第5話 適合

 銀色の雨の帳に覆われた森林。

 レグルスは巨大な木の虚の内側にいた。


 その場所は開けていて、数人が入れるだけの空洞になっていた。


 魔剣。自らの意志を持ち、人語を介する剣。そんな存在は今まで聞いたことがない。

 魔剣アウローラは紛れもなく異形の者だ。

 だが、その異形の者と同化しようとしているレグルスもまた、人の道から逸れ、人外の領域に踏み込もうとしていた。


 魔剣との適合は想像を絶するほどに過酷だった。

 太陽の灼熱の中に直接全身の細胞をぶち込まれているかのような激痛。それが一瞬たりとも絶えることなく延々と襲い来る。


 断末魔を上げ続けた喉は裂け、全身から血が噴き出し、もがき足掻いて、しかし意識を手放して楽になることもできない。死を選ぶよりも遙かに辛い道程。


 だが、レグルスは許しを請うことも、泣き言を漏らすこともなかった。


 これは自分自身の意志で選び取った道だ。

 ならば、這ってでも進み続けなければならない。


 魔剣アウローラは、悶え苦しむレグルスを物言わずに見守り続けていた。

 手を差し伸べるでもなく、声を掛けるでもない。

 ただじっと、その行く末を見届けるかのように。


 絶え間ない激痛の嵐に苛まれ、レグルスの人格は崩壊しかけていた。心が壊れ、正気を手放してしまいそうになる。

 けれどそれでも理性を保っていられたのは、かつての記憶があったからだ。


 汚泥に塗れた貧困街で過ごした少年時代。

 物心ついた時にはすでに両親はいなかった。一番古い思い出を辿ってみても、そこに親の姿は見当たらない。幼少期の記憶がごっそりと抜け落ちていた。


 どこで生まれたのか、どこで育ってきたのかは思い出せない。ただ、貧困街に来てからどうやって生きてきたのかだけは鮮明に覚えている。


 他人から奪い、蹴落とし、時には命を奪い、泥を啜りながら生き延びてきた。


 身よりはおらず、周りは敵ばかりで、常に全てを疑い続けなければならない――そんな環境で生きるためにはそうせざるを得なかった。

 けれど、死に物狂いで生き延びた先には、何も待ってはいなかった。ただ灰色の砂漠だけがどこまでも広がっていた。


 誰からも必要とされず、憎まれ、疎まれ、恐れられる。

 何のために生きているのかも分からない、砂を噛むような絶望の日々。


 だけど、あの日。

 すえた匂いのこびり付いた汚泥の街に降りてきた彼女は、レグルスに告げた。

 

『私の理想を叶えるにはお前の力が必要です――レグルス』

 

 彼女――エルスワース王国第四王女、セラフィナ・エルスワースは貧困街の孤児だったレグルスに対して、まっすぐな眼差しを向けてそう言い放った。


 見下すでもなく、疎むでもなく、憎むでもない。

 対等な目線で、その名を呼んでくれた。


 人間扱いされたのは生まれて初めてだった。


 誰もが嫌悪する穢れきった自分に対し、躊躇いなく差し伸べられた手を掴んだ瞬間、この人のために生きようと決意した。


 自分を必要だと言ってくれた彼女の夢を叶えるために生きる。

 そのためなら命を捧げることすら厭わない。


 常人なら数分も持たずに精神が壊れるほどの絶え間ない激痛。

 それでもレグルスが正気を失わなかったのは、セラフィナへの忠誠と、ビキニアーマーの女騎士たちに対する激しい怒りがあったからだ。


 一年が経った。

 苦痛の嵐の中、ただ断末魔を上げ続けることしかできなかった。


 十年が経った。

 次第に痛みを受け容れられるようになった。


 百年が経った。

 とうとう受け容れた痛みを飼い慣らすことが出来るようになった。


 それからはただひたすらに剣を振るようになった。痛みに堪えながら、女騎士たちへの憎悪をよすがに自らの牙を研ぎ続けた。


 そして――。

 ある時を境にふと嵐が止み、凪のような静寂が訪れた。


 何年経ったかは分からない。ただ痛みは完全に消えていた。

 長い年月の果てに、レグルスの肉体は魔剣に完全に適合していた。


 激痛に晒され続けたレグルスの髪は真っ白に染まっていた。

 あらゆるものが刮ぎ落とされた抜け殻のような見た目になってなお、その虚のような目の奥には、静かな怒りと強い意志の光だけが消えずに灯り続けていた。


『驚いたわ。まさかあの苦痛に耐え抜いちゃうなんてね。てっきり途中で絶えかねて自死を選ぶと思ってたのに』


 魔剣アウローラは不敵に呟いた。


『千年間、正気を失わずに生き抜いたことは称賛に値するわ』

「……まだ何かを成し遂げたわけじゃない」


 まともに言葉を発したのはいつ以来だろう。しかし千年も時間が経っていたとは。時間の感覚が完全に消え失せていた。


『そうね。私たちの目的はビキニアーマーの女騎士たちの殲滅。ようやくスタートラインに立っただけだもの』


 アウローラの口調には笑みが乗っていた。


『これで私とあなたは運命共同体よ。これから長い付き合いになる。お互いにいい関係を築けるようにしましょう?』

「……冗談を言うな」

『あら? 馴れ合いは嫌いだったかしら?』

「それもそうだが、そうじゃない」


 レグルスは吐き捨てるように言った。


「これからも何も、もうすでに充分長い付き合いだろう」

『ああ、人間にとって千年は長かったわね』


 レグルスは魔剣アウローラの柄を握った。それはしっくりと手のひらに馴染んだ。自分も完全に化け物になったということだろう。


 構わない。生き延びるためならば。

 為すべき事を成し遂げるためなら、悪魔にだって魂を売ってやる。


「――始めよう。俺たちの戦いを」

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