第2話 乙女の復活

 それは、ある朝突然に起こったことだった。


 いつものようにリベリオが地下聖堂クリプトに生花を持参すると、なんと乙女が棺の中で目を開けていたのである。青く澄んだ大きな瞳で、訴えるように彼を見つめていた。

 驚いた。しかし、驚愕は長く続かなかった。激しい危機感がそれを塗り替えたのである。このままでは彼女が窒息してしまう、という焦りが。

 司祭に指示を仰ぐ余裕はなかった。彼はただちに倉庫へと取って返し、のみと金槌を手にクリプトへ戻った。真鍮細工に縁どられた棺の蓋は、小さな鎖と錠前で封じられている。そこに鑿を当て、金槌を振り下ろす。


 はたして、乙女は長きに渡る封印から解き放たれたのであった。


 乙女の復活はマッダレーナ・マッジョーレ教会の威信をかつてないほど高めることとなった。

 ヴァチカン教史上、死から復活した者はたったひとりしかいないのだ――他ならぬ、救世主メシアただひとりである。甦った聖女の話は瞬く間に世界中に広まった。


 乙女の名前はマリアといった。いや、そう名付けられた。

 長い長い眠りの間に、彼女は生前のことを何もかも忘れてしまっていた。

 自分が何者なのかも。どうして死んでしまったのかも。

 彼女が忘却したのは記憶だけではなかった。彼女は言葉も失っていた。

 乙女はただ、無垢な瞳で不安げに教会の者たちを見回しただけである。


***


 乙女は何者にも心を開かなかった。

 リベリオを除いては。

 彼女の世話係は引き続きリベリオに命じられた。本来であれば同性の者が望ましいのであろうが、生憎教会には既に女性の奉仕者がいなかったのである。巡礼者に委ねるわけにもいかず、一先ずの対処として彼が継続的に選ばれた。


 リベリオは戸惑った。

 まだ短い人生の中で、彼は名も知らぬ母以外の異性に触れたことがなかったのだ。

 初めて間近で見る若い娘の肌は、同じ生物とは思えないほどきめ細やかで、肉体に関する何もかもがリベリオよりも小さかった。大きいと感じたのは、あの深い青の瞳だけである。

 けれど、当然ながら、乙女の方が戸惑いは大きかった。

 彼女の足は萎えていた。自力で棺を跨いで出たものの、ガクンと崩れて膝をついてしまう。クリプトから連れ出すために、リベリオがほとんど抱えてやらなければならなかったが、その間、彼女は終始怯えた様子を見せていた。


 リベリオは非常に献身的だった。

 乙女が彼に心を開いたのはそのためだろうか。いや、どうやらそうではない。

 ある時、彼女は彼の手を取って言ったのだ。


「……この手」


 慈しむように甲を撫でる。節が目立ち、筋の上を蒼い血管がミミズのようにのたくるリベリオの手。それに比べたら、マリアの指はなんと華奢で可憐なことだろう。それなのに、彼女は小さな手で精一杯、彼の手を包むのだ。


「朧げな眠りの中で、何度もこの手を夢に見ました。あれは、リベリオさまだったのですね」


 そして、彼女はその手を頬に当てがった。


 ぞくりとした。

 心臓が跳ね上がり、何か目覚めてはいけない邪竜のようなものが、体の奥底で身動ぎするのを感じた。


 その日からだ。

 乙女が言葉を話すようになったのは。


 その日からだ。

 リベリオの頭から、マリアのことが離れなくなってしまったのは。

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