第35話 診療所

下層街の東の外れ。古代生物の骨のように古びた建物が建ち並ぶ区画。

 そこに下層街の診療所があった。

 肩身が狭そうに詰められたくすんだ固い簡易ベッドに最低限の医療器具という、診療所とは名ばかりの施設。レグルスはその簡易ベッドの一つに腰掛けていた。

 全身に包帯が巻かれ、折れた左腕は木材の板で固定した上で吊られている。


 その時、診療所の古びた木の扉が開いた。

 レグルスは咄嗟に身構え、枕元に立てかけられた魔剣の柄を取る。だが、現れた人物を見ると柄を握るその手を緩めた。

 髭面の中年男性。彼はこの診療所の主だった。独学で医療を学び、下層街の怪我人たちに無償で手当てをしている物好きだ。


「お前さん、随分と人気者になってるみたいだぜ」


 髭面の医師は後ろ手に扉を閉めると、皮肉げな笑みを向けてくる。


「近衛の連中が躍起になって探してる。ま、無理もねえわな。騎士団長を討った男となれば野放しにはしておけねえだろ」

「今売れば、良い値になるだろうな。上層で安泰の生活を送れるだろう」

「そりゃあ良い。こんなゴミ溜めで生きていくより、よほどな」

「通報してみるか?」

「魅力的な提案だが、俺は良いものは売らずに手元に置いておきたい性分でね。あんたを近衛たちに売ったりはせんよ」


 髭面の医者は顎髭を撫でながら笑った。

 レグルスもふっと息を吐いた。

 その時、診療所の扉が再び開けられた。

 レグルスと髭面の医者の視線がそちらに向けられる。

 開いた扉の向こうから、背丈の低い小さな人影が無邪気に駆け込んできた。


「パパ!」


 見覚えのある少年だった。彼は髭面の医者の元に駆けよる。少し遅れて少年の後ろから、またもや見覚えのある人物が姿を現した

 彼女――セレナは扉を閉めると、髭面の医者に向かって言う。


「戻ってくる途中で会ったから、いっしょに連れてきたの」

「そうか。ごくろうさん」

「ありがとう。私たちを匿ってくれて」

「あの時は驚いたぜ。いきなりあんたらがボロボロの状態でやってきたんだ」


 フレイアを討ち取った後、レグルスとセレナは混乱に乗じて闘技場を脱出した。

 二人とも満身創痍でとても戦えるような状態ではなかった。

 どこかに身を隠して、療養しなければならない。けれど、行く当てはなかった。ホルスの家も鉄鼠の牙のアジトもすでに敵に割れている。

 方々を駆けずり回り、ついに辿り着いたのがこの診療所だった。門戸を叩いた時、最初は追い返されることを覚悟した。最悪、通報されることも。

 けれど、髭面の医者はレグルスたちを迎え入れてくれた。


「今さらだけれど、よく私たちを匿ってくれる気になったわね」

「全くだ。本当ならあんたらみたいな厄介者を抱える気はなかった。騎士団長を倒した奴を置いておくのはリスクが高すぎるからな」


 だが、と髭面の医者は表情を和らげた。


「あんたには、息子を助けて貰った恩がある」


 そう言うと、少年の頭にぽんと手を乗せた。

 彼はかつて路地から飛び出してきたところを女騎士にぶつかり、粛正されそうになったのをセレナに助けて貰った少年だった。

 診療所に辿り着いた時、髭面の医者は申し出を渋っていた。すると、背後からひょこりと顔を覗かせた少年がセレナに気づいた。

 そして事情を知った髭面の医者は、二人を受け容れた。


「レグルス、調子はどう?」

「問題ない」

「あれだけの怪我を負っていたのに、丈夫ね」

「全くだ」髭面の医者が呆れたように同調した。「普通の人間ならとっくにくたばってる。生きているのが不思議なくらいだぜ」

『私が見込んだ男だもの。当然よ』


 アウローラが他の者には聞こえないよう、得意げに呟いた。


「街の様子を確認してきたわ」


 先ほどまで偵察に出ていたセレナはそう告げる。


「私たちが下層街に潜伏していることは掴んでいるんでしょうね。上層へと続く東西の門前に大量の近衛兵が詰めていたわ」

「絶対に王城には通さないというわけか」


 レグルスはそう言うと、セレナに尋ねる。


「闘技場に向かった時のように、抜け道は使えないのか」

「下層街が騎士団の管轄だった時は彼女たちの巡回時間が分かっていたから、その隙を縫ってすり抜けることができた。でも今はそうはいかない。上層に至る道は全て、大量の近衛兵たちが常時見張っている。戦闘は避けられないわ」


 セレナは言葉を続けた。


「フレイアが討たれた今、国は総力を挙げてあなたを潰しに来ている」

「なら、あまり悠長にしてる暇はないな。いずれここにも捜査の手は及ぶだろう。その前に発たなければな」


 これ以上診療所の連中に迷惑を掛けるわけにはいかない。

 その時だった。

 外から爆発音が鳴り響き、少し遅れて室内が揺れた。机の上に置いてあった医療器具や壁際の本棚が小刻みに音を立てて震える。


「な、なんだ!?」


 明らかに異常な事態が起きていた。

 近衛兵たちが襲撃にでも来たのだろうか。魔剣を手に取り身構える。次の事態に備えて神経を張り巡らせていた時だった。

 扉が勢いよく開けられ、切迫した様子の男が駆け込んできた。


「大変だ! 下層街の組織が一斉蜂起した!」


 そう告げると、男は続けざまに叫んだ。


「下層街の男たちと女騎士たちとの全面戦争が始まった!」

「なんだと……!?」


 髭面の医者だけでなく、その場にいた全員が絶句していた。


「何考えてやがる……! ビキニアーマーを付けた女騎士には勝てねえ。そんなことはこの街の男なら全員分かってるはずだ。無駄死にしたいのか?」


 ビキニアーマーを身に付けた女騎士に、男たちの攻撃は決して通らない。下層街の住民であれば誰しもが理解していることだ。 


「いずれにしても、今が好機というのは間違いなさそうだ」


 一斉蜂起したとなれば、鎮圧のために人員が割かれることになる。

 そうすれば、上層への道を塞いでいる警備の数も手薄になる。

 突破するなら、今しかない。

 レグルスはベッドの縁に座ったまま、立てかけられた魔剣を手に取った。


「おい、あんた、どこいくつもりだ」

「上層――エルスワース城に向かう。そして女王を討つ」

「無茶言うな! お前さんはまだ満身創痍だろうが! 意識があるだけでも奇跡的なほどの重傷だったんだぜ。今だって動くことすら――」

「問題ない」


 レグルスはおもむろに立ち上がると、左腕を固定していたギプスを取り外す。手のひらを開閉してみせた。


「……おいおい。マジかよ。常人なら半年は動くことすらままならない怪我だぜ。それを一週間も経たないうちに……」


 髭面の医者の顔は引きつっていた。


「あんた、いったい何者なんだ?」

「俺は、女騎士たちを狩る者だ」

「何だそりゃ。答えになってねえよ」


 レグルスは唖然とする髭面の医者を尻目に、セレナに告げた。


「セレナ、お前はここにいろ」

「……随分とつれないことを言うのね」


 セレナは不服そうに呟いた。


「今から俺は、国を落としにいく。女王が討たれれば、国内は混乱するだろう。大勢の人間を巻き込むことになる」

「……ええ、そうでしょうね」

「俺はこの国の人間にとっての敵であり、悪だ。お前は騎士団の人間だろう。そんな奴に手を貸してもいいのか」

「私はもう、騎士団を辞めた身よ。それに闘技場であなたに加担した以上、すでにこの国に私の居場所はないわ」


 革命でも起こしでもしない限りは、とセレナは言った。


「革命を成功させれば、国家の敵は一転して英雄へと変わる。千年前、大陸全土を相手にそれを成し遂げた彼女たちのように」


 現体制を崩壊させれば、価値観はひっくり返る。

 白が黒に裏返るように、悪が正義に、正義が悪に裏返る。


「こんな一世一代の大勝負。乗るしかないでしょう?」

「……意外だったな。お前はもっと堅実な性格かと思ったが」

「こう見えて私、意外とギャンブラーなの」


 セレナは軽口を叩くと、真剣な面持ちになる。


「それに私は今の国のあり方が正しいとは思えない。内から変えようとしていたのが、外からに変わっただけよ」


 そして、不敵な笑みを浮かべると――挑むようにレグルスを見据えてきた。


「言っておくけど、止めても無駄よ。あなたが嫌だと言っても私は付いていくから。どこまでも、地獄の果てまでもね」


 すでに腹づもりは出来ているようだった。


「……勝手にしろ」


 レグルスはそう吐き捨てると、髭面の医者に告げる。


「そういうことだ。世話になった」

「……本来、医者なら止めるべきなんだろうが。俺は所詮もぐりの闇医者だからな。お前さんを止めることはしないさ」


 髭面の医者はそう言うと、無骨な手を肩に置いてきた。


「その代わり、無事に帰ってこい」

「ああ」


 レグルスはその言葉に応えると。


「それともう一つ頼みたい」

「ん?」


 髭面の医者に耳打ちをする。


「ああ、任せとけ」


 話を聞いた髭面の医者は静かに頷いた。


「……しかし、お前さん、この街の住民じゃねえだろ? 見ない顔だしよ。いったいどこからやってきたんだ?」


 千年前からだ、と心の中で呟いた。

 千年前のあの日から行き場を失い、今もなお彷徨い続けている――。

 俺は亡霊だ。


 レグルスは診療所の扉を開けると、外の世界に向かって足を踏み出した。そして千年前からの使命を果たすために、前へと進んだ。

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