜の闇そのものが流れ込んでくるかのようだった。
自分が自分でなくなってしまうかのような。
それは今まで感じたことのない激情だった。
大切に仕舞っていた宝物を引きずり出され、踏み躙られたかのように。これまでの自分を支えていたものが壊れた気がした。
後日。ウルスラはセラフィナと二人きりになった時に尋ねた。
もしも、と。
もしも、誰もが自分の望み通りに生きられる自由な世界を創ることができたら。姫様はどのように過ごされるのですかと。
それは一縷の望みだった。
バラバラになりそうな自分を唯一繋ぎ止めている希望。
彼女は、セラフィナは自分と共に過ごしたいと言ってくれるのではないか。
彼女の剣の座はレグルスに奪われてしまった。けれど、剣が必要なくなった後には、私を必要としてくれるのではないか。
セラフィナは変なことを聞くのですね、とくすっと微笑みを浮かべると、小さな顎に指を当てながら真剣に考え込み始めた。
誰が相手であろうと、真っ直ぐ対等に向き合ってくれる。そんな彼女の姿勢をウルスラはかねてより好ましく思っていた。
しばらくの思案の後、少なくとも王女ではないでしょうねとセラフィナは答えた。今の立場は捨てることになるでしょうと。
「まだはっきりとは決めていませんが、どこか自然の豊かな場所で、ひっそりと暮らすのもいいかもしれませんね。王女としてではなく、私という一個人として」
そして告げた。
頬に朱を差し、少しの照れを滲ませながら。
親友に対して、そっと秘密を打ち明けるように。
「――レグルスと共に」
そう照れ臭そうに呟きながら、羨望する遠い未来の光景を想って、夜空の彼方へと眼差しを向けるセラフィナ。
その横顔を目の当たりにして、ウルスラは息を呑んだ。
女の顔をしていた。
そしてその表情は泣きたくなるほどに、美しかった。
その瞬間、確信した。
セラフィナはレグルスに対して、特別な想いを抱いている。
王女と近衛。主従の関係を越えた感情を抱いている。
そしてウルスラには二人の領域に触れることはできない。彼女の剣にはなれても、彼女と共に幸せになることはできない。
女だから。
そう悟った瞬間、今まで耐えていたものが決壊していくのを感じた。
女だから。
彼女が女だから、男に惹かれてしまう。
女だから。
私が女だから、彼女とは結ばれない。
――誰もが望み通りに生きていくことのできる世界。そこに至っても、私は自分の望み通りに生きることができない。
私には何もない。
彼女が望む世界を実現した後、自分には何も残ってはいない。
思えば、ずっと奪われてきた。
剣を握ることも、近衛になることも、地位や名誉を得る機会も。
女というだけで、不当に奪われてきた。
そして、自分の全てを懸けてでも守りたいと思う、最愛の人でさえも。
男によって奪われてしまった。
ウルスラはその時、決意した。世界を敵に回す覚悟と共に。
――私から何もかもを奪った男たちを、私は許さない。奴らを駆逐し、この世界の秩序を造り変えてみせる。
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