幕間二 少年ト怪人3


 過去を思い返しながら、十七歳の秋人は俯く。

 母親が死んで、七年が経った。

 警察は子供である秋人の話をまともな証言として扱うことはなく、事件は未解決のままだ。

 あれ以来、誰もが秋人を遠巻きにしている。おかしな子供だと後ろ指をさされることもあったが、特に反論はしなかった。

 自分の話を最後まで聞いてくれる人などいない……一連の出来事で、それが嫌というほどよく分かった。だから、口を開くことを半分諦めている。

 母親がいなくなり、以降は父親と二人暮らしをしているが、家の中で親子が接触することはほとんどない。

 父親も、他の者たちと同じように秋人を避けていた。当然、学校に行っても孤立する。

 誰かがいる場所に行くほど、余計に一人だと感じた。

 だが、その生活にも次第に慣れた。七年の月日の中で学校に行くのをやめてしまおうかと思うこともあったが、何とか通い続けている。

 年月を重ねて難しい本を読めるようになってから、秋人はいろいろ考えるようになった。

 今でも時々、夜の公園で会った黒フードの男を思い出す。

 長い間、あのときの出来事を幻のようだと感じていた。

 あの晩、自分は本当に黒フードと話をしたのだろうか。……そもそも黒いフードの男など、本当にいたのだろうか。

 高校の図書室で心理学に関する本を手に取り、『多重人格』や『解離性同一性障害』という言葉を知った。自分の中に別の人格が生まれて、元の人格が思いもよらない行動を取るのだという。

 母親に『死ね』と言ったあの瞬間、もう一人の秋人が生まれたのではないだろうか。

 黒フードはいわば秋人の『悪意』の塊だ。『それ』が欲望のままに行動したのだとしたら……。

 秋人はあのとき、母親が死ねばいいと思っていた。母親は秋人の腕を掴んで、ひどいことを言った。掴まれた腕と心に、痛みと恨みが募ったのは事実だ。

 だから、母親を殺して仕返しに腕を切った――そう考えれば、説明はつく。

 つまり、あの黒フードは他人ではなく、秋人自身ではないのか……。

 いくら考えても答えは出なかった。

 母親の事件は、犯人が見つからないままほぼ捜査を打ち切っている状態だ。今更真実など分かるはずもない。

 すでに記憶の曖昧になっている。

 僕は本当に、母親を殺したのだろうか……。


 ――どさり。


 微かな物音が聞こえた気がして、秋人は思考を停止した。

 一瞬、自分がどこにいるのか分からなかったが、あたりを見回して自宅の自分の部屋だと気付く。

 窓の外はすでに暗い。勉強をしていたはずが、随分長い間考え事をしてしまったようだ。部屋の中は真っ暗で、デスクライトだけが煌々と灯っている。

 秋人は椅子から腰を上げて、目の前の窓を開けた。

 妙な物音は外から聞こえたような気がしたのだ。だが窓越しに見ただけでは薄暗くてよく分からない。

 少し逡巡したが、庭に出てみることにした。

 寒そうだったので椅子の背もたれに掛けてある上着を羽織ってから玄関に向かう。

 スニーカーを履いて玄関を出てから、庭に回った。

 そこで『それ』を見つけた。

 数個の毛の塊が、無造作に転がっている。

 猫の死体だった。しかも、身体のパーツがバラバラに切断されている。

 庭に敷いてある芝生に血痕が付着していた。無論、切断面からもどろどろした液体が流れ出ている。

 秋人の一番近くにあったのが頭部だ。灰色の毛玉の中にガラス玉のような瞳が二つある。

 ……ああ、またか。秋人はそう思いながら猫の首の傍にしゃがみ込んだ。血の匂いを感じながらそっと触れてみると、猫の死体はまだ仄かに温かい。

 むごたらしい肉片は、ちょうど秋人の部屋の真下にあった。まるで秋人が部屋の窓から投げ捨てたように見える。

 いつからか、こうして庭や秋人の立ち回り先に猫の死体が置かれるようになった。いや『置かれている』のかどうかは定かではない。気がつくと足元にそれがあるのだ。

 母親の件があって以来、秋人は猫の鳴き声が未だに苦手だった。聞くと、激しい動悸と眩暈に襲われる。

 だが、『鳴かないと分かっている猫』なら安心して触れることができる。

 秋人は猫の首を持ち上げて、開いたままの目を閉じさせてやった。

 どうして猫の死体が自分の傍に転がっているのか分からない。一つ確実に言えるのは、秋人が『生きている猫』に対して嫌な感情を持っているということだ。

 もし悪意の塊である秋人の分身が存在するのだとしたら、嫌いだというただそれだけの理由で排除しようとするかもしれない。猫の死体は、秋人自身が行動を起こした結果、ここにあるのではないだろうか……。

 考えてはみたものの、真実が分かるはずがなかった。仮に人格が入れ替わるとしたら、入れ替わる前の人格には記憶が残らないことが多いのだという。

 自分がやったことなのかもしれないのに、把握できない――もどかしさと、その何倍もの恐怖に押し潰されそうになって、秋人は長い溜息を吐いた。

 果てのない闇を見ている気分になる。考えるのに疲れた。

 そして、とりあえずこのかわいそうな猫を、どこかに埋めてやりたい。

 今まで何度かこういうことがあり、秋人はそのたびに猫を家から離れた見晴らしのいい場所に埋葬していた。すでに死んでしまっている猫に対して、そのくらいしかしてやれることはないと思ったからだ。

 だが猫の死体を運ぶところを近所の誰かが目撃していて、通報したらしい。

 その件で、秋人は今朝、警察に任意同行を求められている。

 朝早くに警察署につれてこられたためその日のニュースを見ておらず、同級生が殺されたのを知ったのは事情聴取の最中だ。

 警察官には当然その旨も聞かれたが、クラスメイトの訃報に、秋人はただただ驚いていた。夕子という先の事件の被害者に関しては、全く知らない。

 問われたことは正直に答えたつもりだ。

 警察はひとまず、秋人の証言を信じたようだ。他に決定的な証拠があったわけでもない。結局数時間で聴取は終わり、帰宅が許された。

 家に帰ってきてからはずっと机の前にいる――それが今日の自分の行動のすべてであるはずだった。

 ……ただし、自分の意識が一つだけであれば。

 秋人は一旦家の中に戻り、猫の死体を運ぶための袋を探した。ちょうどよい大きさのビニール袋を見つけたのでポケットにしまい、羽織っていた黒いパーカーのフードを目深に被る。

 死体を運んでいるところを近所の者に見られたら、また通報されてしまう。顔を隠しておきたかった。

 その状態で、再び玄関に向かう。靴を履く前に、玄関にある姿見が目に入った。鏡に映った自分の姿を見て、秋人は一瞬立ち竦む。

 黒いフードを目深に被った男がいた。

 その姿は、あの夜ブランコに座っていた黒フードとそっくりだった。


 やっぱり、僕が母親を殺したのだろうか。女子高生も、クラスメイトも、猫も……みんな僕が――?


 震える手で猫の死体をビニール袋に詰め、足を引きずるようにして家を出る。

 作業の途中、パーカーの下に着ていたTシャツに猫の血がついてしまった。だが、それを隠す気力もなく、ただひたすら前へ進む。

 怖い……改めてそう思った。

 自分で自分のことが分からない。自分ではコントロールできないもう一人の自分がいるのかもしれない……。考えないようにしていたことが否応なくのしかかり、どうしようもなく不安になる。誰かにすべてを打ち明けて、助けを乞いたくなる。

 頭に浮かぶのは、一人のクラスメイトの姿だった。秋人の話を聞いてくれる、たった一人の存在……。

 彼女は秋人の言葉をただじっと待っていてくれた。

 隣に座って星を見たあの日、上手く言葉が出てこない秋人に「大丈夫」と言ってくれた。

 彼女に会いたい。助けてくれとは言わない。

 ただ話を聞いてくれるだけでいい。せめてもう一度、君に会いたい。


「黒崎くん……」


 どのくらい歩いたか分からない。

 気付くと、闇を挟んだ向こう側に、彼女がいた。

 会いたいと思ったその姿が、今目の前にある。

 だがそのとき、ずしりと重みを感じた。死体の質量……血塗れの服からは、ひんやりとした殺戮の匂いがする。

 点滅する街灯の下で、理緒が目を見開いた。

 一瞬、わけを話そうと思ったが、その前に軽い笑いが漏れる。

 この状態で、信じてもらえるはずがない。何せ自分自身でさえ、己の身の潔白を信じていないのだ。

 そして思った。いつ人格が入れ替わって、理緒に襲いかかるか分からない。

 

「……僕は自分の母親を殺したんだ」


「……嘘!」


 だから、走り去る背中を追いかけることはしなかった。

 これでいいんだ……誰もいなくなった道で、秋人は袋に詰まった死体をぐっと抱き締める。

 一度冷たくなった猫の身体は、二度と熱を取り戻さなかった。

 ガラス玉のような二つの瞳か、黒いパーカーを着た秋人を責めているように見えた。

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