幕間三 悠久ノ檻1







 その生命体がこの世に生まれ出て、一番初めに認識した己の名前はリンだった。

 もしかしたらそれ以前に別の名前を付けてもらっていたのかもしれないが、覚えていない。随分長い時を、薄ぼんやりとした中で過ごしていたように思う。

 そのぼんやりとした期間は『赤ん坊』と呼ばれる時期であったと、のちにリンは知った。

 赤ん坊のリンを世話するのはもちろん大人の役目だった。だが、その大人たちがしわくちゃになっても、リンはまだ赤ん坊のままだった。

 何人もの大人がリンの前に現れては、年老いて朽ち果ててゆく。

 立って歩ける大きさになるまでに、どこかから飛んできた種子が大樹になるのと同じだけの時間がかかった。

 さらに長い長い時を経てリンが歩けるようになったとき、傍にあったのは山と川と海だった。人々が通る道は土で固められただけで、みなは牛や馬を使って田畑を耕して暮らしていた。

 リンの周りの大人たちは、相変わらずすぐに年老いた。リンと同じ年頃だった者たちもそれに続いた。リンより後に生まれた赤子も、リンを追い越して先にこの世を去っていく。

 世話をしてくれる者が誰もいなくなると、リンは歩いて別の村へ行った。一人でうろつく子供を見ると、誰かが手を差し伸べてくれるのだ。誰もいないときは、寺に行けば住職が面倒を見てくれる。

 そういう生活を長い間続けた。どのくらい続けたかは定かではない。リンは物心ついてから自分の年を毎年数えていたが、二百を過ぎたところで数えるのをやめていた。そもそもこの二百という数字も、正しいかどうか分からない。

 あるとき、リンは寂れた村で百姓夫婦の娘として暮らしていた。

 リンを育てていたのは、与吉よきちとヤエという夫婦だ。子供に恵まれなかった与吉夫婦は、一人で路頭に迷っていたリンを引き取った。

 暮らし向きは貧しかったが、夫婦はリンを本当の娘のように可愛がり、リンも二人によく懐いた。そのころリンは少しだけ成長して十歳程度の娘になっていたので、大人と同じくらい働くことができた。

 昼間は与吉の畑仕事を手伝い、夜はヤエに針仕事を習う。

 リンの身体はとても丈夫だった。怪我をしたり風邪を引いたりしてもすぐに治る。物覚えもよく、一度教わったことは絶対に忘れなかった。

 さらに周りを驚かせたのは、リンの目のよさだ。

 リンは飛んでいる蠅や、川の中ですばしこく泳ぐ魚を簡単に捕まえた。「なぜリンはそんなに魚を採るのが上手いんだ」と誰かが尋ねると、リンはこう答えた。


「魚がどんなに早く泳いでいても、あたしには止まって見えるの」


 それに加えて、リンはちっとも年を取らない。

 与吉夫婦はリンがいつまでも子供のままなのを幾分不思議に思っていたが、丈夫ならそれでいいと思い、何も言わなかった。

 夫婦にとって、リンはいつまでもかわいい我が子だった。与吉とヤエは自分たちの着物を解いてリンの新しい着物を仕立て、リンの茶碗に一番多くの飯を盛った。

 リンが過ごした膨大な時の中で、与吉夫婦と過ごした期間はほんの僅かでしかない。

 だが悠久の年月を重ねた今でも、このときが一番幸せだったと思う。



 与吉夫婦のもとに来てから十数年過ぎたある日、夫婦とリンが住む粗末な小屋に、立派な着物を着た役人とそのお付きの者たちが突然押しかけてきた。

 役人は瀬田せたと名乗り、領主の使いだと告げた。

 与作はそれを聞いた途端震え上がった。

 折りしもその年は長雨が続き、与吉の畑は土を流され、作物がほとんど採れなかったのだ。

 当然、定められた年貢を納めることができないでいた。このあたり一帯を束ねる領主は、冷酷非道を極める悪漢で名が通った人物である。不作であろうが何だろうが、情けをかけてくれることなどない。

 年貢を納めない百姓には、容赦ない罰が待っている。

 与吉は瀬田が自分を引っ立てに来たのだと思い、粗末な家のみすぼらしい土間で平身低頭命乞いをした。その横で妻のヤエと娘のリンも同じように地面に頭をこすりつける。

 瀬田はそんな三人の前に立ちはだかった。

 そしてニヤリと笑うと、与吉の手を踏み付けながら言った。

「年貢を納めない不届き物は、通常ならこの義で首を跳ねる決まりになっている。だが領主さまは、代わりのものを差し出せば見逃すと言っておられる」

「代わりのもの……?」

 与吉は恐る恐る顔を上げた。ヤエとリンもあとに続く。

 瀬田は冷酷な笑みを浮かべながら三人の顔を順番に眺め回した。

「聞くところによると、お前の娘は本当の娘ではないそうだな」

 すると、与吉がすかさず答えた。

「はい。……ですがおれたちはリンを我が子として……」

「黙れ!」

 どん、と土間の土を踏み鳴らし、瀬田が与吉の言葉を遮る。

 与吉は咄嗟に肩を竦めた。その後ろで、ヤエがリンを護るようにその小さな頭を掻き抱く。

 瀬田は仁王立ちになり、冷たい視線を三人に向けた。

「説明しなくてよい。調べはついているのだ。そのリンという娘は、十数年前にこの村で行き倒れていたのをお前たち夫婦に拾われたんだろう。だがその娘の素性はすこぶる怪しい。他の者に聞いたところによると、拾ったあと全く歳を取っていないそうだな。村の者は――まるで化け物のようだと言っている」

「リンは化け物なんかじゃありません!」

 ヤエがリンの頭を胸に抱きしめたまま声を荒げた。

「百姓風情が役人に口答えとは命知らずな。……ならば面白い話をしよう」

 瀬田はニヤニヤと笑いながら懐に手を入れると、一枚の紙を取り出した。

 そこには誰が見てもリンだと分かる娘の顔が描かれている。

「かねてより領主様のもとに、歳を取らない化け物のような娘がいるという訴えが届いていたのだ。その娘の素性を調べるため、我々はこの書き付けを持って近隣の村々を訪ねて回った。その結果、娘はこの村に来る前、五里ほど離れた別の村にいたことが分かった。その村の老人たちに詳しく話を聞いたところ、リンはその村で寺の手伝いをしながら三十年もの年月を過ごしたそうだ。……そしてその間、全く歳を取っていなかった」

 与吉とヤエがハッと息を呑んだ。

 リンはヤエに抱き締められたまま少しも動くことができなかった。

 瀬田は紙を再び懐にしまうと、勝ち誇ったような顔をする。


「これが化け物でなくて何だと言うのだ。リンは不老――歳を取らぬ化け物だ!」

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