第六章 疑惑4
嘘、嘘、嘘!
ひたすらその単語を念じながら理緒は走った。
それ以外は何も考えられない。考えたくない。
「あっ……」
がむしゃらに走っていたら、何かに躓いて転んでしまった。膝に激痛が走る。
転んだ拍子に擦りむいたようだ。街灯の光に照らされた足から、赤いものが幾筋も地面に流れていく。
傷口から滴り落ちる真っ赤な液体は、血塗れの秋人の姿を連想させた。酷い息苦しさを感じて、理緒は胸元を押さえる。
――僕は自分の母親を殺したんだ。
嘘だ! そんなはずない……。
理緒は座り込んだまま首を振り、俯いた。
「君……大丈夫かな」
しばらくすると、頭上から影が覆い被さってきた。目の前に誰かが立ち塞がっている気配がする。
ハッと顔を上げると、穏やかな瞳が理緒を覗き込んでいた。
「御子柴先生……」
街灯の明かりを背に受けて、T高の生物教師が佇んでいる。
突然の登場に戸惑い、ぱちぱちと瞬きをしている理緒を見て、御子柴は首を傾げる。
「森澤じゃないか。なぜこんなところに……って、怪我をしたのか」
足の傷を見た途端、御子柴の表情が険しくなった。
座り込んでいる理緒の傍らに跪き、慌てふためいた様子で言う。
「この傷はどうした。もしかして、誰かに襲われたのか!」
「い、いえ、あの……転んだだけです」
理緒はがふるふる首を振ると、生物教師の顔に安堵の表情が広がった。
御子柴はポケットからハンカチを取り出すと、理緒の膝にくるくると巻きつける。
「とりあえずそれで押さえておけ。近くに俺の車が停めてある。そこまで行けば絆創膏があるから、一緒に来てくれるか」
「あ……いえ、大丈夫です。このくらい」
理緒はそう言って立ち上がろうとしたが、足元がふらついて大きくよろめいた。がむしゃらに走っていたせいで、思った以上に疲れが溜まっていたようだ。倒れそうになったところを、御子柴の腕に抱き留められる。
「無理をするな。遠慮もするな。今、先生たちで手分けして学区内をパトロールしていたところなんだ。怪我してる生徒を放っておいたら、あとで俺が教頭に叱られる」
御子柴は理緒を抱き留めたまま微笑んだ。
少しおどけたような言い方だが優しさが含まれていて、理緒の涙腺がふいに緩む。
明日香の死。学校内の不穏な雰囲気。
そして、先ほど出会った、異様な姿の秋人……。
朝からずっと糸を張りつめているような気分だった。御子柴の腕の温かさが、緊張を解きほぐしていく。
「森澤を放っておけない。俺と一緒に来てくれ」
もう一度言われて、今度は素直に頷く。
「……はい」
車は十メートルほど離れた場所に停めてあった。御子柴は理緒を半ば抱きかかえるようにしてそこまで連れていくと、乗り込む前に真新しいミネラルウォーターのボトルを取り出して足の傷を洗浄する。
出血が落ちつくと、絆創膏を貼ってくれた。すべてが終わったあと、助手席に座るよう促される。
「シートベルトを締めてくれ。家まで送る。洗っただけだから、帰ったらちゃんと手当するんだぞ」
運転席の御子柴は、応急処置に使ったものを物入れに放り込みながら言った。
「すみません。ハンカチも、汚してしまって……」
傍らに、止血に使ったハンカチが放り出されている。男性用の大判のそれは、理緒の血液ですっかり汚れてしまっていた。
「ああこれか。別に安物だし気にしなくていいぞ」
「新しいのを買って返します」
「気にするな。森澤は律儀だな」
御子柴は軽く笑ったあとハンカチを畳んでポケットに突っ込み、そっとアクセルを踏んだ。
運転はとても穏やかだった。すっかり夜になっており、窓の外を街灯の明かりが次々と流れていく。
やがてポツンと立っている信号に引っかかり、車は一旦停止した。
「森澤。……なぜ、すぐに家に帰らずにあんなところにいたんだ。殺人事件があったばかりだから暗くなる前に帰れと言われていただろう。パトロールで俺が通りかかったからよかったが、もう少し気を付けた方がいいぞ」
「すみません、先生。何だか、まっすぐ帰る気になれなくて……」
「まあ、クラスメイトがひどい目に逢ったんだ。無理もないな。しかも黒崎秋人まで、あんなことに……」
秋人の名前が出てきて、心臓が苦しくなる。
理緒は先ほどの光景……血に染まったTシャツを思い出し、ぎゅっと目を閉じた。
秋人があの場所で何をしていたのか……。少し考えると結論に辿り着いてしまいそうな気がして、怖い。
「森澤、どうした? 大丈夫か」
目を閉じたまま胸を押さえていると、御子柴がハンドルから手を離し、理緒の方に身を寄せた。
「もしかして、さっきあの場所で、誰かに会ったのか」
「……え?」
「さっきの森澤は、何かにひどく怯えているように見えた。何がそんなに怖かったんだ。……誰かが、何かしているところを見たのか?」
本当のことを言ったほうがいい。
それは理緒にも分かっていた。
今周りで起きていることを考えれば、先ほど秋人を見かけたことを教師である御子柴に正直に話すべきなのだ。市民の義務として。教え子として。
だが理緒はどうしてもそれを口にすることができなかった。
言ったら本当に、何もかもが終わってしまう気がする……。
「……いいえ。誰にも会っていません」
理緒は御子柴から視線を反らして俯いた。
すぐ傍で、深い溜息が聞こえる。
「何かあったら、俺に話せよ」
やがて、車が再び動き出した。
正直に言えなくてごめんなさい、先生……理緒は罪悪感を募らせながらも、口を閉ざす。
何か言う代わりに、星のことを考えた。今は厚い雲に覆われていて見えないが、その上にはいくつもの輝きがある。
『地球が動いているなら、その上にいる僕らは相対的に宇宙を動いていることになる。たとえ地面の上で立ち止まっていても』
立ち止まっているわけではない……そのことが、理緒の心に僅かな光を灯す。
見えなくても、その輝きは確かに存在しているのだ。まるで厚い雲の上にある、たくさんの星たちのように。
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