第六章 疑惑3
その日は結局、午後の授業もすべて自習となった。
下校前に全生徒が体育館に集められ、教師たちから今後の注意を聞かされた。勝手にテレビの取材を受けないこと、通学路では事件の話をしないことなど、マスコミ対策が主だ。
当然放課後の部活動は一切中止になった。暗くなる前に帰れと口煩く言われ、周囲のあとは速やかな下校を促された。
理緒は一人で校門を出た。
真紀と一緒ではない。彼女は、理緒が秋人を擁護していると思っているようだ。リョウの話を聞いて以降、顔すら合わせてもらえない。
心の中が重かった。まっすぐ家に帰る気になれず、理緒は自宅とは別の方向のバスに乗る。
下車してきつい勾配を上り、辿り着いたのはあの自然公園だった。展望台の近くにある、いつものベンチにそっと腰かける。
真紀との関係がこじれたのはとても悲しい。
しかし理緒にとっては、秋人を少しでも疑ってしまったことの方がもっと悲しかった。
耳を塞いで教室を飛び出したあと、冷静になってようやく気付いた。
やはり、秋人が殺人鬼であるはずがない。母親の事件のことを黙っているのは、何か理由があるのだ。
秋人は、こちらが待っていればきちんと話をしてくれる。夜に外出しているのは悪いことをするためではなく、星を見るためだ。
黒崎くんは、本当は優しい人……理緒はそのことを、すでに知っている。
理緒の話を受け止めてくれたり、身を案じてくれたり――そんな優しい彼が、人や猫を殺すなんてありえない。ありえないのだ。
今ははっきりとそう思うのに、秋人への怒号が飛び交う教室では考えを口にすることができなかった。一瞬だけ心をもたげた疑惑に、負けてしまった。
少しでも秋人を信じられなくなっていた自分が、心底恥ずかしい。
理緒は溜息を吐きながら上を向いた。空は一面黒い雲で覆われている。今日は暗くなっても星は見えないだろう。
腰かけているベンチの半分はぽっかりと開いている。
この間、そこには秋人が座っていた。
二人並んで星を見たあの日、理緒は一瞬、秋人が笑ったような気がした。
……本当に笑ってくれたの? 確かめたくても、当の秋人はここに居ない。
今後はどうなってしまうのだろう。秋人はまた学校に来るだろうか。また、話せるだろうか。
……会いたい、なぁ。
ひとたびそれを意識すると、想いが波紋のように理緒の心の中に広がっていった。会いたいのに、隣にいない……そのことが、よりいっそう寂しさを募らせる。
何度目かの溜息のあと、理緒は腕時計に視線を落とした。
もう夕方の五時に迫っている。気分が沈んだまま帰宅するのは嫌だったが、教師たちから寄り道をするなと言われていた。日が完全に落ちる前に公園を出た方がいいだろう。
仕方なくベンチから重い腰を上げ、公園から続く坂道を下る。
どんよりした雲のせいもあって闇が濃くなるスピードが速く、足を踏み出すたびにあたりが暗くなった。ぽつぽつ設置されている街灯を頼りに、理緒はバス停に向かう。
ようやく古ぼけた看板が見えてきたとき、視界に軽い異変を感じた。並んだ街灯の一つが切れかかっていて、点滅を繰り返しているのだ。
目がチカチカしてひどく不快だった。だが不規則にまたたく光の下に誰かが立っているのに気が付き、思わずそちらを凝視する。
その誰かは黒いフードを目深に被っていた。
理緒の背筋にスッと冷たい感触が走った。黒いフードの男を見たという、神社での目撃情報が頭の中を駆け巡る。
そのとき、黒いフードからちらりと見えている唇が、微かに動いた。
「君は……」
それは、理緒が一番聞きたかった声だった。
フードを被っているのが誰だか分かった瞬間、先ほどまで感じていた恐怖が一気に氷解する。
「黒崎くん……」
会いたいと思っていた人がそこにいる。胸が詰まって、声が少し掠れてしまった。
切れかかっている街灯のせいで表情は伺えないが、数メートル向こうにいるのは確かに秋人だ。
「黒崎くん……警察から、もう帰ってこられたんだね! よかった」
安堵で涙が零れそうになる。
「…………」
秋人は何も答えなかった。
だがここにいるということは、事情聴取から解放されているということだ。彼がもし本格的な取り調べの対象であるなら、こんなに早く帰れるはずがない。
「大変だったね、黒崎くん。でも、もう大丈……」
理緒は秋人に歩み寄ろうとした。
すると、秋人が激しく
「来ちゃ駄目だ!」
鋭い口調が理緒の動きを止めた。
首を振ったせいでフードが外れ、秋人の顔が露になっている。
「来ちゃ駄目だ。僕が後ろを向いて立ち去るまで、そこを動くな!」
表情は険しかった。後ずさりで理緒からじりじりと離れつつ、秋人は命令するような口調で声を張り上げる。
数メートル先からでも強い拒絶の感情が伝わってきた。理緒は呆然とその場に立ち尽くす。
「どうして……?」
辛うじてそう尋ねると、秋人は震える声で返した。
「僕はもう……駄目なんだ。君も聞いているはずだ……僕の過去の話」
「過去の話……?」
「僕の母親の事件について」
――ぼくがお母さんを殺した。
昼間、リョウから聞いた話が脳裡を過る。
理緒は慌ててそれを追い出し、身を乗り出した。
「そんな話、私は信じてない。私は黒崎くんに会いたいと思っていたの、会って話を……っ」
理緒の話を遮ったのは、まばゆい光だった。切れかかっていた街灯が最後の輝きとばかりに明るさを増し、理緒たちを照らす。
そのとき秋人の全身が目に入り、理緒は息を呑んだ。
秋人はパーカーの前を開けて羽織っている。下に着ているTシャツは、不気味に赤く染まっていた。
まるで……。
「黒崎くん……その服」
血、という言葉が出そうになり、理緒は咄嗟に視線を反らした。
すると今度は、秋人が右手に提げているビニール袋に目が留まる。
「――――!」
何が入っているか認識した瞬間、理緒の喉元を声にならない悲鳴が通り抜けた。
秋人が手にしている袋の中には毛の塊のようなものが入っている。袋にも転々と赤い色が飛び散っていた。
そこに押し込まれているのは紛れもなく……猫の死体だ。
「これでもまだ、僕を信じる?」
秋人は血塗れの袋を胸に抱えた。Tシャツがさらに赤く汚れる。
「どうして……どうして……」
理緒はゆっくりと首を横に振りながらそう繰り返した。
「君が聞いた、僕に関する話は、多分どれも真実だよ」
秋人は袋を抱えたまま静かに話す。
ほどなくして、鉄錆に似た陰惨な匂いが理緒の鼻腔に届いた。
血の匂い――おぞましさを漂わせる秋人の顔は大半が長い前髪に覆われ、眼鏡の奥に見える瞳は虚ろに濁っている。
「僕は」
薄い唇が微かに動き、理緒はハッと立ち竦んだ。
その先は聞きたくない。
でも、秋人は待ってくれない。
「……僕は自分の母親を殺したんだ」
「……嘘!」
理緒は踵を返して駆け出した。
背後では街灯がちかちかと瞬き、やがてプツンと音がして完全に光が途絶えた。
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