初めて言葉を信じた少女

犀川 よう

初めて言葉を信じた少女

 まだ十歳くらいだろうか。痩せ細った少女は沛然と降る驟雨に全身をぶつけられながら黙って広場の隅で立っていた。本来であれば朝から市が開催される予定だったその場には他の誰もおらず、その少女だけが男の方をちらりと見てはすぐに俯き、ただ雨に打たれている。家路に急ぐはずの男は声をかけようとするが逡巡した。その少女の一瞬の目線にある種の剣呑さを感じながらも、少女にどう声をかけて良いかわからなかったのである。


 不自然な対峙をすること数分。家にも少女にも足の向かなかった男は、外套から染み入る雨に肌冷たさを感じると、ようやくずぶ濡れの少女に近づくことができた。男は傍に寄り少女をよく見てみると、季節は夏の声がかかっているとはいえ、雨の冷えに身体が竦むというのに、少女は袖の短い白いシャツと浮かない灰色のスカート姿であることに気が付いた。更に少女の背を見れば、売り物であろうセロファンに巻かれた一輪の花を何束か両手に隠し持っていて、その腕には紫の痣のようなものが見えた。

 男はそれとなく事情を探る為、二回りは違う背を屈め、少女の顔をまっすぐ見ながら問うた。


「花を売っているのか?」


 少女は背中の向こうで咲いているびしょ濡れの花たちを差し出すと、男に出来るかぎりの作り笑顔を向けた。


「お花を一本、いかがですか? ご自宅用でもプレゼント用でも。きっと素晴らしい人生のいろどりになりますよ」


 大人に仕込まれたセリフを頭で反芻しながら口に出していく少女。土砂降りの中で花は折れそうなっており、少女の視界が男をきちんと捕らえているのかも疑わしい。ただ、少女が不器用すぎる花売りであることは男にも理解できた。

 周囲を見渡すがやはり誰もいなかった。男は少女は誰かに花を売りきることを命じられ、それができない罰に震えながら、この寒空で立っているのだろうと思った。


「わかった。俺が全部買おう」

「ありがとうございます!」


 男は少女の言う値段に色を付けるために一番の高額紙幣を渡す。少女は遠慮するが、男は「残りは自分のお小遣いにすればいい」と言うと、少女は「おつりがありません」と言った。男は自分の優しさの傲慢さを恥じてから、手頃な紙幣五枚を正規代金とし、最初に渡した高額紙幣をお小遣いにするように言った。少女はまだ戸惑うも、男から「傘とタオルでも買えばいい」と言われ、しぶしぶ頷くことで合意に至った。


 男は自分の幼少時代を目の前にいる少女に重ねていた。「これを売り切るまで帰ってくるな」という男の父親の言葉を思い出したのである。貧しい漁村で生まれ、なんとか獲ってきた魚を売り捌くのが少年時代の男の仕事であった。仕事ができなかったときには鉄拳制裁が待っており、食事抜きの日々が追加される。今は大人になり親からの恐怖はなくなった男であるが、子供の頃は、両親からの言葉というものは暴力への序章であった。きっとこの少女もそんな言葉をぶつけられ、市も立たぬ荒天の中で、売り切るまでは帰れないのであろうと、男は自分の身の上から肌で感じたのである。


「さあ、これで家に帰れるだろう。傘やタオルを買って怪しまれるのが嫌なら、そのままでいいから、すぐに帰りな」


 男がそう促すと、少女は淋しそうな顔をして頭を振った。不思議がる男の顔色を察して少女は、悪い意味で複雑そうな表情をしながら「お父さんからしばらく帰ってくるなと言われているから」と言った。男はその言葉の向こう側にある遣る瀬無さに天を仰ぐも、降り注ぐのは日差しのない雨雲からの無常の雨しかなかった。


 男は少女の手を引いて近くにある雑貨屋の戸を叩いて老婆にタオルを借り、温かいお茶を飲ませた。老婆が少女を心配したわけでないが、男からお金を貰って施したのである。


「親父は、どうして君に帰ってきてはいけない、と言ったんだ?」


 少女は答えたくなさそうな視線を男に投げる。男はその目を見て、自分が少女に憐れみも救いも与えられないのではないかという不安や恐怖に陥るが、それでも幾ばくかの同情心や義侠心を搔き集めて再度問うと、少女は、


「……知らない女の人が来るから」


 と呟いた。男は感情を処理する時間を稼ぐために老婆を見るが、老婆は茶を啜り、首を振るばかりであった。

 

 男は少女を見て、自身の迂闊さで少女を傷つけぬよう、ゆっくり問うた。


「君は、自分の親父が好きか?」


 少女は迷うことはなかったが、時が止まっているのではないかと思うくらいに、ゆっくりと首を横に振った。

 それを見ていた男も、またゆっくりと、少女に声をかけた。


「俺が君を、親父から解放してやるよ」


 先程まであれだけ降っていた獰猛な雨は鳴りを潜めた。雑貨屋から一時間くらい山村に向かって歩くと、少女の住む小屋に着いた。小屋と表現するのも憚れるようなボロ屋であった。

 男は物音を立てずにボロ屋に近づくと、親父らしき者と知らない女の人とやらがくんずほぐれつしているのを目にした。無論喧嘩ではなく男女の仲の話である。男は深いため息をつき、少女に「出来るだけ大きい君が持てる重さの石をたくさん集めてきな」と頼むと、少女は更に山奥へと走っていった。男は少女の後ろ姿を見てから、ボロ屋の周りに複数あるとても大きな木箱を確認して、中へと入り込んだ。


 男はお楽しみのところである親父を問答無用に殴りつけてから、悲鳴を上げる女を引きはがし、持っている石を握りしめて更に何度も殴った。その様を見た女は着物を手にすると、裸のままボロ屋を飛び出していく。男はそれに構うことなく、親父を失神するまで殴りつけた。親父は反撃する余地もなく、すぐに頭から血を流して気絶した。


 外に出ると、男は先ほど見繕った大きな木箱に親父を入れて木蓋を被せ、少女に「石をできるだけ乗せてみな」と言った。少女は何も言わずに一つ、二つ、と乗せていっては足りなくなった石を拾いに行き、また一つ、二つ、と平たくなるように満遍なく置いていった。


 大人では持ち上げることのできない重さになると、男は少女の手を止めさせた。


「これで、君の親父は自分では箱を開けられなくなった。もし、親父が目を覚まして、親父がいう言葉を信じられるのであれば、君の手で石をどかしてやればいい。その時は俺が犯人として警察に行って自首しよう。だが、親父が言う言葉を信じられないのであれば、一生、石をどかさなくていいんだからな。変な遠慮や同情をしたり、脅かされて従う必要なんてないんだぞ」


 男が膝をつき少女を真正面から見てそう言うと、少女は男の言っていることを、信じてみようと思った。今までの少女にとって言葉とは、命令や罵倒でしかなかった。だから、自分に未来の選択をさせてくれた男の言葉に新鮮さと救いを感じて、心が動いたのである。


 少女はボロ屋の裏に回り、売り物にしていた花を一本引っこ抜いて戻ってくると、自分の父が入っている木箱に盛られた石の山にそれをそっと供えた。そして、男の服の袖を掴むと、「一緒に警察に行く」と言った。男はとてもうれしそうに大笑いしながら、「行くなら、やくざ者の俺だけでいいさ」と言ってから、軒先にある少女ではとても持てない大きさの石を、石山の最上段に乗せた。そして、また笑いながら、少女に言うのであった。


「言葉ってのは中身ではなく、言った人がすべてだとわかったな。であれば、これからの君にとって、言葉は素晴らしい人生のいろどりになるだろうさ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

初めて言葉を信じた少女 犀川 よう @eowpihrfoiw

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る