幕間二 少年ト怪人1




 あ、猫の鳴き声がする……。

 玄関のドアを開けたところで、十歳の秋人はその鳴き声に気が付いた。

 か細くて不安定な声だ。背負っていたランドセルをそっと下ろし、耳に手を当ててどこから声がするのか探ってみる。

 猫は、人が音を立てて乱暴に近づくと素早く逃げてしまって、姿を拝むことさえできない。小学校から家まで走ってきたので若干息が上がっていたが、秋人は頑張って、なるべく音を立てないようにした。

 そろそろと廊下を進み、自宅の奥を目指す。

 しだいに、か細かった鳴き声がはっきりしてきた。

 間違いない。『鳴き声を発しているもの』は家の中にいる!

 秋人はもともと動物が好きだった。図鑑を眺めるだけでは飽き足らず、実際に飼ってみたいとずっと思っていた。一人っ子で、遊び相手がほしかったという気持ちもある。

 だが秋人の両親、特に母親は、ペットに関してなかなか芳しい反応を示さなかった。秋人が打診しても、いつも「駄目」の一言で済まされてしまう。

 だから、家の中に猫がいるのが不思議でならない。

 あ、もしかして、お母さんが猫をもらってきてくれたのかもしれない!

 足音を殺して進んでいるうちに、そう閃いた。

 数日前、近所の家で子猫が生まれた。全部で八匹もいて、飼い主のおばさんは、希望者がいれば何匹か里子に出してもいいと言っていた。

 秋人はすかさず母親に猫を飼いたいと申し出た。

 いつも通り「駄目」とそっけない返事をされただけだったが、もしかして心変わりしたのかもしれない。

 最近秋人はずっと『いい子』にしていた。

 テストはすべて百点だったし、お手伝いは言われる前に進んでした。父親が出張で家を空ける日に母親がふらりとどこかへ行ってしまっても、寂しいと言って困らせたことはない。

 いい子にしていたから、母親が猫を飼うことを許してくれたのだ――その可能性に思い至り、胸が高鳴る。

 白い猫かな。それとも茶色いぶちぶちかな……まだ見えぬ猫を捜し求めて、秋人はなおも慎重に歩いた。

 やがて、家の一番奥にある部屋の前まで辿り着いた。

 そこは父親と母親の寝室だ。ドアはぴったりと閉じられているが、鳴き声はその部屋の中から聞こえてくる。

 秋人は高鳴る胸を抑えながら、ドアノブにゆっくり手をかけた。

「猫、どこにいるの……?」

 ドアを開け放つと、真っ先に母親の長い髪が目に飛び込んできた。何も身に着けていない背中が、ベッドの上で揺れている。

 母親の身体の下には、知らない男の人がいた。その人も何も身に着けておらず、上に跨っている母親の身体を突き上げるように腰を動かしている。

 時折母親から甘い声が漏れた。

 か細くて高い声――まるで、猫の鳴き声のような。

「お、お母さん……」

 秋人の震える声に呼応して、なまめかしい背中がビクッと動く。

 こちらを振り向いた母親は目を限界まで見開き、驚愕の表情を浮かべていた。母親の身体の下にいた男の人も口をポカンと開けて、戸口に佇む秋人を見つめている。

 母親は秋人を睨みつけると、手元にあった枕を投げつけながら叫んだ。

「何でこんなに早く学校から帰ってきたの! まだ昼過ぎじゃない!」

 投げつけられた枕は足元に落ちた。秋人はそれを避けて、そっと寝室のドアを閉める。

 薄い板の向こうで、母親が半狂乱に喚く声が聞こえた。

 お母さん……今日は四時間授業なんだよ。『今月の予定』のプリント、ちゃんとこの前渡したよ……。

 心の中で言って、秋人はそのまま玄関まで走って戻った。いつまでも猫の鳴き声が残っているような気がして、耳を塞ぐ。

 いや、猫の鳴き声じゃなかった。

 あれは……。

「うっ……」

 猛烈に吐き気が込み上げてくる。

 秋人は苦しくなって、とうとうその場に座り込んだ。

 耳に届いてきたのは猫の声ではなく、母親の怒声だった。



 その日から秋人の家はおかしくなった。

 家の中は常にシンと静まり返り、空気が張り詰めている。

 どこもかしこも薄いガラスでできているようだった。ちょっとでもつつくと、すべて崩壊して壊れてしまいそうだ。

 父親は、母親が何をしていたか知っても、彼女を追い出そうとはしなかった。

 代わりに自らが家を空けるようになった。以前から仕事で不在がちではあったが、帰宅しないようにすることで、母親との衝突を避けていたのかもしれない。

 たまに帰ってくると、父親はとても悲しそうな顔をしていた。

 母親に裏切られたことに最もショックを受けているのは父親だった。きっと、外に出ることがお父さんの唯一の息抜きなのだ……子供心にそう理解している。

 だからこそ、もっと家にいてほしいと頼むことはできなかった。

 母親は、肩身が狭くなった不満を秋人にぶつける。家の中で鉢合わせするたびに非難がましい表情を浮かべ、息子を詰るのだ。


「あなたが早く帰ってこなければバレなかったのに。あなたがお父さんに告げ口しなければ隠し通せたのに。全部あなたのせいよ」


 秋人はしばらくの間、母親の恨み言を一身に受け続けた。

 もちろん、言いたいことは山ほどある。

 早く帰ってきたのはそういう予定だったからだよ。『今月の予定』のプリントにそう書いてあったのに、お母さんが見てなかったんだろう。お父さんに告げ口したのはぼくじゃない。近所の人にバレていたんだ……。

 だが、これ以上家の中で揉めたくなかった。

 自分が我慢すれば、母親の怒りは収まる。そのうち穏やかになってくれれば、父親も戻ってくるかもしれない……。

 もはや、猫など飼えなくてもよかった。秋人が望んでいたのは、前のような温かい家……ただ、それだけだ。

 なのに、暴言はエスカレートする一方だった。

 ある日、母親はとうとう鬼のような形相で秋人の腕を掴んだ。


「そもそもあなたが生まれてこなければよかったのよ。そうしたらあんな人と別れて人生をやり直すのに」


 生まれてこなければよかった――呪詛のようなその一言が胸を貫く。

 気が付くと、秋人は母親を突き飛ばし、思いっきり叫んでいた。


「いい加減にしてよ。お母さんなんか嫌いだ! 死ねばいいんだ! 死ね!」





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