幕間三 悠久ノ檻3


 ヤエとリンは村を見下ろす山の中に逃げ込んだ。

 瀬田はすぐさま応援を呼んだようだ。獣道はたちまち、リンの名前を呼びながら走り回る男たちで溢れた。

 ヤエとリンは藪の中に身を伏せて、追手をやり過ごさなければならなかった。

 数回の日没と数回の日の出を経て、やがて二人は山の一番奥にある洞窟まで辿り着いた。洞窟の入り口には大きな樹が立ちはだかっていて身を隠すには丁度良さそうだった。ヤエとリンはそこに入り込み、息を潜めて過ごすことにした。

 洞窟は雨と風から二人を護ってくれたが、中はじめじめとしていて暗く、黴臭い空気に満ちていた。山には冬が迫っており、夜は特に冷えた。火を焚けば温かくなるのは分かっていたが、焚火をすればそれが狼煙になり、役人に見つかってしまうかもしれない。寒さが襲ってくると、二人は互いに身を寄せ合って震えた。

 今年の長雨は、村の田畑だけでなく山にも影響を及ぼしていた。山はどこもかしこも雨で地面がやせ細り、食べられる植物が殆ど生えていない状態だった。着の身着のままで逃げ出してきたリンとヤエにとって、使える道具と言えば、山道の途中で拾った小さな鎌だけだった。猟師が道を切り開くのに使ったのだろうか。ポツンと忘れ去られていたのをリンが見つけて拾ったものだ。この鎌で岩に張り付く僅かなキノコや苔を削り取り、二人で分け合って食べた。

 魚や小動物などの獲物がいればリンの目の良さを生かして仕留められるのだが、山を流れる川の付近は追手の数が多く、夜中に彼らの目を盗んで水を汲みに行くだけで精一杯だった。痩せた冬の山には小動物さえ滅多にいない。もはやそこは生き物の息吹が消えうせた死の砦と言ってもいい場所だった。

 ヤエとリンは洞窟の中で十日ほど身を寄せ合って過ごしたが、追手の数は一向に減らなかった。食べられるものと言えば、少しの菌類の他には、たまに目の前をフラフラと通り掛かる痩せた鼠程度だった。しかも火は使えないので、絞め殺したあとそれを生のまま口にするしかない。

 二人は次第に痩せ衰え、気力も落ちていった。

 ある夜、リンは傍らで落ち窪んだ目をしているヤエに、そっと言った。

「おっ母。お役人さまに追われているのはあたしだけ。だからおっ母だけでも山を下りてちょうだい。あたしは一人で大丈夫」

 するとヤエは青白い顔に懸命に微笑みを乗せて、首を横に振った。

「私一人で山を下りてもどうせ村には帰れない。お役人に逆らったのだから見つかれば首を跳ねられてしまうよ。それにね、おっ父はリンを私に託してくれた。おっ父のためにも、いまお前の傍を離れるわけにはいかない」

 ヤエはそう言って、採ってきたばかりの僅かな茸を全てリンの手に握らせた。

 その日からしばらく雨が続いた。

 雨のせいで食べられる植物は土ごと流され、動物もパタリと姿を見せなくなった。二人はますます衰弱していった。洞窟の中はどこかから漏れてきた雨水で水浸しとなり、体温さえ奪っていく。リンはヤエと二人並んで洞窟の隅で壁に凭れていた。時折隣に座るヤエの身体がガクリと前のめりになる。

 飢えと寒さは絶え間なく二人に襲い掛かった。だが、リンの頭は不思議と冴えていた。

 リンは自分の頭の中がものすごい速さで回転しているような気がした。まるで何かの衝動が脳髄を突き動かしているような……。

 ――かの国では長寿の妙薬として人間の臓物を用いる。

 その閃きは雷光のようにリンの脳天を直撃した。リンは隣で項垂れているヤエの身体を揺すると、傍らに転がっていた鎌をその手に握らせた。

「ねえおっ母。この鎌で、あたしの肉を削いで食べて」

「何を言っているの、リン!」

 ヤエは咄嗟に鎌を取り落とすと、目を見開いて悲壮な声を出した。しかしリンはもう一度鎌を握らせて言った。

「おっ母はあたしに食べ物を全部くれた。そろそろおっ母が何か食べないと死んでしまう。だから食べて。あたしの身体のどこでもいいから、鎌で切り取って食べて」

 臓物は無理でも、表面の肉なら簡単に食べられる。リンはやせ衰えて倒れそうなヤエを、懇願するような眼差しで見つめた。

「そんなことできるはずがないよ。リンの身体を鎌で切るなんて、そんなことはできない」

 鎌を放り出して必死に首を振るヤエに、リンはなおも取り縋った。

「あたしは大丈夫。おっ母も見たでしょう。あたしの身体は切ってもすぐに治ってしまうの。あたしは普通の子じゃないの。あたしは化け物なの。だから……」

「リン」

 ヤエの鋭い声がリンを制した。

 リンの背中にヤエの細い腕が回る。ヤエはリンを一度強く抱きしめると、微笑んだ。

「リン。お前は確かに私が生んだ子じゃない。だけど、一緒に暮らせて本当に良かったと思っているんだよ。こんなに優しい子がバケモノだなんて、そんなことがあるわけない。リンは大事な大事な私の娘……」

「おっ母……」

「大事な娘を傷つけるわけには行かない。むしろお前を護るのは、母親の私だよ」

 そう言うと、ヤエはリンを軽く突き飛ばした。その手にはいつの間にか鎌が握られていた。突き飛ばされて転んだリンが起き上がる前に、ヤエは鎌の刃を自分の太腿に思い切り振り下ろした。真っ赤な血が洞窟の壁に飛び散る。

「おっ母!」

 その場に倒れこんだヤエを、リンは慌てて抱き起こそうとした。だがリンも衰弱しており、上半身さえ支えられない。

「おっ母、おっ母! どうしてこんなこと……」

「リン……」

 ヤエは泣き叫ぶリンの手に何か暖かいものを押し付けた。それはたった今、ヤエの足から切り離されたばかりの小さな肉の塊だった。

「お食べ、リン」

「いや! おっ母の足、切れてるもの! 包帯を巻かなきゃ……」

 ヤエは血が滴る太腿を手で覆いながら、苦痛の入り混じった笑みを浮かべた。

「ほんの少し切っただけだから大丈夫だよ。リン、お前は魚が好きだっただろう。魚だと思って、それをお食べ」

 リンの手の平に血溜まりができていた。その中に小さな肉片が埋もれている。肉片は切り取られたばかりで、断面はまだ瑞々しい。

 リンは、心の中で何かが弾けるのを感じた。目は肉片の瑞々しさを余すところなく捉え続け、飢えた身体がそれに呼応するように内臓を突き動かす。口の中は唾液に満たされ、すぐに外に溢れ出てきた。

「リン。食べていいんだよ。お食べ」

 ヤエのその言葉が終わらないうちに、リンは手の平に乗っているものを残らず口へ入れていた。一度咀嚼してしまうと、あとは止められなかった。

 リンは肉をあっという間に食べ尽し、手についたヤエの血を残らず舐めとっていた。

 ヤエは血塗れの身体で震えながら、そっとリンの頭を撫でる。

「いいんだよ。それでいいんだよ、リン」

 その後も断続的に雨は降り続いた。

 ヤエは自分の着物を少し裂き、それで猿轡をしながら、日に一度は自分の身体を切りつけた。脚を削ぎ腹を削ぎ、尻の肉を切り取る。

 リンは「魚だよ」と言って渡されるその肉を残らず食べた。血に塗れるヤエの姿を見ながらも、リンの頭は肉の濃厚な味わいで満たされていた。身体の底から湧いてくる食への衝動を抑えることができなかったのだ。

 次第にヤエの身体は肉を取れる部分がなくなっていった。初めに削いだ太腿は傷口が腐って蛆が湧き始めた。

 やがて、ヤエは自分のあばらの肉を一欠リンに片食べさせると、とうとうその場に倒れ込んだ。

「おっ母!」

 ヤエは仰向けに身体を横たえたままリンの顔を見つめた。

「リン。今からお前に大事な話がある。これから私が言うことを、守ってくれるかい?」

「うん。あたしがんばる」

「よしよし。いい子だね、リン」

 身体は血塗れなのに、ヤエの顔は不思議なほど穏やかだった。リンはヤエの話が聞こえやすいように口元に顔を近づけた。

「百姓のカンだけどね、この雲行きだとあと数日したらもっと雨が強く降ってくる。そうしたら氾濫を恐れて、お役人は川の傍から逃げ出すはずだ。だけど、ここの山を流れる川が氾濫するのは、決まって大雨が止んだあとなんだよ。雨が降っているあいだは大丈夫。川の傍からお役人がいなくなったら、川沿いに山を降りて、どこかへ逃げなさい」

「……おっ母はどうするの?」

 ヤエの手がリンの頬にそっと触れた。先ほど肋骨に沿って肉を削ぎ落としたばかりで、その手の平はしっとりと血で濡れている。

「リン。私はもう自分で自分の肉を切ることができないの。あとはお前が自分でおやり。肉を食べて、力を蓄えて、雨が強く降るのを待つんだよ」

 ヤエはそう言って、血で錆びた鎌をリンの手に握らせた。

「おっ母……」

「リン、私の娘になってくれてありがとうね……」

 それがヤエの発した最期の言葉だった。

 雨は降り続いた。リンはヤエの言いつけ通り、洞窟の中で雨の音が強くなるのをじっと待った。腹が減ると傍らにあるヤエの身体を少しずつ削いで口に入れた。ヤエの肉を噛み砕きながら、リンはひたすら頭で念じていた。


 ――これは魚だ。これは魚なんだ。あたしは魚を食べている……。

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