第3話 曹操の若き日々

 曹操は174年、二十歳でキャリア官僚として出発する。

 中国の官僚登用制度は、科挙が有名だが、隋代以降のものである。

 漢代には、郷挙里選が採用されていた。

 郡で秀才や孝廉を選んで、中央に推薦する制度である。

 秀才は試験に合格した者で、孝廉は父母への孝順や物事に対する廉正な態度を評価されて選ばれた者。


 説明を読んで、堅苦しさにうんざりするかもしれないが、少し我慢してほしい。

 本作は、面白い物語であるとともに、一冊で三国志の概要がわかる入門書になることもめざしている。

 曹操は常に三国志の本流を歩んだ人なので、彼の伝記は、劉備を追うよりも、この時代を理解できるはず。

 

 説明をつづける。

 曹操は、孝廉として郡内から選抜された。

 各郡毎年ひとり、約二十万人にひとりという倍率であったから、容易に突破できるものではない。

 曹操は後に父と弟を殺されて激怒したから、家族を大切にしていたと考えられるが、不真面目な青年として有名だったので、廉正かどうかは疑わしい。


 彼が選ばれた理由はふたつ。

 大長秋まで昇った祖父、太尉を務めた父がいる名門の出身であること。

「とにかくすごい男だ」と橋玄、許劭から評価されていたこと。

 孝順や廉正とは関係ないが、世の中そんなものである。


 曹操はしばらく皇帝の身近に仕える官を務め、すぐに、洛陽北部尉に任じられた。

 首都北部の治安を維持し、盗賊などを逮捕する役職である。

 現代日本風に言うと、洛陽北警察署長。

 郷挙里選で選ばれた者は、最初から部下を持てる。エリート中のエリートである。

 洛陽の人口は約五十万人。単純計算で、北部には十二万五千人が住んでいる。北部尉の職位は軽くない。

 早くも権力の末端に連なったと言える。


「奸雄になる前に、少しは真面目に働くか」と曹操はつぶやいた。

 彼は若い頃から現実をよく知っていた。

 まず足場をかためなくては、飛躍することはできない。

 そして目立つためには、多少手荒なこともしなくてはならない。


 曹操は着任早々、洛陽北部にある四つの門を補修し、そこに札を立てた。

「禁令を破った者、棒叩きの刑に処す」

 治安を守るために、苛烈な刑を執行すると宣言した。

 若き曹操に、ことなかれで任期をやり過ごすつもりなどない。違反者をきびしく取り締まった。

 辣腕の警察署長。

 彼は強烈なデビューを飾った。

 とんでもない若者が北部尉になったらしいぞ、という噂が洛陽をかけめぐった。 


 ある日、蹇碩の叔父が、門の夜間通行禁止に違反して逮捕された。

 蹇碩は宦官で、皇帝の文書を取り扱う小黄門という官職に就いている。大物官僚である。

 ふつうの警察署長なら、後難を怖れて、釈放するだろう。


「曹北部尉、北門を強硬に通過しようとする者がいたので、捕まえました」と部下のひとりが言った。

「棒叩きだ」

「その者、蹇碩様の叔父だと言い、すぐに釈放しろとうるさいのです」

「人によって許すとなれば、権力者は門を通り、その一族が通り、武人が通り、乱暴者が通り、ついには賊が通るようになる」

 曹操は断固として言った。


 その会話を聞いていた別の部下が口をはさんだ。

「北門をきびしくしても、賊は東、西、南の門へ行くだけで、意味はないのではありませんか」

 曹操は首を振った。

「私は自分の職掌の範囲内で最善を尽くす。もし他の門の警備に口を出せば、不和が生じ、かえって治安を悪化させるであろう。だから、そこまでは行わない。もし私が洛陽全体の警備責任者になる日が来れば、そのときは東西南北すべての門を同様に扱う」

 さらに言った。

「だが、私が北で厳正に職務を行っていると他方面の尉が聞けば、さぼっていると見られるのを怖れて、自然と警戒を厳重にするのではないか」

「それは、そうかもしれません」

「おまえたちも自分の職務に最善を尽くせ。粛々と刑を執行せよ」


 曹操は部下に棒叩きを行わせた。棒叩きは重刑で、死に至る者もある。

 この夜、受刑者は死亡した。

 権力者の親戚も忖度なく罰したので、以後、法は順守され、禁令を破る者はいなくなった。

 曹操に萎縮はない。怖い者知らずと言えなくもないが……。


 蹇碩は怒り、宦官たちは曹操をうとんじた。

 生意気であり、扱いづらい。追放しようと画策する者たちもいた。

 だが、職務を忠実に執行している北部尉を罰する理由が見つからない。

 なにより、このときはまだ曹操の父曹嵩が現役の高級官僚であり、その息子に手出しするのはむずかしい。


 結局、曹操は177年、頓丘県の令に出世することによって、洛陽から遠ざけられた。

 頓丘県は兗州東郡にある。黄河が近くに流れている田園地帯。

 栄転の形をした左遷である。


「まあ、世の中こんなもんだよな」

 曹操は、袁紹と酒を飲みながら言った。

「県令も悪くはないぞ」

 袁紹は、洛陽近郊で県令を務めている。

「そうだな。任地で、せいぜいがんばってみるさ」


 地方に飛ばされたとはいえ、県の長官である。

 行政の責任者。

 軍事にもかかわる。

 やりがいのある仕事と言ってよい。


 頓丘県にも城があり、県衙があった。

 衙とは、役所である。役人が多勢勤めている。

 曹操はここで、地方行政にたずさわり、中央との連絡、部下の統率、地方豪族との付き合いなどを経験した。

 税も徴収した。

 土地に民がいて、農耕が盛んで、産業があってこそ、国力は増す。曹操の頓丘県令時代の逸話は特にないが、領地が疲弊していないことが、政治力、軍事力にとって大切であることを実地で学んだであろう。

 後に彼は行財政改革を行う。まちがいなく県令の経験が役立ったはず。


 県令勤務は一年ほどで終わった。

 178年、霊帝の皇后宋氏が廃されるという事件があり、連座して、曹操は罷免された。

 曹操の従妹の夫、宋奇が皇后の一族であったというだけの薄い縁であるのに。

 後漢末期の任官免官は、相当に血縁族縁に支配されていたのであろう。


 曹操は故郷の譙県へ帰ったのだろうか。

 二年ほど、消息がわからない。

 この頃、再び世に出る機会をうかがいながら、書物を読み、武芸の腕を磨いていたのかもしれない。

 曹操は詩人としても有名になる。孫子の兵法の解説書「魏武注孫子」を書くことにもなる。

 彼は豪傑ではないが、乱世を生き延びるためには、多少の剣の腕が必要だと感じていてもおかしくはない。

 晴れの日は武芸の鍛錬をし、雨の日は読書をした。

 たまには遊郭へも行った。

 

 180年、洛陽に呼び戻され、議郎となった。

 九卿のひとつ、光禄勲の属官である。

 皇帝に上表文を提出することもできる身分。


 その頃、朝廷内は宦官と外戚が争い、清流派と濁流派が対立し、乱れに乱れていた。

 曹操はこれを正そうとやる気を出して、何度か上表した。

 宦官の横行がはなはだしく、清廉潔白な士が迫害されていて、改善の必要があること。

 三公が汚職をして、彼らに賄賂を贈る者が地位を得て、贈賄しない者は罷免されること。

 霊帝はこれらの意見をほとんど無視したが、ときには三公を叱責し、讒言によって罷免された者を復職させることもあった。

 それでも高官の汚職は横行しつづけた。


 いつしか曹操はむなしくなり、諫言に満ちた上表をやめた。

 彼ほどの男でも、仕事に意味を見い出せなくなれば、やる気をなくす。

 そして184年、黄巾の乱が勃発する。  

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