第八章 正体2

 ドアの隙間から微かに光が漏れていた。

 御子柴は片手で理緒の手首を掴んだまま、もう片方の手でそのドアを勢いよく押し開ける。

 抵抗する間もなく背中を押され、理緒はもつれるようにして室内へ足を踏み入れた。

 部屋に入ってまず気が付いたのは、赤く光る炎だ。

 室内に暖炉があり、そこで火が燃えていた。天井の照明は小さいが、炎が補助しているお陰で、室内はそこそこの明るさを保っている。

 部屋は十畳ほどの広さだった。真ん中を陣取っているのは大きなベッドだ。介護用だろうか。金属製の柵がついている。

 そのベッドの傍らに、車椅子が後ろ向きで置かれていた。

 理緒はそちらを凝視して、ハッと息を呑む。椅子の背もたれごしに人の頭が見えたのだ。

 誰かいる……そう思った瞬間、御子柴が口を開いた。

「少し室温が高いか。まあ、勘弁してくれ。彼女はとても、寒がりなんだ」

「彼女……?」

「喜べ森澤。お待ちかねの対面だ」

 御子柴の手によって、後ろを向いていた車椅子がゆっくり回転していく。

 座っていたのは小柄な女性だった。

 もうかなりの年齢のようだ。髪は真っ白でひどく痩せており、顔には深い皺がいくつも刻まれている。

 纏っているのは上品な花柄の寝間着だった。身なりは一応きちんとしているが、表情は虚ろで身体はぐったりと弛緩しており、まるで車椅子の上に人形が置かれているように見える。

「森澤。彼女がこの家のもう一人の主だ。近づいて顔を見せてやってくれ」

 御子柴は微笑みながらそう言った。

 だが理緒は、あまりに生気せいきが感じられない主に、近づくことすらできない。

「自己紹介をしてやれ、森澤」

 しびれを切らしたのか、御子柴がつかつかと歩み寄ってきた。そしてそのまま、理緒を半分抱き締めるような形で拘束する。

「どうした森澤。いつもみたいにきちんと挨拶してくれよ。お前ならできるだろう」

 御子柴の声が耳朶を掠める。

 いくらなんでもおかしい。距離が近すぎる。

「先生……これは……」

「緊張しているのか。なら仕方ない。俺が紹介してやろう」

 たじろぐ理緒をよそに、御子柴はわざとらしいほど明るい声を出した。

 話しかけている相手は、車椅子の上の人物だ。


「ご紹介します。ここにいる彼女が、森澤理緒です。お話ししてあったでしょう。――あなたに新しい身体を提供してくれる人ですよ」


「え……?」

 一瞬、意味が理解できなかった。

 そんな理緒の様子を察知して、御子柴は一度ふっと息を吐く。


「森澤は、あなたの代わりに死んでくれるそうです」


 死、という言葉が、あまりにもあっけなく飛び出した。

 理緒は咄嗟に御子柴の腕を振り払い、一歩身を引く。

「な……にを、言ってるんですか、御子柴先生……」

 御子柴は理緒を悪びれた様子もなく見つめた。

「そうか、森澤にとっては突然の話だったな。すまない。お前には話を聞く権利がある。順を追って話してやろう」

 整った顔に歪んだ笑みが浮かんでいる。目が、まるで何かに取り憑かれたかのようにぎらぎらしていた。

 御子柴はそんな目で理緒を見据えながら、車椅子の側へ回る。

「森澤に聞こう。ここに座っている彼女……。年齢は、何歳くらいだと思う」

 理緒は恐る恐る車椅子に座る女性を見つめた。かなりの年齢に見えるが、具体的に問われると見当がつかない。

 考え込んでいる理緒に向かって、御子柴はあっさりと言い放った。

「まあ少なく見積もって、千七百歳、と言ったところだろうな」

「……!」

 途方もない数字に、理緒の身体が一瞬硬直した。

 御子柴の口から「くくっ」と笑い声が漏れる。

「荒唐無稽な話に聞こえるか。だが年齢の鑑定には現代のいろいろな技術を用いた。間違いない。彼女は類稀なる長寿を成し遂げている。素晴らしい進化を遂げた、奇跡のような存在なんだ」

 千七百歳。奇跡……。

 どの言葉も、頭の中にすんなり入ってこなかった。

 御子柴はそんな理緒の反応を楽しむように、余裕の笑みをたたえている。

「生物教師が言っていることが信じられないなら、別のアプローチで説明してやろう。不老長寿の女性の記録は、日本の古い文献にいくつも残されている。八百比丘尼やおびくに、もしくは白比丘尼しろびくに……。そういう単語を、森澤は聞いたことはないか?」

 理緒が黙っていると、御子柴は一人で先を続けた。

「その昔、誤って人魚の肉を食べ、不老長寿を手に入れた女性がいた。女性は尼僧になり、その後八百年以上の時を生きた。人々は彼女を八百比丘尼と呼んだ。……こんな話が日本のあちこちに残っている。この話のモデルは間違いなく、ここにいる彼女だ。あちこちに尾鰭がついて今は完全にお伽噺になっているが、八百比丘尼は実在したんだ。そして、まだこうして生きている」

 車椅子の上で、枯れ木のような身体が僅かに動いた。

 そう。生きているのだ。彼女は。

「俺は彼女のことを、敬意をこめて比丘尼びくにさま、と呼んでいる」

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