第八章 正体4
肩を震わせて立ち竦む理緒を見つめて、御子柴はゆっくり頷いた。
「今、比丘尼さまの身体の半分は他人のパーツでできている。そしてその中には、森澤の同級生の下半身も含まれている」
「――――!」
理緒は思わず呼吸を止めていた。
胸の中に、岩を投げ込まれたかのような衝撃だった。
明日香の顔が脳裏を過る。怒りと悲しみと恐怖がまぜこぜになって肺の中にどんどん溜まっていくのに、息ができない。
「御子柴先生が、明日香ちゃんを……殺したんですか?」
呼吸困難になる寸前、吐き出す息と一緒に目の前の御子柴に言葉をぶつけた。
御子柴は嘲るような視線を返してくる。
「おいおい森澤、そんなに怖い顔をするな。俺は遺体の下半身を切断をしただけで、息の根を止めたのは比丘尼さま自身だ。それに悪いのは森澤のクラスメイトの方だぞ。あいつは俺が呼び出したら喜んであの竹藪に来た。恋人がいるにも拘わらず他の男に呼び出されて夜中に人気のない場所にのこのこ来るなんて、何を期待していたんだろうな。今回は手っ取り早くパーツが欲しくて一番罠に引っかかりそうな奴を選んでターゲットにしたんだが、あまりに滑稽すぎる。下半身を切り取って比丘尼さまに移植してやっただけでもありがたいと思ってほしいね」
「ひどい……!」
理緒は自分の頬に熱いものが伝い落ちていくのを感じた。
「あんな淫乱女のために泣くなんて、やはり森澤は優しいな」
「明日香ちゃんはそんな子じゃありません……」
理緒が頭を振って叫ぶと、御子柴は再び嘲笑した。その姿を見て、吐き気がするほどの嫌悪感を覚える。
そのとき、室内に絶叫が響き渡った。
「アァァーーーーアアァァァァッ!」
獣のような咆哮だった。
叫んでいるのは車椅子の上の比丘尼だ。頭を抱えるようなポーズで目を見開き、身体を大きく揺らしている。
――キィイイー……ガタガタ。
比丘尼の振動に呼応するように、車椅子が動き始めた。
それはやがて、理緒の傍でピタリと止まる。
「アァァァァアアァァッ!」
比丘尼は目の前にいた理緒の腕をがっちりと掴んだ。
恐怖が極まり、理緒は悲鳴を上げる余裕さえなかった。細い指が、ぎちぎちと腕に喰い込んでいく。
「うっ……」
苦痛に顔を歪めたとき、呻くような声とともに突然比丘尼の身体がビクンと揺れた。理緒を掴んでいた腕がだらりと垂れ下がる。
比丘尼はそのまま気を失ったように項垂れた。すべてが一瞬の出来事だった。呆然とその場に立ち尽くしていると、御子柴が落ち着き払った口調で言う。
「すまない。驚かせたな。最近は時々こうなるんだ」
御子柴はいつの間にか比丘尼の背後に回っていて、皺だらけの細い首に手を添えていた。
そこには何かが突き刺さっている。小さな注射器のようだ。
「比丘尼さまの衰えは、手足だけでなく身体の内部でも進行している。腐った内臓で発生した菌が脳に入り込み、時々今みたいな錯乱状態を引き起こすんだ。比丘尼さまの脳のうち、まともに機能するのはもう脳幹付近のみ……。つまり、今の比丘尼さまはほとんど本能だけで生きている。食事でさえ野生獣のように生の肉しか口にしない。気が付くと家を抜け出して、野良猫を狩って貪っている」
「野良猫……」
猫の死体が散乱しているシーンが頭に浮かんだ。
そういう事件が、最近立て続けに起こっている。それも、まさか……。
「比丘尼さまの腹を満たすため、俺も仕方なく野良猫狩りを手伝っているが、ここ最近騒ぎになってどうにもやり辛い」
明日香の死に続いて、猫の死体が巻かれていた事件にも御子柴が関わっていた……。
いろいろな事実が一気に流れ込んできて、理緒の心は押し潰されそうだ。
「発作が出たらこうやって鎮静剤をぶち込んで何とか抑えているが、そろそろ限界だな」
御子柴は慣れた手つきで比丘尼の首から注射器を引き抜くと、それを白衣のポケットにしまって溜息を吐いた。
薬を打ち込まれた比丘尼は、車椅子の上で俯いたままピクリとも動かない。言われなければ、生きているとは思わないだろう。
「比丘尼さまの状態は深刻だ。脳に入り込んだ菌は除去すればもとに戻るはずなんだが、身体がどんどん腐っていく限りイタチごっこでしかない。それに最近は、移植したばかりのパーツまで腐るようになった。これではキリがない。見た目も、ここ数週間で急激に老化している。つまり、もうパーツ交換というレベルでは済まない状況になっているんだ。身体ごと交換しない限り、比丘尼さまは復活できない。だから……」
御子柴の腕が伸びてきて、あっという間に理緒を捕らえる。
耳元で、甘い声がした。
「森澤。お前の身体をくれないか」
「嫌ですっ」
理緒は渾身の力で御子柴の腕を振りほどいた。だがすぐにまた、身体ごと引き寄せられる。
「特別授業で教えてやったただろう。ヒトの進化の極みであるその身体の、最も優れている部分は脳と眼だ。そこが本体と言ってもいい。……脳と眼。それさえ維持できれば、比丘尼さまはいくらでも命を繋ぎ、優れた能力を生かすことができる。そのために、比丘尼さまの本体を収めておく新しい『器』が必要なんだ。だから……お前の身体を提供してほしい」
「嫌っ! 離してください!」
理緒は必死にもがく。
だが御子柴の力は思いのほか強く、成す術がない。
「駄目だ、逃がさない。もう決めたんだ。これは俺だけの意志じゃない。見ろ、森澤」
御子柴は理緒を片手で拘束したまま、白衣のポケットから何か布のようなものを取り出して広げた。
その布には、赤黒いシミのようなものが広がっている。
「この間、森澤が怪我をしたときに応急処置で使ったハンカチだ。これには森澤の血液がついている。これを……」
御子柴の手からふわりとハンカチが離れた。薄い布はそのまま宙を舞い、車椅子の上で俯く比丘尼の膝に落ちる。
その瞬間、今まで微動だにしなかった比丘尼の身体がビクンと揺れた。
「――アァァア……アァア!」
比丘尼は雄叫びを上げながらハンカチを掴むと、それに顔を埋めた。口元はだらしなく緩み、幾筋もの涎が滴り落ちている。
「ほら。お前の血液の匂いに興奮している。比丘尼さまが血痕だけでこんなに喜ぶなんてかなり珍しい。森澤のことを相当気に入っているようだな」
比丘尼は瞳を閉じて理緒の血液が付いたハンカチに頬を摺り寄せると、再びガクリと頭を垂れて沈黙した。
あまりのおぞましさに、理緒はその場から逃げ出したくなった。
しかし、御子柴に押さえられているため、身動きが取れない。
「これで分かっただろう、森澤。お前ほど比丘尼さまの器に相応しい者はいない。お前なら安心して比丘尼様の『本体』を移すことができる。最近は若くても成人病の手前みたいな体質の奴がいるが、お前なら……お前なら安心だ」
「離して……!」
理緒は頭を振りながら拘束を解こうともがいた。御子柴はそんな理緒をさらに強く抱き締める。
「大切な比丘尼様の本体をしまっておく器だ。若くて、健康で……そして処女であれば尚いい。森澤理緒。お前ならまさにぴったりだろう?」
「嫌っ!」
必死に身体を捩っていたら、肘が御子柴の鳩尾に直撃した。御子柴は大きくよろけて倒れ込む。
その一瞬の隙をつき、理緒は部屋のドアを目指して身体を翻した。
「逃がさないと言っただろう?」
だが理緒の手がドアノブに降れる直前、御子柴が再びものすごい力で理緒を羽交い絞めにした。
白衣に包まれた片腕が、理緒の首に喰い込んでいく。
「離して! 離して!」
「いい加減に諦めろ。大丈夫だ。……すぐ済む」
御子柴は片方の腕で理緒を締め上げながら、もう片方の手を白衣のポケットに差し入れた。
再び外に出てきたその手には小さな注射器が握られている。先ほど比丘尼の首に打ち込まれたものだ。
「お前にもこれを打ってやろう。本当は寝ているうちに済ませるつもりだったが、コーヒーに入れた睡眠薬の量が少なかったようだな」
「嫌っ、やめて!」
「暴れるな。血管が見えない。これを打ち込んだらすぐ意識が遠くなる。……それで終わりだ」
「離して!」
理緒がそう叫んだのとほぼ同時だった。
破裂音のような音とともに、何かが部屋の中に転がり込んできた。
驚いて目を見開いた御子柴の手から注射器が吹き飛ぶ。
理緒は羽交い絞めにされながらも、息を呑んだ。
「黒崎……くん」
ドアを押し破るようにして部屋に入ってきたのは秋人だった。開け放された戸口から、室内へ冷たい風が吹いてくる。
暖炉の炎がその風に煽られて勢いよく燃え上がった。
理緒は一瞬、夢を見ているような気がした。目の前に、秋人がいることが信じられない。
「森澤さん……怪我はない?」
だがそこに立っているのは紛れもなく秋人だった。
学ラン姿の秋人は長い前髪を揺らし、肩で激しく息をしている。
「私は、大丈夫」
理緒は何度も頷いてみせた。
御子柴は吹き飛んで割れた注射器を見やると大きく舌打ちをした。そして理緒の拘束を強め、秋人を睨みつける。
「黒崎秋人。なぜお前がここにいる」
秋人は静かに答えた。
「……見たんだ。斎場の駐車場で、御子柴先生が森澤さんを抱えて車に乗せるところを」
「お前もあの場所に……葬儀に来ていたのか」
御子柴が驚愕の声を上げた。
理緒も少し驚いた。秋人は葬儀に顔を出していないと思っていたからだ。
「クラスメイトとの最後のお別れだから、僕も参列しようと思った。だけど……僕が行くと気分を悪くする人もいるから、建物の中に入るのはやめたんだ」
秋人はそう言って少し俯いた。
理緒は、自分の心の中が温かいもので満たされていくのを感じた。
まだ秋人のことを疑っている生徒は多い。普通ならただ立っているだけで針の筵のような気持ちだろう。
だが秋人はそれでも会場に来た。……明日香を悼むために。
「せめて外から見届けようと思って、僕は斎場の裏手にある駐車場に回った。ずっと車の陰にいたんだ。そこに二人が来た。……車に乗り込む瞬間、森澤さんは明らかに昏倒していて、様子がおかしいと思った」
御子柴は再び激しく舌打ちした。
「誰もいないと思ったが……よりにもよってお前に見られていたのか。とんだ手落ちだな」
「御子柴先生の車が去った方角を見ていたから、行き先はここじゃないかと見当はついたけど……徒歩だったし、この家の鍵を壊すのにも手間取って……遅くなった。ごめん」
秋人は理緒に向かってぺこりと頭を下げた。長い前髪がサラサラ揺れる。
なぜ秋人が謝っているのだろう。むしろ頭を下げてお礼するのは、助けに来てもらった理緒の方だ。
それに、こんな切羽詰ったときにそこまで律儀にしなくても……。
でも、嬉しい。
いろんな感情がごちゃまぜになり、少し力が抜けた。ついでに涙腺まで決壊しそうになる。
「……くくっ」
だが、せっかく温かくなった気持ちが、御子柴の笑い声で急速に冷めた。首に巻き付いた長い腕がビクビク震えている。
理緒が恐る恐る視線を横に向けると、御子柴は肩を震わせて忍び笑いをしていた。
「話はそれで終わりか。黒崎秋人」
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