第八章 正体1
――殺し……れか……ころして……やく……。
ずるっ……。ずるっ……。
――……やく……殺して……。
ずるずるっ……ずるっ。
――誰か早く、わたしを殺して!
理緒は目を開けた。
しばらく頭がぼんやりしたが、やがて自分が何か柔らかいものの上に寝ている状態だと気付く。
身を起こしてあたりを見回すと、そこは薄暗い空間だった。どうやら大きなソファーの上に寝ていたようだ。
下半身には薄いグレーのコートがかけられている。ここはどこだろう。なぜここにいるのだろう。
今日は授業のあと、明日香ちゃんの葬儀に出て、そのあとは……。
順を追って考えていたら頭に軽い痛みを覚えた。
まだ意識がぼんやりとしている。それに、目を開ける直前、悲痛な声を聞いたような気がして気になる。
声の主は、確かこう言っていた。
『誰か早く、わたしを殺して!』
そのとき、カシャンと何かが床に落ちる音がした。
咄嗟に振り向くと、そこにいたのは……。
「御子柴先生?」
白衣姿の御子柴だ。理緒の方を少し驚いた顔で見つめ、それから足元に落ちた何かを慌てて拾い上げてポケットにしまう。
「御子柴先生、あの……」
理緒がもう一度名前を呼ぶと、御子柴は顔を顰めて呟いた。
「……何でこんなにすぐ……量が足りなかったか……」
「え?」
「いや、何でもない。目が覚めたんだな、森澤」
御子柴はすぐに笑顔を浮かべて、理緒のもとへ歩み寄ってきた。
「私、何でこんなところで寝ていたんでしょうか? 確かさっきまで先生と一緒に……」
「コーヒーを飲んだあと、森澤は眠ってしまったんだ。車で送ろうと思ったんだが、お前の家がどこにあったか覚えていなくてな。あんまりよく寝ていたから起こすのも忍びなくて、俺の家に連れてきた」
「……ここ、先生のお
理緒は改めてあたりを見回した。
天井にあるメインの灯りは落とされているが、間接照明がついているので部屋の中が見渡せる。
この部屋は御子柴家のリビングのようだった。とても広くて、落ち着いている。
「迷惑をかけてすみません。どうして私……急に寝ちゃったんだろう」
どうにも記憶がはっきりしない。が、車の中からここまで運んでもらったことは事実らしい。
理緒は下半身を覆っていたグレーのコートを外すと、それを軽く畳んでソファーの背もたれにかけ、床に足を下ろした。そこに自分の通学用のローファーが置いてあり、そっと足を差し入れる。
ちらりと御子柴の足元を窺うと、彼も革靴を履いていた。どうやら御子柴家は靴を履いたまま上がるようになっているらしい。
「森澤が寝ていたのは数十分程度だ。いろいろあったから疲れたんだろう。無理もない。身体は大丈夫か」
御子柴はソファーに腰かけている理緒を見下ろした。
理緒はこめかみに指を当てた。なぜだか分からないが微かにそこに痛みがあり、若干ぼーっとした感じがする。
だが、別にたいしたことはなさそうだ。
「はい。大丈夫です」
理緒がそう言って頷いたとき、どこかからか、ボーン、ボーンという物悲しい音が響いてきた。
時計の音だ。
理緒は咄嗟に自分の腕時計に目を落とした。文字盤を間接照明の光に向けると、針がちょうど九時を指しているのが判別できる。
「もう、こんな時間なんですね」
普段ならとうに帰宅している時間だった。今日は明日香の葬儀があるので遅くなると母親に伝えてあるが、さすがにそろそろ帰らないと心配するだろう。
「私、帰ります」
理緒はゆっくり立ち上がった。しかし、御子柴が理緒の両腕を掴んで動きを制する。
「森澤、少しだけ待ってくれないか」
御子柴は理緒の身体を引き寄せて、まっすぐ顔を覗き込んだ。そのやや血走った眼差しに、理緒は息を呑む。
「会ってほしい人がいる。……この家の、もう一人の
「もう一人の……あ……」
御子柴が誰のことを指しているかすぐに分かった。
この家にはもう一人、住民がいるはずなのだ。御子柴が介護をしている、彼の母親が。
「彼女が、森澤に一目会いたいと言っている。望みを叶えてやってくれないか」
御子柴はあくまでもお願いの体を保っている。
だが理緒の両腕を掴む手には必要以上に力がこもっていて、なんだか異様な迫力があった。
「なあ、森澤。会ってやってくれ。……すぐに済むから」
両腕をさらに強く掴まれ、理緒はとうとう頷いた。
その途端、御子柴の口角が歪むように跳ね上がる。
「よし。じゃあ、こっちへ来い」
御子柴は理緒の両腕を解放し、今度は左の手首を掴んだ。そのまま力任せに引っ張るようにして歩き始める。
「……先生、あのっ……」
思いきり手を引かれ、前につんのめりそうになりながら、理緒は御子柴のあとに続いた。
最初にいたリビングを出ると、幅が広くて長い廊下が続いていた。両端にはいくつもの部屋が並んでいる。
リビング同様、廊下もメインの照明は消えていて、ところどころに小さな間接照明がついていた。ざっと見ただけで相当広い建物であることが分かる。
手を引かれながら、理緒はここが医院の跡地であることを思い出した。
そうこうしているうちに御子柴は廊下をどんどん進み、二人は突き当たりにある階段に差しかかる。
階段は上下に伸びていた。一方は二階、もう一方は地下へと続いているようだ。
御子柴は理緒の手首を掴んだまま、階段を下り始めた。
「大きな建物ですね。地下があるんですか?」
理緒はきょろきょろあたりを見回しながら聞いた。廊下もそうだったが、階段も普通の家とは比べ物にならないほど幅が広い。
御子柴は理緒に背を向けたまま答えた。
「ここはもともと小さな病院だった。基礎を高くした上に建ててあるから、階段を下りた先は完全なる地下じゃなくて半地下ということになる。だが半分だけでも地面に埋まっている空間は静かでいいぞ。外からの音が聞こえなくなる。……そして内から出る音も、漏れにくい」
理緒の位置からは白衣の背中しか見えず、御子柴の表情は分からない。御子柴は理緒の手首をきつく掴んだまま、すたすたと階段を降りていく。
半地下の空間は上ほど広くはないようだった。階段に続く形で廊下が数メートル延びており、突き当りに二つドアが並んでいる。
そのうち一つのドアの前まで来ると、御子柴の足はそこでピタリと止まった。
「着いたぞ森澤。この部屋に――彼女がいる」
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