第五章 遺伝子3
御子柴は顔つきょ引き締めると、軽く腕まくりをした。
理緒は話を聞くためにきちんと姿勢を正す。
「遺伝子を構成するのがDNA。DNAがヒストンに絡まって出来ているのが染色体だ。さて森澤。ヒトの染色体は何本ある?」
「四十六本、ですよね」
理緒は即答した。このあたりはすでに授業で習っている。
「正解。正確には二十二対の常染色体と一対の性染色体で、計四十六本だ。それに対してショウジョウバエは常染色体が三対六本に性染色体が一対二本の、計八本しかない。ショウジョウバエはこの八本の染色体の上に全ての遺伝子が乗っている。遺伝情報、つまりゲノムの量はヒトの方が圧倒的に多いんだ」
かつての専門分野の話をしているせいだろうか、声にいつもより力が籠もっているように感じる。
御子柴は先を続けた。
「生物の複雑さは必ずしも遺伝子の量とは一致しないんだ。だが、少なくともヒトはハエより複雑だろう。ヒトが複雑な構造を持っているのは進化の結果だ。遥か昔、ヒトは今とは違う姿をしていた」
「違う姿……ですか」
「ヒトの祖先は元々ゲノムの量が今よりもっと少なかった。それが遺伝子重複で増えたことにより、今日に至っている。遺伝子は様々な要因で、たまに同じものがコピーされる場合があるんだ。レトロトランスポゾンの転移なんかが複製の典型的な要因なんだが、まあこれは難しいから割愛する。遺伝子がコピーされているということは、同じ遺伝子を重複して持っていることになるな。同じ遺伝子が重複すると、どうなるか分かるか?」
理緒はしばらく考えて、首を横に振った。
「いいえ、分かりません。……すみません」
「コピーされた遺伝子は言うなれば『余っている』状態なんだ。本来の役割はもともとの遺伝子が果たすからな。だが、ただ余らせておくのは勿体ないだろう。だから重複して余った部分は、別の機能を持つ遺伝子に変わっていった。遺伝子が増えれば、身体の中で別の新たなタンパク質を作り出せることになる。このタンパク質が様々な能力の獲得に役立った。こうしてヒトの祖先は進化したんだ」
御子柴は立ち上がり、ゆっくりと机の間を移動しながら教卓に歩み寄る。
そのまま黒板を背にして理緒の方を向いた。もはや完全に授業と同じ構図だ。
「さて。さっき言った遺伝子重複は部分的に起こることが多いが、部分的に増えるだけではなく一気に倍に増えたこともある。全ゲノム重複という現象だ。言葉通り、遺伝子が倍に増えた状態になる。これも詳しく話すとなると難しいし、今の話とは直接関係ないから細かいところは割愛するが、何だか格好いい単語だろう?」
理緒は軽く頷いた。
レトロトランスポゾンに全ゲノム重複。どちらも授業では聞いたことのない単語だ。
「全ゲノム重複などの効果でヒトの先祖は劇的に遺伝子を増やし、増やした分を改良して進化を遂げてきた。その中で、ヒトの祖先が新たな遺伝子の多くを集中的に注ぎ込んで改良した身体部位がある。それは――眼と脳だ」
「眼と、脳……?」
「大昔、生き物は海の中にいた。そのころヒトの祖先は常に捕食の対象であり、大きくもなければ強くもなかったんだ。そこに全ゲノム重複が起こり、新たな遺伝子を得て、ヒトの祖先はまず『眼』を急激に進化させた。古代生物の眼は明暗を区別する程度の原始的な構造でしかなかったんだが、俺たちの眼は瞳孔から光を取り入れて虹彩で調節して、最終的に網膜の黄斑に焦点を結ぶ。それまでの眼より圧倒的に複雑な造りになった。フィルムカメラと同じ仕組みだから『カメラ眼』と呼ばれている。このカメラ眼を手に入れたことで、ヒトの祖先の視界は急激によくなり、天敵の姿をすばやく捉えて逃げたり、餌の在処を認識しやすくなった」
御子柴はここで一旦言葉を切った。理緒が話についてきているかどうか確かめているのだろう。
理緒は「大丈夫です、ついていけてます」と言う代わりに頷いて見せる。
「海から出て、陸に上がってからも眼の進化は進んだ。例えば一般的なホニュウ類は、眼で二色の光を受容して、それを脳内で処理して視覚情報にする。これが高等な霊長類の場合だと、三色の光を受容できるんだ。ヒトの祖先は増えた遺伝子を変化させ、新たにもう一色受容できる能力を得た。二色と三色では情報量が違うからな。これは大きい。視界が変わると、生物は一次元先へ進むんだ」
理緒は御子柴が教卓の上で拳を握り締めているのに気付いた。この生物教師はは授業になるといつも熱心だが、今日はそこに輪を掛けて、はるかに生き生きとしている。
「そして、ヒトは眼の他に脳を大きく進化させてきた。特に大脳新皮質。俺はこの部分の進化こそ、今日のヒトがヒトたりえる所以だと思っている」
御子柴の長い指が、こめかみに軽く触れる。
「ここを発展させることにより、ヒトは思考能力を手に入れた。眼で見て、さらに脳で思考する。こうしてヒトは天敵から身を守り、少ない身体能力でも道具を使って獲物を捕らえられるようになり、衣服などを纏って暑さや寒さに適応することも覚えた。――脳と眼。これほど優れた部位は、他の動物にはない」
そこまで話すと、御子柴は肩の力をふっと力を抜いた。
ややトーンダウンした声で、理緒に尋ねる。
「森澤は、ヒトが今以上に進化を遂げられると思うか?」
理緒は少し考え、言葉を選んでから答えた。
「……進化、してほしいと思います。今以上に、よくなるなら……」
そこで、御子柴の目がきらりと光った。
「いい答えだ、森澤。今、学者の中にはヒトの進化は頭打ちだって言う奴がいる。近いうちにコンピューターの処理能力がヒトを上回るという意見まで出ている。だが俺はそうじゃないと思ってるんだ。例えば俺はさっき、高等霊長類の目が一般的なホニュウ類より進化して、三色の光を捉えられるようになったと言っただろう。だが最近、四色の光を捉えられるヒトがいることが分かった」
「四色……一色多いんですか?」
「そうだ。すごいだろう? 四色型色覚、スーパービジョンって言うんだけどな。この視覚を持っている人が今、世界に数人いる。これは眼の進化だと思わないか? それから脳の一部が発達していてコンピューターより早い計算をする人だっている。これだって俺には進化の一端に見える。彼らには普通のヒトには見えないものが見え、はるかに高い次元でものを考えているんだ」
御子柴は教卓の上に両手を載せて、理緒の方にぐっと身を乗り出した。
さらに、だんっと足を踏み鳴らす。
「そもそもヒトの進化の謎自体、まだまだ解明されていない。ヒトは機械の進歩なんかに負けないはずなんだ。これ以上進化しないなどと、なぜ言い切れる!」
その強い口調に、理緒は圧倒されていた。
御子柴はそんな理緒の姿など目に入っていない様子で、一人断言する。
「進化を遂げたヒトは、あらゆる面で現状のヒトを上回る。知能も、環境適応能力も……そして、命の長さもな」
「命の長さ……?」
何だか重いものを感じて、理緒は少し息を呑んだ。
御子柴はそこでハッと我に返ったように身体を揺らす。
「すまない、すっかり夢中になった。俺としたことが……」
ようやく、いつもの爽やかな笑みが戻ってきた。
理緒は縄を解かれたように身体の力を抜き、ほっと胸を撫で下ろす。
「もう昼休みも終わりだな」
教卓から降りた御子柴が、壁の時計を見上げて言った。
「私、教室に戻りますね」
理緒は机の上の筆記用具やノートを素早くまとめ、ハエの入った飼育ビンを手に取って立ち上がる。
「小難しい話に付き合わせて悪かったな、森澤」
「いえ。とても勉強になりました」
「しかし結局、昼休みにハエを観察にきた生徒は森澤の他にいなかったな。他の班はどうなってるんだ。ちゃんと進めてくれているのか?」
御子柴は苦笑しながら嘆いた。
理緒は飼育ビンを棚に戻しながら口を開く。
「さっき、黒崎くんもデータを取りにきていましたよ」
理緒の台詞を聞いた途端、御子柴の眉が片方吊り上がった。
「黒崎……黒崎秋人か?」
「はい」
そういえば秋人も一人でデータを取っていた。
多分、理緒と同じように班の中で毎日ハエを見に来るのは秋人だけなのだろう。そして後日秋人のノートが班のメンバーに回ることになる。
皆でやるべきことを一人でこなしてしまうのは秋人の困った点と言われているが、厄介な実験をこなさなければならない今回は、助かっている者が多いのではないだろうか。
「黒崎くんは自分の分を素早く終わらせて、私の分まで手伝ってくれようとしていましたし、きっと完璧なデータが取れていると思います。だから少なくとも、黒崎くんの班はちゃんと実験を進めているんじゃないでしょうか」
「……森澤は、あの黒崎と口を聞いたことがあるのか?」
御子柴はやや顎を引き、理緒にそう尋ねた。
「はい。同じ図書委員なので、少しは……」
「そうだったのか……」
御子柴は少し驚いているようだ。
秋人が誰かと話すのは教師にとっても意外なことなのだろうか。
理緒は、秋人が無闇に沈黙を貫いているのではないことを御子柴に分かってほしくなった。秋人はただ言葉を選んでいるだけだ。きちんと質問をして、待てば、言葉はきちんと返ってくる。
それに、どんな話でも、最後までしっかり聞いてくれる。クラスメイトのことを心配する気持ちだってある。みんなが思っているような、他人に冷たい人間ではないのだ。
秋人が真面目な生徒であることは教師の御子柴も理解しているはずである。秋人のことを、もっと分かってくれる気がした。
「黒崎くんは物静かですけど、話しかけるとわりと普通に返してくれます」
「……そうか」
「それに、最近は変な事件が多いから、黒崎くんは私のことを心配して帰りに家まで送ってくれたりもしたんです」
「…………」
御子柴は理緒から視線を逸らし、顎に指を当てて黙り込んだ。
「……御子柴先生?」
理緒は黙ったままの御子柴を見て首を傾げた。
御子柴はしばらく何かを考え込んでいたが、やがてふっと一つ息を吐いて呟く。
「黒崎秋人……なるほどな」
***
クラスメイトの明日香の遺体が発見されたのはそれから二日後のことだった。
同日。猫の死体遺棄事件の参考人として、警察は黒崎秋人に任意同行を求めた。
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