第五章 遺伝子2

「ああ、森澤か」

 生物室に入ってきたのは白衣姿の御子柴だった。

「こんにちは、御子柴先生」

「お、きちんと実験を進めているな。どうだ。進み具合は」

 御子柴は理緒のもとに歩み寄り、隣の席に腰かけた。いつものように爽やかな笑みを浮かべている。

「昨日まではまだサナギだったんですけど、今日は羽化していたので数を数えました」

 すると御子柴は少し申し訳なさそうな表情をした。

「何日も何日も昼休みに手間を取らせて悪いな。生き物を使う実験だとどうしても日数がかかるんだ。ショウジョウバエは産卵から成虫になるまでのサイクルが短い方なんだが、それでも限度がある」

 実際、最初に交配させた親が産卵をし、子が羽化してくるまで十日以上かかっている。

 実験にはこの産卵から羽化するまでの観察も含まれているが、観察だけなら授業と授業の合間にちらっと覗く程度でよかったのでまだ序の口だ。本番は羽化したあとである。

 羽化すると数を数える作業があるのでどうしても時間が取られる。さらに全部が一斉に羽化するわけではなく個体によりタイムラグがあり、カウント作業はその分日数をまたぐことになる。

 そのためこの実験は期間が一か月近く設けられていて、毎日のように生物室に通わなくてはならない。

 おまけに今現在、事件の影響で放課後はすぐ学校から追い出されてしまうため、データを取る時間が昼休みに限られてくるのだ。この先も何度かランチを早めに切り上げることになるだろう。

「厄介な実験をやらせて悪いな」

 眉根を下げて顔でもう一度詫びる御子柴に、理緒は微笑む。

「いえ。大丈夫です」

「ところで、今日は森澤一人で実験を進めているのか? 班の他のメンバーはどうした?」

 御子柴は生物室の中を何度か見回し、理緒一人であることを確認してから聞いてきた。

「え、えっと……」

 理緒は言葉を濁した。

 この実験は班ごとに行うことになっている。自由に班を組んでいいとの事だったので、理緒は真紀や明日香、その他二名の女子と一緒に実験を進めることにした。だが、今ここに居るのは理緒一人だけである。

 他のメンバーはこぞって実験に及び腰だった。用いるのがハエ、というのがその原因だ。

 明日香はまず虫自体ダメ、と涙目で拒否した。真紀や他のメンバーは産卵後に孵化した幼虫、つまり蛆虫を見て悲鳴を上げて逃げた。

 実験が始まって以降、彼女たちはろくに飼育ビンを見にきたことがない。まともにハエと向き合っているのは、班の中で理緒だけだ。他のメンバーは、理緒が一人で集めたデータをあとで書き写すことになっている。

 真紀や明日香たちが嫌がる気持ちは理緒にも分かる。実験のために用意されたものとはいえ、ハエにいいイメージはない。それに蛆虫が蠢いている様子はやはり少しショッキングだ。

 従って、理緒は一人で実験を進めることにさほど異議はなかった。だが、それでは班ごとに進めろという御子柴の意向を無視していることになる。そして一人でやっていることが露見すれば、他のメンバーが怠けていると思われてしまう。

「森澤の他は、サボりか」

 案の定、御子柴はそう言った。

 理緒はあたふたと首を横に振る。

「あ、あの……」

 なんと答えていいやら狼狽えていると、御子柴は苦笑しながら溜息を吐いた。

「まあ、この実験に生徒が寄り付かないのはある程度予測してたんだ。毎年不評だからな」

 御子柴の表情に怒りの色はなく、理緒は少しほっとする。

「そうなんですか?」

「ああ。遺伝について学ぶにはいい実験なんだけどな。やめてくれっていう意見が多い。長期間、しかも毎日観察するのが面倒と言われたり、中にはハエを見ただけで泣き出す……なんて生徒もいる。特に女子の多くは虫が嫌いだろう? 厄介がられてるだろうな」

 頭の中に明日香の顔が浮かんだ。

 明日香の虫嫌いは相当で、教科書に出てくる写真すら拒むほどだ。そういう生徒が毎年何人かいたのだろう。

「今回みたいにメンデルの法則を確かめる実験だったら、ハエじゃなくて植物、たとえばエンドウマメなんかを使ってやる方法もあるんだ。だが俺は植物より生きて動いているものを使った方が、遺伝子のことをぐっと身近にとらえられる気がする」

 御子柴の言うことは納得できた。

 先ほどハエに麻酔を掛けてその動きを止めたとき、生き物を扱っているという実感がものすごく沸いたのだ。植物も生きていることに変わりはないが、ここまでの感情を抱けるかどうかは分からない。

 理緒は御子柴に向かって頷いた。

「私も先生と同じ意見です」

「そう言ってもらえるとありがたい。森澤は虫が平気なのか?」

「得意ではないですけど……苦手というほどでもありません」

 理緒は手元にある飼育ビンを顔に近づけた。いつの間にか数匹のハエが麻酔から復活して、ビンの中を飛び回っている。

 こんなに近くで虫を見る機会は今までになかった。理緒の住む地域は都心に比べて畑や藪が多い方だが、道路の多くは舗装されている。わざと林に分け入るならともかく、平素では蚊に刺されることも少ない。

 よく見ると、小さなハエはとても複雑な形をしていた。頭や胸や腹、六本ある脚など、どれも人間のそれとは全く違う。

 ぱっと見て目立つのは、頭の大部分を占める眼だろう。ハエの眼は小さな粒の集合だ。一つ一つの粒が独立した眼であり、それが集まって複眼を形成している。人間の目とは似ても似つかない。

「昆虫は面白い姿をしているだろう」

 御子柴は理緒に寄り添うように身体を近づけ、一緒にビンの中を覗きこみながら言った。

「はい。特に目が、とても不思議な形をしていると思います。人間とは全然違う」

「そのハエと人間には、共通の遺伝子が多く存在するんだ」

「え?」

 理緒はびっくりして、ビンの中のハエと御子柴の顔を見比べた。同じ生き物なので、虫と人間に共通点があるというのは何となく分かるが、多くが同じと言われると驚いてしまう。

 御子柴は目をパチパチさせている理緒を微笑んで見つめた。

「まあ何を持って『同じ』と言うかにもよるけどな。機能的に半分くらいが共通していると言われている。大昔に遡ると、昆虫とヒトが同じ一つの生物だった証だ」

「全然違う姿をしているのに、不思議です」

「その違いは残りの遺伝子にある。その差が重要なんだ。そもそも、ヒトとハエはゲノムの量が違う」

「ゲノムの量、ですか……」

 御子柴は頷いた。

 ゲノム――Genome。

 理緒は、この間御子柴の机で見かけた本のタイトルを思い出した。御子柴が昔、専門に研究していた分野だ。

「よし。まだ昼休みは残ってるな。少し特別授業をしてもいいか?」

「特別授業?」

 理緒が瞬きをしながら聞き返すと、御子柴は少し照れくさそうに笑った。

「平たく言うと、俺の雑談に付き合ってほしいんだ。優秀な生徒に話を聞いてもらいたくなった。……いいか?」

 御子柴は理緒の顔を覗きこみ、軽く首を傾げた。

「はい。私でよかったら、ぜひ。……期待してもらえるほど、優秀じゃないですけど」

「いや、森澤は優秀だよ。実験も課題も、真面目に取り組んでくれるしな。――よし、じゃあ、聞いてもらおうかな」

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