第八章 正体3

 八百比丘尼、という言葉は理緒の記憶の片隅にも残っている。昔、図書館でそんな話を読んだことがあった。だがあくまでそれは昔話として心に留まっているだけだ。実在していたなんて、しかもまだこの世に生きているなんて……。

 キィと何かが軋む音がした。御子柴が車椅子の位置を直したようだ。

 車椅子の上の女性……比丘尼の頭が、先ほどより少しだけ左に傾いている。御子柴はそれを少し見つめたあと、再び話し出した。

「八百比丘尼の昔話はほとんどがフィクションだが、一部は真実を伝えている。昔話の中でヒトは八百比丘尼の長寿を畏れて差別した。実際、比丘尼さまは長い間ヒトから忌み嫌われてきたんだ。だから、迫害から逃れるために世間から隠れるようにして暮らさなくてはいけなかった。だがある者がその素晴らしい能力に気付き、彼女を保護したんだ。以降、代々に渡って彼女の身の回りの世話をしてきたのが、御子柴家……つまり俺の家系だ」

 そこまで言うと、御子柴の顔が少し曇った。

「ヒトは愚かだ。比丘尼さまに比べてはるかに下等な生き物であるにも関わらず、彼女をないがしろにした」

 御子柴は比丘尼の細い肩に手を置き、労わるように撫でる。そして口の端を上げ、理緒の方を向いた。

「御子柴家は比丘尼さまを敬い、代々保護してきた。その代わり、比丘尼さまは我々に恩恵を授けてくださったんだ。……さて森澤。比丘尼さまの恩恵とは、何のことだか分かるか」

 御子柴の口調は教壇に立っているときのそれと同じだった。だが、浮かんでいる笑みは不気味に歪んでいる。

 理緒は首を横に振りながら震える声で答えた。

「先生が何を言っているのか……全然、分かりません……」

 御子柴は歪んだ笑みを浮かべたまま大袈裟に溜息を吐いた。

「おいおい、俺はさっき比丘尼さまのことを『素晴らしい進化を遂げた奇跡のような存在』だと言っただろう。ヒトの進化について、この間特別授業をしてやったばかりじゃないか。もう忘れたのか」

 少し特別授業をしてもいいか――御子柴がそう言ったのを理緒は覚えている。

あのとき聞いた内容のいくつかが、心の中に浮かんでは消えていく。

 御子柴はカッと目を見開くと、両手を広げた。

「俺は偉大な能力の根源を探るため、比丘尼さまの遺伝子を密かに詳しく分析した。そして感動したよ。比丘尼さまは遺伝子重複によって膨大な量のゲノムを得た、特別な存在だったんだ。ヒトより格段に多い遺伝子は形を変え、新たな能力を付加した。俺たちのような普通のヒトが到底及ばないような力だ。比丘尼さまの奇跡は長寿だけに留まらない。進化の真骨頂は、眼と脳だ」

 御子柴の長い指が、自分の目と頭を指し示した。

「比丘尼さまに比べたら、俺たちヒトの『ここ』はゴミだ。比丘尼さまの眼はヒトが見えないものを捉え、その脳は天文学的な処理能力を持つ。すべてにおいて、未知の領域にあると言っていい。未知の領域にある智慧――これこそがまさに比丘尼さまの恩恵だ。比丘尼さまは、ヒトの進化の先にいるこの世の奇跡なんだ!」

 どん、と鈍い音を立てて御子柴は己の拳を傍らの壁に叩き込んだ。興奮しきったように肩ではぁはぁと息を吐いている。

 異様そのものだった。こんな御子柴の姿を、今まで見たことがない。

 気が付くと、理緒の足は震えていた。恐怖で身体から力が抜けそうになるのを、必死に堪える。

「ここまで詳しいことが分かったのは、現代科学が発展して御子柴家が独自に比丘尼さまの身体を調べてからだが、御子柴家の先祖は直感的に比丘尼さまの力が素晴らしいことに気付き、手厚く保護した。結果、比丘尼さまがもたらす恩恵は、御子柴家だけのものになった。御子柴家はそれで名声や富を築いてきたんだ。……だが今までにその恩恵を生かしきれた奴はいなかったようだな。特に俺の親父は最低だった」

「御子柴先生の、お父さま……?」

「父親と呼ぶのも憚られるような下賤な奴だ。あいつは比丘尼さまの能力を、株式投資のような下らないギャンブルに使った。比丘尼さまにデータを提示して、今後価値の上がる銘柄を予想をさせたんだ。当然、予想は的中したよ。あいつはそうやって小金を稼いだが、病気にかかってあっけなく死んだ。比丘尼さまを舐めすぎた罰だと俺は思う」

「そんな……」

 父親のことを「あいつ」と呼ぶ御子柴の顔は驚くほど冷淡だった。彼はさらに、吐き捨てるように言い放つ。

「あいつは本物の父親じゃない。俺は比丘尼さまの世話をするために迎え入れられた養子だ。そもそも養父は生涯独身だった。その養父が病死したあと、周りの連中は比丘尼さまを俺の母親と勘違いしたが、特に不都合はないのでそのまま通している。ちなみに、俺の旧姓は瀬田だ」

 その話を聞いても、理緒は納得できなかった。

 たとえ養父であってもこれほど冷淡になれるものなのだろうか。御子柴の言葉の中に、いつも理緒や他の生徒たちが感じていた優しさや温かさはまるでない。

 ……それとも、これが御子柴の本性なのだろうか。この冷酷な表情が、本当の顔だったのだろうか。

「俺は養父のような下らないことに比丘尼さまの能力を使いたくなかった。だから比丘尼さまと一緒に、人類の進化を解き明かす研究を始めたんだ。私利私欲のためじゃない。御子柴家で独り占めすることもない。人類のためになることにその力を使おうと思った。殊勝な心がけだろう?」

 御子柴は車椅子に顔を近づけ、うっとりとした目つきで比丘尼の顔に見入る。

 先ほどまで冷淡だったその表情が、すっかり熱を帯びていた。

「比丘尼さまの指示のもと俺が大学で実験を行い、そのデータを持ち帰って比丘尼さまが考察を進める……この方法で、ヒトの進化の研究は目覚ましい発展を遂げた。比丘尼さまを表に出すわけにはいかないから研究者として残っているのは俺の名前だけだが、二人三脚で進めた研究は、あともう少しで結論が出るところまで行っていたんだ。そう……あと少しで進化の全貌が明らかになるはずだった。だが……そこでちょっとしたトラブルが発生した」

 キィ……と車椅子を揺らして、御子柴は僅かに歯噛みした。

「比丘尼さまの能力は素晴らしいが、さすがに千七百年もの間外気に晒されているとあちこちに衰えが出てくる。時間がゆっくり進むだけで、全く歳を取らないわけじゃないからな。しだいに老化に耐えられなくなって……比丘尼さまの身体は腐食しはじめた。能力も弱まっていき、ここ十年は寝たきりだ。比丘尼さまの力がなければ、研究は進まない。俺は仕方なく研究所を辞め、ここに戻って比丘尼さまをケアすることにした」

 御子柴が研究を辞めてここに戻ってきた真の理由……それをこんな形で知ることになるとは思わなかった。

 そもそも、御子柴の研究は彼だけのものではなかったのだ。

 おそらく輝かしい経歴のほとんどは、比丘尼の人知を超えた能力をもって成し遂げられたものなのだろう。

「俺は比丘尼さまの身体能力を回復させ、再び研究に戻ることを望んでいた。だが、衰えはますます深刻になった。あるときとうとう、腐った腕が根元から完全に爛れ落ちた」

「腕が……?」

 理緒は思わず自分の腕をさすった。そこが腐って爛れ落ちる腕を想像して、気分が悪くなる。


「だが俺は諦めなかった。比丘尼様の身体を元に戻すため、策を講じることにしたんだ。……腐ったパーツは、交換してしまえばいい。簡単だろう?」


 御子柴は涼しげな顔で言い放った。

 まるで玩具の話をしているような口ぶりだった。言い表せないほどの不快感が、理緒の背中を駆けけ抜けていく。

「『パーツ交換』の際も、俺は比丘尼さまの類い稀なる能力を目の当たりにすることになったよ。比丘尼さまの身体は、生きることに貪欲なんだ。傷口はすぐに塞がり、そして他者の細胞を取り込んでも過剰な免疫反応を起こさずに自己の細胞に変えてしまう……これがどういう事だか分かるか。どんなにすごい事か分かるか、森澤!」

 暖炉の中では相変わらず火が燃え盛っている。

 炎が、御子柴をゆらゆらと照らしていた。その頬は興奮で上気し、血走った瞳はまっすぐ理緒を捉えている。

「比丘尼さまの身体は、他者からの移植をたやすく受けることができる。腕だろうが足だろうが、どこでも他人のパーツを繋げることができるんだ。しかもその方法はいたってシンプル。移植する部位の切断面同士をくっつけて固定してやるだけでいい。これも、遺伝子重複によって比丘尼さまが獲得した新しい能力だ。まあ多少は処置に医療的知識が必要だが、ここは病院の跡地で器具の類は豊富にあるし、これでも俺は医学部を出ているからな。驚くほど簡単に比丘尼さまの腕は新しくなった。信じられないだろう? だが真実だ。比丘尼さまの身体は、まさに完璧なんだ」

 御子柴は車椅子の上で虚ろな目をしている比丘尼の腕をそっとさすった。長袖の寝間着に覆われてはいるが、確かにそこに腕はある。


 だが、この腕は一体――一体、誰の腕なのだろう。


 理緒の目は比丘尼とその身体から生えている二本の腕に釘付けになった。嫌な予感が胸に込み上げてくる。

「俺はたびたびその方法で比丘尼さまの身体を五体満足に保ってきた。腐った部分があれば、別の誰かのパーツを切り取ってきて繋げるんだ」

「切り取って……繋げる……?」

 理緒が絞り出すようにそう聞くと、御子柴は口の端を吊り上げておぞましい笑みを浮かべた。


「ああそうだ。腕が爛れ落ちた時は他人の腕を切ってきて繋げた。耳がもげれば耳を。そして……足が腐れば足を」


 脚を切り取られた死体。

 理緒はある結論に辿り着き、戦慄した。


「まさか……まさか御子柴先生……」

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