第八章 正体7
「アァァァアアアアッ!」
雄叫びとともに、比丘尼の身体が空中に跳ね上がる。
腕の力だけで飛んだのだ。
比丘尼は目の前にいた秋人に飛びつくと、その両手を首にかけた。秋人は必死で払いのけようとしたが、比丘尼の指は無慈悲にもどんどん喰い込んでいく。
「比丘尼さまの体力を保つために筋力増強剤を使っている。上半身だけでも、大人一人なら苦もなく絞め殺せるぞ。何をしても無駄だ。……おっと、比丘尼さまの武器は腕だけじゃないからな」
御子柴が言い終らないうちに、比丘尼が喉の奥から異様な声を発した。
「カアァァァァアアーーーーッ」
岩を呑み込めそうなほど大きく口を開けた比丘尼は、そのまま秋人に噛みつこうとしている。
秋人は身体を捩ってなんとか攻撃をかわしているが、そのたびにカチン、カチンと歯が噛み合わさる音が響いた。
揉み合う二人を、御子柴は芝居見物の様相で眺めている。
「比丘尼さまは最近、動物の生肉しか口にしないんだ。しかもどういうわけか、一番好きなのはヒトの肉らしい。女子高生たちを殺して下半身を切ったあと、残った死体を貪りたがって困ったよ。早く立ち去らないと誰かに見つかりそうだったから、途中で強引に連れ帰ったけどな」
理緒と御子柴がいる位置から、部屋の真ん中にあるベッドを挟んだ反対側で秋人と比丘尼が揉み合っている。
比丘尼の姿はまるで、獲物を仕留めようとする野獣だった。秋人の首を絞め上げながら、今にも噛みつこうと牙を剥いて迫る。
秋人は真っ白な髪に覆われた頭を両手で押しとどめてなんとか阻止しているが、その間にも首には比丘尼の指が喰い込み……。
「……うっ」
やがて、苦しそうな声が漏れた。
秋人の身体からしだいに力が抜けていくのがはっきりと見て取れる。
「御子柴先生! 止めてください。黒崎くんが……」
理緒は自分を拘束する御子柴の腕に取り縋って懇願した。しかし御子柴は、それを鼻で笑い飛ばす。
「冗談言うな。黒崎はそろそろ死ぬ。あと五分、持つかどうか」
「止めて! お願い先生。私は先生の言うことを聞きます。器でも何でも好きにしてください。だから黒崎くんのことは助けて!」
「森澤。下手な友情ごっこはやめろ。……反吐が出る」
御子柴は吐き捨てるようにそう言った。
ゾッとするほど冷たくて抑揚のない声だった。その顔は歪んでいて、人の感情というものを全く感じない。
理緒は戦慄した。――この人は……この人は人間じゃない!
「さあ比丘尼様、黒崎なら好きに貪っていいですよ。どうせ自殺を装って死んでもらうんだ。犯行を自供する遺書とともに死体を樹海にでも捨てておけばいい。あそこなら多少齧られていても、動物のせいになる」
「アアァァァアアッ!」
比丘尼は御子柴の命令に応えるように叫んだ。
そのすぐ横にある暖炉では、炎が盛んに燃えている。
秋人の顔は真っ白で、苦痛に顔を歪めながら固く目を閉じていた。足元はすでに覚束ない状態になっている。
「黒崎くん!」
理緒は溜らず叫んだ。
「森澤さ……ん」
秋人は閉じていた瞳を一瞬開けて理緒を見た。
だがそれはすぐに固く閉ざされ、とうとう両手がだらりと垂れ下がる。
「もうやめて……!」
「そうだ黒崎。最後に気の利いた話でもしてやろう。今お前の首を絞めているその腕は――お前の母親の腕だ」
「……えっ」
苦しそうに顔を顰めながらも、秋人は御子柴を見つめた。
「最近移植した下半身はすぐに腐ったが、七年前に移植したその腕はいい状態を保っていてな。ずっと繋げたままなんだ。つまりお前は、母親の腕に絞め殺されることになる。まあ、自業自得だろう? 母親を殺したのはお前自身なんだからな」
御子柴はそう言うと、勝ち誇ったように笑い声を上げた。
秋人はだらりと下がった手をそろそろと持ち上げ、比丘尼の腕にそっと触れる。
「……お母さ……ん」
その瞬間、秋人の首が解放された。比丘尼はそのまま、ぼとりと床に落下する。
急に首を解放された秋人は咳込みながらその場に片膝をついた。
「比丘尼さま、一体何をしているんだ!」
ドン、と床が踏み鳴らされ、理緒の背中で御子柴が怒鳴った。
床に落下した比丘尼は再び腕の力だけで這い、ぐったりしている秋人に近づく。
「ア……アァア……オ……オカ……オっ母」
枯れ枝のような手が、秋人の頬をそっとなぞった。そのまま何度も何度も、比丘尼は同じところを撫でる。
表情は緩み、微笑みさえ浮かんでいた。
まるで、秋人を慈しんでいるかのようだ。
秋人は最初は身を硬直させていたが、やがて頬に触れる比丘尼の手に、そっと自分の手を重ねて呟いた。
「……お母さんの、手……」
「ア……コロ……殺し……テ」
か細い声とともに、比丘尼の頬に涙が伝った。今まで虚ろだった瞳に、微かなきらめきが宿る。
「わたしを、殺して……!」
今までと違う響きに、理緒は目を瞠った。
明瞭で凛としているが、確かに比丘尼の声だ。
頬を伝う涙とその声には、はっきりと悲しみが宿っていた。
比丘尼は死を懇願している。彼女がほしいのは生ではない。人知を超えた能力でもない。
命の終わりなのだ……。
「何をしているんだ! とっととそいつを始末しろ」
突然攻撃をやめた比丘尼に、御子柴は怒声を浴びせた。床を立て続けにドンドンと踏み鳴らしながら片手で頭を掻きむしっている。
しまいには鬼のような形相で言い放った。
「今まで誰が生かしておいてやったと思ってるんだ。――この化け物!」
化け物――その言葉を聞いた途端、比丘尼の身体が雷に打たれたように大きく痙攣する。
「アァァァアァァァァ……!」
瞳に一種だけ宿った光が消え、比丘尼は再び唸り声を上げて目の前の秋人に襲いかかった。
だが、秋人の動きが一瞬早かった。
咄嗟に身体を捩り、丸腰になった比丘尼の背中を突き飛ばしす。上半身だけの比丘尼の身体は大きく吹っ飛び、そのまま床に転がった。
停止したのは暖炉のすぐ手前だ。パチパチと音を立てて燃えていた炎が、たちまち真っ白な髪に燃え移る。
「アァァァアアァ――――!」
絶叫が響き渡った。
炎は比丘尼の頭部を覆い尽くし、寝間着に引火する。
髪の毛が燃える嫌な匂いが充満した。比丘尼は叫び声を上げながら、上半身だけの身体を床にこすりつける。
「比丘尼さま!」
御子柴は理緒を突き放した。
慌てて比丘尼のもとへ駆け寄っていく。
「アアァァァァァァア……」
比丘尼は床をのたうち回りながら燃えていた。
御子柴は傍らのベッドから枕を取り上げて、半分だけの身体に叩きつける。
しかし炎の勢いは全く衰えず、枕の方に火が移ってしまった。
「なんてことだ! しっかりしてください! 比丘尼さま!」
御子柴は燃える枕を投げ捨て、頭を抱えた。
炎の回り方が異様に早い。床に敷いてあった絨毯に燃え移り、すぐに大きな火柱が上がる。
とうとう、室内に煙が充満し始めた。
比丘尼の顔は焼けただれ、皮膚が剥がれ落ち、頬からは骨が見えていた。それでも鎮火する様子は見せず、逆に身体から炎が噴き出してように見える。
理緒は目の前に広がる地獄のような光景を見て一歩も動けなかった。へたり込む寸前、肩に手が置かれる。
「森澤さん」
秋人がすぐ傍に立っていた。
そのまま理緒の手を取り、部屋のドアを指し示す。
「森澤さん、外に出よう」
「うん……」
理緒は頷きつつ、室内を振り返った。
「アアァァ……ァア……」
上半身だけの比丘尼の身体は火に包まれ、すでに真っ黒だった。時折蠢きながら呻き声を発している。
御子柴はそれに向かって、脱いだ白衣を打ちつけていた。
「比丘尼さま、比丘尼さま! くそ! 比丘尼さまがいないと、研究が、人類の進化が!」
「御子柴先生!」
理緒は火柱の向こうにいる御子柴に向かって叫ぶ。
炎と煙に巻かれながら、御子柴は理緒の方を見た。そして我に返ったような様子であたりを見回す。
絶望的な状況を確かめたあと、彼は自分の足元で七転八倒している比丘尼を見て呆然とした。
「逃げましょう、御子柴先生!」
理緒は秋人と繋がっていない方の手を御子柴に差し出した。
だが、御子柴は首を左右に振った。天井から火のついた木片がバラバラと落下して、理緒と御子柴の間にまた一つ火柱が上がる。
燃え盛る炎の向こうで、御子柴は理緒に向かって微笑んでいた。
「御子柴先生! 御子柴先生!」
「森澤さん、ここにいたら危ない!」
御子柴の方へ駆け出そうとする理緒の手を、秋人が強く引っ張る。そのまま顔を覗き込み、言った。
「森澤さん。僕と、外に出よう」
射貫かれるような、強い眼差しだった。
理緒はこくりと頷き、秋人の手を強く握り返した。
秋人と手を繋ぎながら、最後に一度だけ後ろを振り返ったとき、理緒は炎の向こうに御子柴の姿を見た。
その胸には、赤々と燃える比丘尼の身体がしっかりと
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