第六章 疑惑1






 ……ずるずる……ずるっ。

 ……ずるずるずる……ずるっ。


「やめて! 来ないで!」


 ……ずるずる、ずしゃっ……。

『……アァア……』


「やめて! 離して! いやぁぁっ!」


『あ……し……脚……ちょうだい……アァア……足、わたしの、アシ』


「いやぁぁぁああっ! やめて! 離してえぇぇっ!」


『……ころ……ころし……ころして……や……ころし……』


「いや! やめて、殺さないで! お願い、わたしまだ死にたくな……」


 ぐちゃっ。

 ――ブツン。



***



 明日香の遺体は、十月二十八日未明、学区の外れにある竹藪の中で見つかった。

 朝のニュースでこのことが報道されると、付近一帯は大騒ぎになった。一番混乱していたのが、明日香の在籍していた高校……つまり理緒の通う県立T高校である。

 学校の周りでは、マスコミとそれを遠ざけようとする警察官や教師たちが睨み合っている状態だった。休校にしなかったのは、生徒たちを学校に集めることで、野次馬たちから守るためだと聞いている。門を閉じてしまえば、校舎はある種の要塞だ。

 まさにいつ収まるか見当もつかないほどの修羅場だったが、こうなるのも無理はなかった。

 生徒が惨殺されただけでも一大事なのに、被害者と同じクラスの男子生徒が、警察に任意同行を求められたのだ。

「黒崎くん……」

 朝、着席しておけと言ったきり戻ってこない担任の教師を待ちながら、理緒は教室でそっと呟く。

 任意同行を求められたのは秋人だった。黒崎家の近所の者が、早朝、警察車両に乗せられて連れていかれる秋人の姿を目撃したらしい。また、前日に警察から秋人についての聞き込みを受けたという者がちらほら名乗りを上げている。

 ニュース等では任意同行された少年の名を一切報じていなかったが、このことは瞬く間に校内に拡散した。

 T高校の校長も、被害者の明日香に対しては追悼のコメントを出しているが、黒崎秋人についてはだんまりだった。無視しているのではない。警察からの連絡がなく、何も分からない状態なのだ。

「うぅっ……明日香……」

 教師不在の教室で、真紀が明日香の机に取り縋って泣いていた。他のクラスメイトも一様に沈んだ顔をしている。

 誰が用意したのか、明日香の机には既に仏花が供えられている。

「真紀ちゃん……」

 理緒がハンカチを差し出すと、真紀はそれでごしごしと乱暴に顔を拭って立ち上がった。

 そして空っぽの秋人の席につかつかと歩み寄る。

 現在事情聴取を受けている秋人は、当然学校に来ていない。主が不在の机を見下ろすと、真紀は大きく息を吸った。

「黒崎……許せない!」

「だ、駄目だよ真紀ちゃん」

 真紀が秋人の机を蹴飛ばそうとしたので、理緒は慌てて止めた。

「理緒、何で止めるの! 黒崎が犯人なんだよ?」

「犯人と決まっているわけじゃないよ。逮捕されているわけじゃないもの」

「何言ってんの。怪しいからつれていかれたんでしょ。捜査してるのは素人じゃなくて警察だよ? プロが怪しいって言ってるんだからもう決まりじゃん」

「そうだとしても、黒崎くんが事情を聞かれているのは猫の件で、明日香ちゃんの件じゃないんでしょう?」

 これも、秋人の家の近所に住む者からのリークだ。

 秋人は明日香殺しについて疑われているわけではなく、猫の死体を遺棄した件で事情を聞かれているらしい。

 だが理緒の言葉に、真紀は顔を顰めた。

「だから何なの? 猫の事件も明日香の事件も、犯人は同じだよ」

 繁華街の近くで起きた唐崎夕子殺人事件と、猫の死体遺棄事件。

 マスコミは連日これらの関わりについて報道しており、犯人を同一視する見方が有力だった。朝のニュースでは、コメンテーターから昨日起こった明日香の事件も関連しているのではという意見が出ていた。

 そこへ来て、秋人が猫の事件について事情を聞かれているというこの状況だ。きっと生徒のすべてが、真紀と同じように、秋人と殺人を結び付けて考えているに違いない。

 真紀は目に涙を浮かべながら言った。

「理緒はあの音声を聞いて何とも思わなかったの?」

 真紀の言う『音声』とは、明日香のスマートフォンに残されていた音声データのことだ。

 明日香の致命傷は頸動脈の傷だった。

 この傷を含めて、遺体には噛み痕のような傷が数か所残されている。さらに遺体の下半身は切り取られ、現場から消えていた。

 ここまでは、二週間ほど前に市街地で起きた唐崎夕子惨殺事件と何もかも同じ状況である。

 ただ一つ違うのは、明日香の事件には『記録者』がいたという点だった。明日香本人が所持していたスマートフォンが、おぞましい瞬間を記録していたのだ。

 ダンス部に入っている明日香は、練習風景をスマートフォンの動画撮影機能を使って頻繁に撮影し、しばしば参考にしていた。そのため彼女のスマートフォンは画面に触れただけですぐにカメラが立ち上がる設定になっており、それが偶然にも事件の最中に作動した。

 問題のスマートフォンは下半身と一緒に持ち去られることなくその場に残されていた。ただしカメラが作動したのはポケットの中で、記録されていたのは音声のみだ。

 どこかのマスコミがこの音声を入手したらしく、朝のニュースでは『痛ましい音声が流れます』という注意テロップとともに、その一部が放送された。

「ねえ理緒。あの音声を聞いて何とも思わないの? 犯人を恨んでないの?」

 黙りこくっている理緒に向かって、真紀は再び食ってかかるように言った。

「私は……」

 理緒はニュースで聞いた音声の内容を思い出して唇を噛む。


「いやぁぁぁああっ! やめて! 離してえぇぇっ!」


 明日香の遺体は、二十八日の未明、通りかかった夜勤明けのフリーターに発見された。

 検視の結果、死亡推定時刻は二十七日の夜十一時前後ということが判明している。

 スマートフォンに残されていた音声データは、あまりにむごたらしかった。警察は当初は存在を伏せていたが、マスコミに先を越されたことで公開せざるを得なくなったようだ。

 スマートフォンの録画機能が作動していた時間は僅か一分あまり。

 その一分間は、まさに明日香が何者かに襲われている最中だった。激しく揉み合うような音が聞こえ、合間に明日香の悲鳴が繰り返し入ってくる。

 明日香は必死に助けてくれと懇願するが、やがて声は唐突に途切れた。

 それが息絶えた瞬間であることは、音声データを聞いた者なら嫌でも分かってしまう。


「いや! やめて、殺さないで! お願い、わたしまだ死にたくな……」


 明日香の悲鳴には胸を切り裂かれた。合間に聞こえてくる物音は、死へのカウントダウンめいている。

 何よりも不気味なのは、低い唸り声だ。

 朝のニュース番組に音声の専門家が出演しており、見解を述べていた。それによれば、明日香を死に追いやった『何か』は、このように言っているらしい。


『殺してやる』


 そのように聴き取れなくもない箇所が確かにある。

 あまりに不鮮明で、男性の声か女性の声か判断がつかないが、それが却って恐怖を煽った。

 ニュースで聞いてしまった明日香の最期の声は、いつまでも理緒の脳裡にこびりついている。昨日まで同じ教室で笑っていたクラスメイトがもうこの世にいないなんてとても悲しいし、友人をこんな目に遭わせた相手はもちろん許せない。

 だが、音声データは秋人が犯人だということを示しているわけではないのだ。決め付けるのは早すぎる。

「犯人が誰か、まだ分かっていないんだよ、真紀ちゃん」

 本当は秋人が犯人であるはずはないと断言したかったが、理緒はなるべく感情を抑えてそう言った。

 真紀は瞳に涙を溜めながら俯いた。

「そうだよ……理緒の言うことは正しい。今の段階では何も分からないよね。でも…でも、あの明日香の逃げ惑う声を聞いちゃったら、あたしはこれ以上、黒崎を擁護できない」

「私は擁護しているわけじゃなくて、ただ……」

 そのとき、理緒の後ろで誰かが声を上げた。

「犯人は黒崎だ。そうに決まってんだろ」

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