第七章 後悔2

 逃げ出してごめんなさい。少しでも疑ってごめんなさい。

 それから、送ってくれてありがとう。

 心の中で何度も呟いた言葉を口にする代わりに、深い溜息を吐いた。もう十一月だ。時刻は夕方に迫っており、吐き出した息が白くなっている。

 その余韻が消えたころ、背後から背中を叩かれた。

「森澤」

 あまりに唐突だったので、理緒は一瞬びくっと固まってしまった。

「……悪い、驚かせたか?」

 ゆっくり振り向くと、優しい顔立ちが目に飛び込んできた。

 理緒は硬直を一気に解いて微笑む。

「御子柴先生……」

 今日の御子柴はいつものラフな格好ではなく、黒いスーツ姿だった。上には暖かそうなグレーのコートを羽織っている。モノトーンの色合いが、場に相応しい悲しみを引き立てている。

「森澤も葬儀に来ていたのか」

「はい……。明日香ちゃんはクラスメイト……だったので」

 過去形で言わなければならないのが悲しかった。

 御子柴が、理緒の肩にそっと手を置いて囁く。

「いろいろと大変だったな。気疲れしただろう」

 抑え気味の声に気遣いを感じて、涙が出そうになった。

 御子柴はそんな理緒の顔を覗き込み、ふっと微笑む。

「なあ森澤。コーヒーでも飲むか。ここで。今すぐ出せるぞ」

「え? ここで、ですか?」

 理緒はあたりを見回した。

 だが当然、アスファルトの敷き詰められた駐車場が広がっているだけで、他には何もない。

「家で抽出したのをポットに入れて持ってきてあるんだ。車の中にあるから取ってくる。ちょっと待っててくれ」

 御子柴はそう言いながら、ある方角を指差した。そこには小さなベンチが一台ポツリと置かれている。

 座って待てということだろう。理緒は「分かりました」と頷く。

「すぐ戻るからな。……ああ、これ着てろ」

 御子柴は羽織っていたコートを脱ぐと、ふわりと理緒の肩にかけてから踵を返した。

 ベンチに腰掛け、温もりに包まれながら待っていると、長身の教師はすぐに戻ってきて「ほら。熱いからな」とカップを手渡してくる。

「ありがとうございます、先生」

 ふわりと湯気の立っているカップを、理緒は慎重に受け取った。

「淹れたてより多少味が落ちるから、ミルクと砂糖を入れて少しごまかしてある。だけどまあ、缶コーヒーよりマシだと思うぞ」

 宣言通り、コーヒーにはミルクが混じっていた。理緒はカップを包むように持ちながら中味を少し冷まし、そっと口を付ける。

 御子柴は理緒の隣に腰かけると、魔法瓶の蓋を締めた。自分はコーヒーを飲まないようだ。

「この一週間、大変だったな、本当に。特に森澤のクラスは、亡くなった被害者と犯人がいる……。気苦労が多かっただろう」

 理緒はそこで、飲みかけのコーヒーを横に置いた。

「犯人……御子柴先生は、黒崎くんが明日香ちゃんを……殺したと思っているんですか?」

 やや責めるような口調になってしまった。

 御子柴は渋い顔つきになる。

「……すまない。犯人と断言するのは早かったな。最終的に判断するのは警察の仕事だ」

「私は……黒崎くんは犯人じゃないと思うんです」

「どうしてそう思う」

「黒崎くんと話をして、彼はそんなことをする人じゃないと思ったからです」

 傍らで御子柴の身体がピクリと動いた。そのまま理緒の方に少し身を乗り出してくる。

「森澤。お前は、黒崎秋人とどんな話をした」

「星の話をしました。黒崎くんは星空を眺めるのが好きで、いろいろな星の名前を教えてくれました」

「それだけか。他には? 例えば過去の事件の話……」

 御子柴の言葉に被せるように、理緒は言った。

「それだけでも、分かるんです。黒崎くんは人や動物の命を奪うような人じゃない。お母さんのことだって、猫のことだって、もっといろいろなことだって、ちゃんと聞けば、きっと話をしてくれると思います」

「じっくり話を聞けば、黒崎秋人は容疑から外れるというのか? それはただの擁護だろう。森澤は優しすぎるんだ。だから黒崎秋人のような寡黙な生徒でも、庇ってしまう」

「違います! 私は優しくなんかない!」

 理緒はそこで、大きくかぶりを振った。

 悲しみが、胸の奥からせり上がってくる。

「私は……聞かなきゃいけなかったんです。もっと。黒崎くんの話を……」

 そうするべきだったのだ。

 背中を向けて逃げ出したりせずに……。

「森澤」

 涙を堪えていると、暖かい手が背中に伸びてきた。

 隣に座っている御子柴が、理緒の身体を引き寄せながら唇の端を引き上げる。

「森澤の気持ちを、俺は否定しない。……やっぱりお前は優しい生徒だ」

「そんなことありません。私、今度黒崎くんに会ったら……」

 そこまで言うとふいにに、頭がくらっとした。

 瞼が急速に重くなり、開けていられなくなる。

「あ……れ、私……」

 だらりと伸びた手が、傍らのコーヒーカップをなぎ倒す。

 霞む視界の中、理緒は目の前の黒いシルエットに手を伸ばした。

「御子柴せんせ……」

 意識がなくなる直前に見えたその顔は、ひどく歪んでいた。


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