夏の病葉(わくらば)一万文字ミステリー①

狭霧

夏の病葉(わくらば)

 脳裏を掠める情景がある。救急車のサイレンを、あれほど間近に聞いた経験は無かった。

 思い返しながら、今はくすんでしまった四階建て校舎を見上げた。花の時期を終えたサクラの緑が青空に映える。母校〈ノルン館学園高校〉を訪れるのは、卒業以来初めてだ。

 並木のなだらかな坂を上ると巨大な御影石の正門がある。その間に立って、首を傾げた。

「こんなに狭かったっけ?」

 笑い声が聞こえ、顔を上げると女子高校生が三人、じゃれ合いながら近づいてきた。学校で部外者は目立つ。三人はシックな黒スーツを身につけた女を見て歩を緩めた。

「こんにちは!訊いてもいい?」

 声を掛けられた三人は顔を見合わせ、頷いた。

「次木先生はまだここにいらっしゃると聞いたんだけど、今日は?」

 一人が「あぁ!」と声を出した。

「次木先生ならまだいますよ。さっき見かけました」

「教科担任室よね?」

 もう一人が言うと、残る一人も発言したいとばかりに首を振った。

「放送室じゃない?ブラスバンドの前に放課後はほら、放送部の活動もあるし」

 ワイワイ話す三人を微笑んで見つめ、志葉優衣しばゆういは両手で制した。

「ありがとう!放送室ね?行ってみるわ。気をつけて帰ってね」

 三人は恥ずかしげに礼をし、笑いながら駆け去って行った。その後ろ姿を見送り、優衣は呟いた。

「あんなだったのかな、私も」

 苦笑が出た。そんなはずはないと思った。正確に言えば、覚えてはいない。忘れようとしてきた人生の季節だ。

 優衣は一つ深呼吸をし、職員用の出入り口を目指した。

 用件を告げると、事務員は優衣を校長室隣の応接室へと案内した。装飾は一切無い。ベージュ色の壁にも額一つ無く、あるのは開け放たれた腰高の窓だけだ。その先には今さっき通った正門が見える。部屋の時計は午後三時半を過ぎている。声を掛けた三人組同様に門を出て行く生徒の姿が散見される。窓枠から覗き込むように揺れるのは、すっかり花の落ちたサクラの枝だ。

 ノックの音が聞こえた。入ってきた長身の男は、手に紙コップを二つ持っていた。

「珍しい卒業生が顔を見せたものだ」

 微かに白いものが混ざる髪は、当時同様綺麗になでつけられている。同窓会に出たことのない優衣が音楽教師・次木克也の顔を見るのは、卒業式以来だ。優衣は立ち上がり、お辞儀をした。

「ご無沙汰をしています。先生、お元気そうでなによりです」

 卒業から十四年が過ぎた。社会人として礼儀正しいのは当然としても、優衣の身のこなしに次木は眉根を寄せた。

「何か、雰囲気が変わったな。仕事のせいか?今何をしているんだい?」

 優衣は出された紙コップのコーヒーを横に置き、バッグから名刺を取りだした。それを滑らせて次木の前に差し出す。覗き込んだ次木は表情のない顔で名刺を読んだ。

「《県警本部刑事部捜査第二課――課長》……」

 見開いた眼で優衣を見た。

「課長――って、志葉君、君はまだ三十……」

「来月で二になります。卒業して十四年ほどですから」

 次木は名刺と優衣の顔を見比べた。薄めな化粧の下の肌は溌剌としている。眼差しには強さを秘めているが、一見すればごく普通の会社員にも見える。

「それって――俗に言うキャリア組ということかい?」

 優衣は苦笑し、コップを手にした。

「俗に言う、それです」

 次木は名刺をテーブルに置き、嘆息した。

「すごいな……。いや、在学時から君の成績は群を抜いていた記憶はある。うちは一応有名と言える進学校だけど、その中でさえ君の話は教員の間でも出るほどだったし、当然と言えば当然なんだろう」

「ご指導の賜です」

 背筋を伸ばし、優衣は軽く頭を下げた。

「指導したといっても、私個人としては君とは縁がなかったように思うけど?」

 音楽の教科担任を務めていた次木だが、当時音楽教師は二名体制だった。一年次のみ音楽の授業はあるにはあったが、次木が言うように、優衣が次木から授業を受けた事はなかった。四十代前半にしては若々しい音楽教師は椅子にもたれ、指を組んだ。

「それで、その縁の無かった私に何の用があってキャリア組さんがいらしたのかな?」

 興味ありげに微笑んで見せた。授業を受けたことは無くとも、優衣は次木のことを記憶している。年配者の多かった教員陣の中、自分たちより一回り年上だった次木は、女子生徒の間で人気が高かった。

「私が在校していた当時の先生で、今も残っておられるのは次木先生だけと伺いましたが」

 次木は考えるように小首を傾げ、頷いた。

「そうなるのかな。年配だった学長や副学もとっくに退任されたし、その他の先生方にしても、系列校との間でうちは行き来が激しい。戻られる方は居ても、今は私だけかも知れないね。でも、それが?」

 優衣は紙コップを置き、次木を真っ直ぐに見つめた。

「久野峰桜――」

 フルネームを声に出すのは何年ぶりだろう――優衣は苦いものを口の中に感じた。

「ご記憶でしょうか?」

 次木は顔をしかめた。思い出そうとするように視線を動かした。

「くのみね――さくら?えっと……それは?」

 優衣は再びバッグから、今度は一枚の写真を取りだした。それを自分の名刺の脇に並べるようにして置いた。

「国公立コースだった私とは二年生の時に別になりましたが、一年次は同じクラスでした。クラス委員長で、写真でも分かるとおり明るい笑顔の優しい子で」

 いちいち頷いてみせる次木が言葉を挟んだ。

「受け持った子なら大体記憶にあるんだが、さて、久野峰さんねえ……」

 写真を見つめた。

「そうですか。では、屋上からの自殺者――と言ったら思い出していただけますか?」

 ギョッとした顔で次木は優衣を見た。

「高校三年の、季節は丁度今頃でした。久野峰桜さんは、第二棟の屋上から身を投げ、中庭の側溝で死んでいました」

 次木は険しい顔で写真を見直し、「あぁ!」と頷いた。

「勿論その事は記憶している。大変な騒ぎだったからね。そうか、この子が――」

 優衣は静かな眼差しで次木を見つめた。

「友だちだったのか。すまなかったね。大勢の生徒と接触しても三年で巣立っていく。顔までハッキリと思い出せない人もいるんだ」

 優衣は力無く首を横に振った。久野峰桜とは、特に親しかったわけでは無かった――と、次木に言った。

「それで?この子がどうかしたのかい?」

 尋ねられ、優衣は写真を手に取った。親友だったわけではないが、仲が悪かった覚えもない。一年の時には、クラスメイトならば交わす程度の会話もしている。優しい子だ――という印象の他に、繊細なんだなと感じたこともあった。

「私は、県警赴任以前に警察庁で仕事をしていました。とても忙しい日々で、働いたら帰って寝る――その繰り返しで」

 苦笑した。

「勉強ばかりで友だちと遊びに行くなどという事もなかった高校時代と、あんまり変わらない生活だったんです」

 次木は優衣が何を言いたいのか分からず、黙って聴いた。

「忙しかった――というだけで無く、努めてこの街に戻ることを避けていました。実家にはまだ両親が健在なんですけどね」

「それは――親御さんもさぞや……」

「この街に近寄りたがらないこと、親は知っています。理由も」

 次木は顔をしかめた。

「元々、志望校はT大一本でした。自信もありましたので、卒業後は都内で一人暮らしになるのは分かっていました。そうなったら、帰省は可能な限りしないでおこう――そう考えていました」

「話がよく見えないんだが…」

 次木は優衣の顔を覗き込むように見た。

「君がそう考えたことと、写真の久野峰さんの事がどう関わるのか」

「先生」

 優衣は静かに、真っ直ぐに次木を見つめた。

「場所を変えてお話ししませんか?」

 次木は困惑した様子で「それはまあ……」と応えるだけだった。


「明日から中間試験でね」

 廊下に人影はない。二人は連れだって歩いた。

「屋上へ出る鍵はご用意いただけましたか?」

 久野峰桜の死亡を受け、屋上へのドアは施錠されるようになった――と、優衣は記憶している。

「この通り、持ってきたけど。何でまた屋上なんかに出たいんだろう?懐かしい母校とは言え」

「本当は、今日は久野峰さんの命日なんです。ここへ来る前に彼女の家へ行ってきました。お父さんは彼女が幼稚園の頃に亡くなられていて、お母さんが応対してくださいました。それで線香を上げさせていただいて、色々とお話をして。それで最後に学校の――彼女が亡くなった場所を一度見ておきたくて来た次第です」

 階段を上がっていく。次木は優衣の数段先を行く。踊り場で振り返った次木の表情は、差し込む初夏の日差しが逆光となり、よく見えない。

「そうだったのか。君たちも友人のあんな死は衝撃だっただろう。それで気持ちの区切りに――と言ったところかな?」

「まあ、そうですね」

 再び階段を上がり始めた。

「さっきも言いましたが、私は特別に久野峰さんと仲が良かったわけではありません。それでも、どうしても――」

 優衣が言葉を切っても、前を行く次木は進み続けた。

「決着を付けなくてはならないんです。私が今の仕事を生涯やるのならば」

「よく分からないな」

 次木はボソリと返した。

「先生はブラスバンドの他に、まだ放送部の顧問もされているんですね」

「ん?あぁ、赴任からもうずっとね。他の学校はどうだか分からないけど、うちの放送部は本当にお飾りなんだ。中には将来アナウンサーになりたい――なんていう子も居たりするけれど、正直、大体が幽霊部員さ。うちは進学校なのに部活動は必須だし、そのへんもあって――」

「久野峰さんも放送部でしたよね」

 次木が足を止め、天井を見上げた。

「うーん……どうだったのかな?それこそよく覚えてないけど」

「放送部だったんです。そして、あの子の死んだ日も部活はありました。一ヶ月に一度、機材点検日というのがあるそうですね。その日は顧問や二、三年生で手分けをして放送室の機材をチェックしたり――そう、可能な場所なら外のスピーカーなんかも点検をされていたとか」

 次木は振り返った。相変わらず表情はないが、その目には微かに嫌悪の色があった。

「なあ、志葉君。君は警察で出世をされたらしいが、これはあれかい?なにかの事情聴取とかそういった…」

 優衣は次木を追い越し、屋上へのドアの前に立った。

「そんなものではありません」

 優衣は手を出した。

「鍵を貸していただけますか?」

 次木は黙って鍵を渡した。優衣は、ドアに鍵を差し込んで回した。

 開けると、初夏にはまだ少し早い季節の爽やかな風が階段室に入ってきた。セミロングの優衣の髪を踊らせ、階段を吹き下りていった。二人は屋上に出た。

「一度か二度来たことがあるだけなので、変わったかどうかは分かりませんけど。たぶんそんなには変わってないのでしょうね」

 辺りを見回す優衣に、次木は「そうだね」と答えた。

「あれも以前のままですか?」

 優衣の指さす先を見て、次木は首を傾げた。

「あれ――って、スピーカーのことかい?それはまあ……。そうそう場所を変えるものでも無いし」

 優衣はスピーカーの下まで行くとフェンスに手を掛けた。眼下は中庭だ。

「あの側溝で、久野峰桜さんはまるで糸の切れた操り人形のように亡くなっていました」

 言い方が気に掛かり、次木は優衣の横に並んでその横顔を見た。

「あの日、久野峰さんの遺体を最初に見つけたのは、私です」

 優衣は中庭を見下ろしたまま言った。その視線は、時を越え、過去を見据えているように次木にも見えた。

「とは言っても、そばには同じ選択教科の友人がいましたので、一人というわけではありません。昼食も終えたので移動しておこうよ――と、そんな感じだったと思います。そして渡り廊下で、はじめに彼女の手が見えました」

 話す内容に似つかわしくない、柔和な表情だ。

「その後のことは、先生もご存じの通りです。最初に教務室に駆け込んだのは友だちだったから、私は当時の刑事から確認程度に――簡単に話を聞かれただけで終わりました。生徒達の情報も錯綜して、興奮もあったと思いますがそれが久野峰さんだと知ったのは、実は少ししてからです。その時の気持ちを言い表すなら、〈そっか〉でした。特に深い感慨や、なんて言うんでしょう、悲しいとか驚きもありませんでした。自分でも不思議なくらいに。でもその後――そう、警察組織に入ってすぐくらいでしょうか、気づいてしまったんです」

 次木は黙って聴いていたが、優衣が言葉を求めた気がして言ってみた。

「気づいた?なににだろう」

 優衣は次木を見た。

「喜んでいたんです」

 次木は口を閉じ、優衣をジッと見た。優衣は微かに笑ったように見えた。

「喜んでいた――というのは言い過ぎかも知れません。でも、心のどこかでそれに近い何かを感じていたのは確かです。私は――」

 一度言葉を切り、そして呟いた。

「久野峰桜さんの死を、当時の私は心のどこかで――」


 しばらくの間どちらも言葉を出さなかった。西に落ちていく陽が空を染めだした。遠く見える生まれ育った街は夜を待って静まっていく。東から宵の闇が近づいていた。優衣は西を見つめた。

「もうこんな時刻か…。さあ、そろそろ校舎を出ないと――」

「あと少しです」

 優衣は次木を見た。決意という強さよりも、むしろ悲しげに双眸が揺れていた。

「私、たぶん次木先生のことが好きでした」

 次木は隣の優衣をソッと見た。優衣は、小さく吐息を零した。

「進学校と言っても男女の交際が無いわけではありません。ただ、地元に残る者は少なくて、卒業すれば遠くなることがわかりきっています。みんな遊びの延長のような恋を、それこそ勉強の邪魔にならない程度に楽しむんです。そういった関係の噂話だって一杯ありました。その中に、久野峰桜さんのものがありました。珍しく私は聞き耳を立てていたんです。――ねえ知ってる?早慶クラスの久野峰さん、誰かと付き合ってるらしいよ。それがどうやらヤバい関係らしくって、近しい友だちにも詳しく話さないんだって」

 次木はフェンスに手を掛け、西の空を見た。

「その後、その相手がどうもここの教師みたいだと――」

「志葉君――」

「友だちの情報は続きました。誰かが見たんだって、屋上で抱き合っているのを。久野峰さんって一日おきに保健室で休むって。で、次の時間にはけろっとして授業を受けてるって。そして保健室に行くのって、その先生の授業のない時だけで――」

「志葉君!」

 スピーカーから微かに音が零れてきた。

「校内に残っている生徒は速やかに帰宅しなさい……繰り返します。校内に――」

 優衣はスピーカーを見上げた。年季の入った灰色のそれは、ぷつりと音を止めた。

「実を言うと、そんな話を聞いた後で保健室の利用記録を、こっそりと調べました」

 肩をすくめ、口元だけで笑って見せた。

「違法な手段で収集された証拠には証拠能力は無いんですけど、まだ刑事でもありませんでしたし」

 フェンスを握りしめて呟いた。

「具合の悪さを訴えて彼女が保健室に行くのは、次木先生」

 数秒の間をおき、優衣は言った。

「先生に授業のない時間だけでした」

 次木は顔を伏せて黙っている。怒りも困惑もない静かな表情に優衣には見えた。

「今から話すことには多分に私の想像が混ざっています。ですから、事実だなどとは言いません。彼女が自殺をした昼休み、放送部では校内の機材チェックをすることになっていたそうですね?主に放送室ですが、各教室のスピーカーもチェック対象だったとか。教室を回って再生の状態を確認するんだそうですね。そして、スピーカーは屋上にもあった」

 完全下校時刻を報せる音楽が微かな音量で流れ始めた。

「まだこの曲を――《新世界より》を使っているんですね?懐かしいなぁ……」

「久野峰さんが自殺した理由も想像しているわけかい?でもそれは故人に対してあまりにも乱暴で失礼じゃないだろうかね?想像された方は堪ったものじゃ――」

「想像はまだあります。彼女の死は、本当に〈彼女の意思による〉自殺だったのだろうか――ということです」

 終始無表情だった次木の顔に初めて困惑の色が浮かんだ。

「本当を言えば、私はこの生まれ育った県への赴任に拒否感がありました。理由は自分で分かっているんです。忘れていたい事が多すぎる――ということに尽きます。それでも職務である以上は拒否など出来ません。そう思った時、私は自分が見ないようにしてきたものの正体に気づきました。それは彼女の死の真相そのものではなく、真相から目を背けた自分でした。私は、今の仕事に誇りを持って生きていきたい。悪を見逃さないというのならば、自分の中の悪こそ見逃してはなりません。自分を優先して許すような者に人を断罪する資格はありません。だから、あの日のことと正面から向き合い、自分の中にあった〈見たくなかった自分の悪〉と決別する気になったんです」

 優衣は、黙っている次木に顔を向けた。

「久野峰桜さんを殺したのは先生、あなたですよね?」

 反駁の為に顔を上げた次木は、真っ直ぐに自分を見つめている優衣の視線から目をそらした。

「な……何をバカなことを」

「先生以外には居ないんです。彼女の動機となる人も、彼女に死を選択させる事が出来た人も」

 次木は数歩離れ、背中越しに言った。

「君は――どうかしている」

「そうでしょうか?どうかしているのは先生の方ではありませんか?」

 振り向いた次木の目にはハッキリと怒りの色があった。

「大概にしないと、いくら警察と言っても君ねえ」

「放送室の」

 次木は黙った。

「機材の中には各スピーカーの音量を個々に制御するものがあることは知っています。それはスライドスイッチになっていますが、普段は音量調節の必要などありませんので固定されています。でも、一箇所だけ音量を好みの大きさに調整出来るスピーカーがありますね?そう、これ」

 仰ぎ見た。灰色のスピーカーから流れ出る《新世界より》の音量は、小さかった。

「一斉放送という機能で全スピーカーを同時にオンに出来るそうですが、その際も屋上だけは別の扱いになっていることが多いと聞きました。それは、屋上のスピーカーの役割に関わりがあるとも。先生、屋上のスピーカーで放送を伝えたい相手は誰でしょうか?」

 答えない次木の代わりに優衣が言った。

「教室ならば、その教室にいる生徒達が対象ですから、部屋で聞こえればそれでいい。ですが、屋上には通常人が居ません。グラウンドにもスピーカーはありますが、そのいずれも、屋外のスピーカーには〈屋外に広く散在する生徒達に伝える〉という役割があります。当然音量は大きい。ですが、グラウンドならばともかく、屋上にだけ伝えたら良い局面もあるわけですよね?だから通常、音量は固定されていません。実はそのことについて、こちらにお邪魔する前に納入業者さんの方に確認済みです。大概の学校ではそうやって運用しているそうです。先生はあの日、久野峰さんに屋上のスピーカー点検を依頼したのだと思います。そして、指示通りに待機していた彼女は、恐らく信じられない声を聞いたのではありませんか?それは先生の声で、音量はとても小さかった。間違っても他の誰かに聞かれないほど小さな。彼女は耳をそばだてたでしょう」

 次木は拳を握りしめた。肩が震えるのが優衣にも見て取れた。

「小さな、彼女にしか聞こえない声で何を仰ったのでしょう?それこそは想像ですが、彼女が激しく落胆するようなことではないでしょうか」

 次木の脳裏に蘇るのは、その情景だった。

――お前とは遊びだ……俺につきまとうな……お前など、この世界に居なければ良いんだ……とっとと消えろ……代わりなんかいくらでも居る……ほら、飛んじまえ……飛べホラ……。

 優衣の声に我に返った。

「恐らくはとても酷い内容だったのではないかなと考えます。純粋に先生に夢中だった彼女に、発作的に屋上からの身投げを選ばせるほど酷い、人間の言葉とも思えない、そんな――」

「想像だ!作り話だ!いい加減にしないと名誉毀損で訴えるぞ!」

 優衣は意にも介さず遠くを見た。

「どうぞ、お好きなようになさってください。言いましたとおり、私は私の中の悪を見過ごしてこの仕事を全うする気はありません。あの日、私は気づいていたのだと思います。この自殺はおかしい。妙だ――と。それでもあの日の私は、先生と仲が良かったであろう彼女の存在の消失に心地のいいものを、微かであろうが感じたのだと思います。だから気づいたことを警察にも言えませんでした。尤も、〈ミステリー好きな女子高校生が思いついた空想〉くらいにしか受け止めては貰えなかった可能性はあります。みんな思い込みが強いもので、大人達には女子高校生は多感で、ちょっとしたことでも心は大きく揺れ、耐えきれない者も居るという思い込みがあります。仮に疑いの目が少しでも向けられたとしても、先生には〈実際に手を下さなかった〉という証明が可能です。アリバイは完璧です。私は、いま大人の思い込みを言いましたが、先生には確信がおありだったのでしょうね。久野峰桜という女子高校生の持つ精神の脆弱性が。お母様に伺いましたが、彼女って普段は詩を書いたり空想することの多い子だったそうです。お父様を早くに亡くした彼女が、先生との関係を通し、どんな未来を空想していたのかを考える時、私は私の弱さと狡さに激しい怒りを覚えます。このまま生きていくのが辛いほどに」

 次木は肩を落とし、優衣を睨んでいた。

「先生が転勤を拒み、ずっとのこ学校にいる理由はなんですか?」

 え?と次木は声にした。

「離れられない理由――それはいつか自分を怪しむ者が現れるかも知れないので、現場となった学校で誰よりも早くその小さな波を消したかったのかも知れません。もしかすると罪悪感から――などとも考えてみましたが、違うはずです。先生はその後、一体何人の女子高校生を口説きました?変わらない人間というのは、決して変わりません」

 言葉に詰まり、次木は顔を紅潮させた。

「悪に目を背けた刑事は刑事を続けてはなりませんが、人間のクズが未熟な人間達に教育を施すなど、あってはなりませんよね」

 唇は震えている。その様子が、真実と優衣の想像の近似性を物語っている。

「私は証拠も無しに先生を逮捕に来たわけではありません。自分の中のけじめとして――が最も合理的な表現だとは思いますが、先生には自分を恥じ、自らの進退なりを考えていただきたいと思ったのは正直な気持ちです。決めるのは先生ご自身です。私が去ったらもう誰もこの事を話題にはしないでしょう。クズな人間なのに人の道などを説き、人からは〈先生〉などと呼ばれて空想の自分のまま生きるのか、それともそんな自分を断罪し、生き返るか」

 優衣は背を向けた。

「いつも人は自分で決めるんです。決めたら何があろうが退かない。私はその決意でこの先も生きていきます。先生がどうされるか、どうか先生が賢明な判断をされることを祈っております」

 最後に一度、優衣は眼下に向かい手を合わせた。目を開けた優衣は、二度と振り返ることなく屋上から離れた。


 数日の間、多忙の中にあっても優衣は次木の動きを気に掛けていた。だが、所轄なりから〈過去の事案で出頭者あり〉という報せを耳にすることはなかった。優衣を名誉毀損で訴える事も無かった。優衣は思う。

――私は大した人間じゃあないけれど、自分への誇りだけは失いたくない。弱い人が不当な悪に押し流されることを見逃しはしない。約束するよ、久野峰さん……。

 ふと、開け放った窓の外を見た。県庁近辺の葉桜がそよ風に揺らいでいる。校舎内で時折見かけた久野峰桜の、優しげな笑顔が見えた気がした。

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夏の病葉(わくらば)一万文字ミステリー① 狭霧 @i_am_nobody

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