幕間二 少年ト怪人2


 秋人はそのまま家を飛び出した。靴さえ履かず、前も見ずに荒れた道を走る。

 母親に掴まれた腕がひどく痛かった。すでに外は真っ暗だ。

 今が何時か分からなかったが、そんなことはどうでもいい。どこかうんと遠くに行きたい。

 靴を履いていない足に何かの破片が突き刺さる。秋人はそれでも走るのを辞めなかった。

 だが、小さな身体には限界がある。倒れ込むように足を止めたのは、いつも学校の友達と遊ぶ小さな公園だった。自転車なら、家から十分もかからずに行ける場所だ。

 夜の公園には誰もいなかった。日中は同じ学校の誰かが遊びまわっているのに、今は静まり返っている。

 ポツンと経っている街灯が、唯一の遊具であるブランコを頼りなく照らしていた。秋人は二つあるブランコのうち一つに腰掛けて、大きく息を吐く。

 どうして家の中がこんなにおかしくなったのだろう。何が間違っていたのだろう。いい子にしてたのに……心の中に、母親の鬼のような顔と放たれた言葉が蘇る。


『生まれてこなければよかったのよ』


 頭の中で、言葉がぐわんぐわんと反響した。猫のような声もそこに入り交じる。

 秋人は頭を振って耳を塞いだ。息をしているのに、胸が苦しい。

 こんなに苦しいのはぼくのせいじゃない。みんなみんな、お母さんが悪いんじゃないか……。

 気が付くと、秋人は息も絶え絶えに呟いていた。

「お母さんなんて死んじゃえばいいんだ……」

「それは本当かな」

 そのとき、秋人の真後ろで低い声がした。

 誰かの気配がするが、振り返ることができない。何だかとても、嫌な空気が漂い始める。

「本当に、君のお母さんが死んじゃってもいいの?」

 背後の声は秋人にそう尋ねながら、開いている隣のブランコに腰かけた。

 黒いフードをすっぽり被った男の人だ。座っていても、相当背が高いのが分かる。

「あなたは……だれ」

 秋人の問いには答えず、黒フードは唇をゆっくりと引き上げた。

「本当に、君のお母さんが死んじゃってもいいの?」

 もう一度、同じことを言われた。秋人の脳裏に母親の顔が浮かぶ。

 その瞬間、胸が苦しくなった。呪詛のような『あの言葉』が、幼い怒りに火を付ける。


「……いいよ」


 気付くと、秋人はそう呟いていた。

「お母さんが死んだらもう会えなくなるよ。それでいいの?」

「いいんだ!」

 今度ははっきり言った。

 一度感情の堰が切れてしまうと、胸の中にある黒くて重い気持ちが一気に溢れ出す。

「お母さんはぼくのことが嫌いなんだ。ぼくはあんなお母さんいらない。だから死ねばいいんだ!」

 死んじゃえばいいんだ! お母さんなんて、死んじゃえばいいんだよ! 殺されるべきなんだ。お母さんなんていらない。死ねシネしねし死ネねしシネ死ネ死ね死ネ!

「……分かった。君の願いを叶えてやる」

 黒フードはブランコから立ち上がった。そして、秋人を見下ろす。

 顔の半分はフードで覆われていて、秋人から見えるのは口元だけだ。その唇が、ぐにゃりと歪む。

「大嫌いなお母さんを、俺がこの世から消してやる。その代わり、欲しいものがあるんだ」

「欲しいもの?」

「……君のお母さんの、腕」

「うで……」

「君のお母さんを殺して、その腕をもらう」

 秋人は咄嗟に自分の両腕を抱き締めた。

 母親はこの腕を掴んで言ったのだ――生まれてこなければよかったのよ、と……。


「……最後にもう一度聞く。本当に、お母さんを殺してもいいんだね」


 黒フードは秋人を見下ろしながら低い声で言った。

 秋人は震える両腕を抱き締めたままゆっくりと頷く。


「いいよ」


 黒フードから覗く唇が、再び歪んだ。

「よし。じゃあ交渉成立だな。君と、君のお母さんの名前を教えてくれ」

「ぼくの名前は黒崎秋人。お母さんの名前は――」

 それはまるで幻のようなひとときだった。

 秋人がふと我に返ったとき、黒フードの男は公園から姿を消していた。

 だが、公園で起こったことは幻などではない。それは間違いなく、悪魔との契約だったのだ。

 数日後、母親は何者かに殺された。死体を一番先に発見したのは秋人だ。

 母親の死体には、腕がかった。

 黒フードは間違いなく、秋人の願いを叶えた。母親を殺せという呪いのような言葉を、きっちり実行したのだ。

 秋人は死体の第一発見者として事情を聞かれた。話をしなければならない相手は、警察官だったり小学校の先生たちだったり全く知らない大人だったり、たびたび変わった。

 だがどの場合でも、秋人は大勢の大人に取り囲まれて説明しなければならなかった。

 母親と喧嘩をしたことを話そうとすると、胸が苦しくなって言葉がつかえた。

 黒フードに会ったことは夢の中のようにぼんやりとしていてどう説明していいのか分からなかった。

 大人たちは矢継ぎ早に質問をしたが、秋人が上手く答えられないでいるうちに、痺れを切らして席を立ってしまう。

 誰かに、もっとじっくり話を聞いてほしかった。

 母親に向かって『死ね』と言ったが、本当はそんなこと、望んでいなかったのだ。

 秋人が言いたかったのは『死ね』ではなく『寂しい』という言葉。

 母親が死んだのは自分のせいだと思った。自分が黒フードにあんなことを言ってしまったから、母親は死んだのだ。殺したのと同じことだ。

 だから呟いた。「ぼくがお母さんを殺した」と。

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