第34話 氷の仮面

 悠久の時を経てもなお、輝きを失わない氷のようだ。

 それがエルスワース王国近衛兵団の団長――カミラ・リリックブームが女王ウルスラと最初に謁見した際に抱いた印象だった。


 街中で容姿の整った者を見て、思わず目を留めてしまうような――。

 彼女の美しさは、そんなありふれたものとは別次元だった。

 天賦の才を与えられた芸術家が命を削って描き上げた絵画や彫刻――その圧倒的な世界を目の当たりにした時のそれだった。魂を射貫かれるような衝撃があった。


 途中で呼吸が酷く苦しくなって初めて、カミラはそれまでずっと息を呑んでいたのだということに気づいた。危うく窒息するところだった。


 ウルスラは滅多に人前に姿を現さなかった。庶民はもちろん、貴族や王族たちの前にも。

 すでに女王は崩御していて、国政は王族たちが担っているのではないか――庶民たちの間ではそんな噂が囁かれていた。

 カミラはウルスラと謁見できる数少ない人間の一人だった。


 出会ってからもう十年近くになるが、その間、彼女は全く変わらなかった。

 カミラが肉体の最盛期を終え、下り坂に差し掛かろうという時期になっても、ウルスラは初めて会った時と同じ瑞々しさを保っていた。

 まるで彼女の時だけが止まっているかのように。

 特別なビキニアーマーを身に付けたウルスラは、悠久の時を生きることができるという。

 カミラの母や祖母の代、その遙か以前よりこの国の頂に君臨してきた。老いることも朽ち果てることもなく、ずっと強く美しくあり続けていた。

 千年前、英雄大戦で大陸中の男たちと戦った七人の鎧姫。

 カミラにとってのウルスラは、神話の登場人物のように遠い存在だった。それ故に、ほとんど言葉を交わしたことはなかった。


 ただ、一度だけその機会があった。


 その日は、国政の重要な会議が行われる予定だった。

 会議の時刻が迫っているのにも拘わらず、ウルスラの姿は見えなかった。彼女は護衛を傍に置くことを酷く嫌っていた。

 カミラはウルスラを探して連れてくるよう命じられた。

 ウルスラは自室と練兵場に籠もる生活を送っていた。しかし、そのいずれにも彼女の姿を認めることはできなかった。

 なら残る選択肢は一つだ。


 王城の裏手にある小さな森、そこを越えた先に広がっているなだらかな丘。

 見晴らしのいい開けたその場所には一面の花畑が広がり、晴れた日はまるで天上界のような光景を望むことができるらしい。

 らしいと言うのは、誰一人直接目にしたことはないからだ。


 ウルスラは他の者が丘に立ち入ることを固く禁じていた。

 一度、身請けされた上層の男が好奇心に駆られて足を踏み入れたことがあった。そしてその翌日、彼は首を撥ねられることとなった。

 先ほどの情景はその男によって伝えられたものだ。


 ウルスラは城の裏手に広がるなだらかな丘――そこに毎日のように通っている。

 晴れた日も、雨が降りしきる日も、雪が降り積もった日も欠かすことなく。

 丘にいったい何があるのか。城の者たちは皆、興味を抱いていた。

 埋蔵金を隠していて、盗まれていないか毎日確認に行っているのだと言う者。

 違法薬物の元となる草花を栽培しているのだと言う者。

 邪神を呼び出すための儀式を秘密裏に行おうとしているのだと主張する者。

 カミラにはそれがいったい何なのかまるで見当も付かない。ただ、何かとても大切なものがあるのだろうとは思った。

 普段、氷の仮面を被っているウルスラ――その凍てついた表情が、丘から戻ってきた時だけは和らいでいるように見えたからだ。


 その日もそうだった。

 カミラが丘に続く森の道の前で待っていると、ウルスラが戻ってきた。その面持ちを目の当たりにした瞬間、はっとした。

 ウルスラの目は仄かに赤く腫れていた。泣いていたのだろうか。氷の仮面を被った彼女が涙を流す絵面はカミラには想像できなかった。

 しばし呆然としていた。見とれていたとも言えるかもしれない。だからウルスラの言葉に反応するのが遅れた。


「理想の国とはどういうものだと思う」

「え?」

「お前が考える理想の国の姿だ」


 これまでカミラが話しかけることはあっても、ウルスラから何か言葉を投げかけて貰うことは一度もなかった。

 やはり丘の上には何かあるのだ。ウルスラの心を動かすだけの何かが。それが今のような状況を発生させた。

 カミラはしばらく考えた末に絞り出した。


「……飢えもなく、争いもなく、女性の誰もが幸せになれる国でしょうか」


 我ながら平凡な回答だと思った。

 自分には学もなければ、理想もない。だからこれが限界だった。もっと日頃から思索を巡らせておけばよかったと後悔した。

 ウルスラは是とも非とも言わなかった。そうか、とだけ無機質に呟くと、踵を返して城の方に向かっていった。

 自分の口にした理想の国の姿は果たして正しかったのか。ウルスラのお眼鏡に適うようなものだったのか。その時のカミラには分からなかった。


 けれど、後になってから気づいた。恐らくあの答えは間違っていたのだと。


 その頃のエルスワース王国は多くの問題を抱えていた。

 食糧難による飢えに少子化、貴族の汚職に宗教勢力の台頭。

 いくつもの時限性の爆弾が国家に絡みつき、起爆の時を待っていた。一つ一つは大した威力がなくとも、それらは重なり合えば絶大な威力を産む。

 国という巨大な怪物でさえ、息の根を止められかねないほどの。

 一刻も早く、その爆弾を取り除かなければならない。にも拘わらず、ウルスラはろくに対策を講じようとしなかった。

 時限性の爆弾が起爆の時を迎えるのをただ待つかのように。むしろその瞬間を待ちわびているかのように。無為に時を消費し続けていた。

 飢えもなく、争いもなく、誰もが幸せになれる国。まるでカミラの口にした理想の国の真逆の国を目指しているかのようだった。


 王族や貴族たちの中には国の未来を案じて不安を抱く者もいた。しかし、誰も彼女に異論を唱えることはできなかった。女王の圧倒的な力がそれを許さなかった。

 唯一楯突ける相手がいるとすれば、それは騎士団長のフレイアだけだ。しかし彼女は政にはまるで関心がないようだった。

 何か考えがあるのだろう。女王には私たちには見えないものが見えている。カミラはそう思うことにした。そう思うことで、不安を掻き消そうとした。


 彼女の瞳に映る理想の国はいったいどんなものなのだろう――。


 あの時、聞いておけば良かったとカミラは思うことがある。けれど、そうすれば今頃この首は繋がっていなかったかもしれない。


 そして今日――カミラは再びウルスラの姿を探して必死に奔走していた。

 とんでもない事態が巻き起こった。

 騎士団長のフレイアが討たれたのだ。

 ウルスラと同じ――英雄大戦を生き抜いた七人の鎧姫たちの一人が。

 騎士団長が討たれたとなると、国内に多大な混乱が巻き起こるのは必至だろう。下層街の男たちにも動きがあるかもしれない。

 一刻も早く彼女の耳に入れなければならない。


 練兵場にウルスラの姿はあった。しかし、カミラは声を掛けることができなかった。

 剣を振り、鍛錬に励むウルスラは修羅の如き剣気を放っていたからだ。

 喉元に剣を突きつけられているかのような緊迫感。迂闊に声を掛けようものなら、即座に命の芽を摘まれてしまうと直感した。


 ウルスラは無心に剣を振り続けていた。

 余計なことは考えず、頭の中から何もかもを追い出し、一振りに懸ける。その鬼気迫る表情には、どこか切迫感のようなものが感じられた。

 まるで現実から逃れるために鍛錬に没頭しているかのように。

 頂点に君臨する者とは孤独なのかもしれない――固唾を呑んで見守るカミラの胸中に、ふとそんな想いが過った。

 鍛錬が終わるのを待ってから、カミラはウルスラの下に歩み寄った。


「女王陛下。至急お耳に入れたい話がございます」

「…………何だ」

「実は――」


 カミラは簡潔かつ迅速に事態を説明した。

 騎士団長のフレイアが討ち取られたこと。それによって、騎士団の女騎士たちのビキニアーマーは全て自壊してしまったこと。

 そしてフレイアを討ち取ったのは、禍々しい剣を携えた白髪の男であること。


「……そうか」


 報告を受けてもウルスラの表情に揺らぎは見られなかった。

 国の一大事にも拘わらず、関心がないように思えた。自分には関係のない、どこか遠い世界の話を聞いているかのような。

 虚ろな瞳で、抜け殻のように覇気がなかった。

 しかし、カミラが次に紡いだ言葉を耳にした瞬間、様相が変わった。 


「その白髪の男は、レグルスと名乗っていたそうです」

「……レグルス?」


 その名前を口にした途端、虚ろな言葉に微かな熱が灯っていた。

 そのことに気づいていなかったカミラは、だから次の瞬間、ウルスラから言葉を投げかけられたことに驚いた。


「……ファミリーネームは」

「え?」

「その白髪の男のファミリーネームだ」

「は、はい、確か、レグルス=ブラッドモアと――」 


 カミラはウルスラが感情を表に出したところを見たことがなかった。彼女は常に溶けることのない氷の仮面を被っていた。

 その中に、時間と感情を封じ込めたのだと思っていた。

 けれど。


「……そうか。まだ生きていたのか。生き延びていたのか」


 まるで夢から醒めたかのように。

 その時のウルスラの表情には、激情が噴き出していた。

 憎悪と怒りと歓喜とがぐちゃぐちゃに入り混じった、巨大な感情の塊。それは一朝一夕に生み出されたものではない。


 ウルスラと白髪の男との間には、ただならぬ因縁がある。カミラはそう確信していた。

 そしてその因縁は、互いを殺し合うほどに強いものだ。

 ウルスラの発する感情の奔流を前に、カミラは畏怖の念を抱いていた。こんなに感情を露わにするウルスラを、初めて見た。


 ただ――夢から醒めた彼女は、今まで見たことがないほどに生き生きとしていた。

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