第五章 遺伝子1




 繁華街の死角で女子高生が殺されてから十二日、県立T高校の裏手にある神社で猫の死体が見つかってから十日が過ぎた。

 その間に理緒たちの住む地域内で、切り刻まれた小動物の死体が見つかるという事件が三件相次いで発生した。警察は自治体と協力してパトロールを強化し、付近一帯の学校では放課後の活動を一部自粛するなどの警戒態勢を敷いている。

 一連の事件は先だって発生した女子高生惨殺事件とともに全国のニュースで報道され、何らかの関係があるのではないか、同一犯の仕業ではないかといった予想が巷で飛び交っている。

 また、警察にはいくつかの情報が寄せられた。

 最も有力な情報は『奇妙な女と黒いフードの男を見た』というものだ。

 T高校裏手の神社で起こった猫の死体遺棄事件の際、会社員の男性が怪しい風体の男女を目撃していた。

 会社員は彼らが猫を切り刻んでいる場面に遭遇し、すぐさま警察に駆け込んだ。だがかなり動揺していたらしく、所々曖昧な証言があり、犯人を特定できるような情報には結びついていない。

 唐崎夕子惨殺事件に関しても進展はなかった。現場となった公園には防犯カメラがなく、目撃者もいないことがネックになっているようだ。

 事件から数日後、遺体に不審な噛み傷があったという情報が公開された。警察は噛み傷についた唾液からDNA鑑定を行ったが、曖昧なデータしか得られず、しっかりした鑑定はできていないという。切り取られて持ち去られた唐崎夕子の下半身も未だに見つかっていない。

 そんな中、理緒たちの通う県立T高校やその周辺は、今のところ落ち着きを保っていた。

 警察や報道関係者がうろうろしているので何となくバタバタした雰囲気はあるものの、大袈裟に騒いだり怖がったりする者はいない。

 唐崎夕子が殺された公園がT高の学区から外れていることと、猫の死体があった神社に警察による厳重な警備体制が敷かれていて安心できることが、混乱を退ける要因になっているようである。

 その日の昼休み、ランチを済ませたあと、理緒は生物室に向かっていた。

 今現在、理緒のクラスでは、生物教師・御子柴の指導のもと、遺伝について学ぶための長期間に渡る実験を行っている。理緒は昼休みを利用して、その実験のデータを記録するつもりだった。

 生物室の前まで辿り着き、引き戸を静かに開けると、先に来ていた誰かの姿が目に飛び込んでくる。

「黒崎くん」

 生物室にいたのは秋人だった。

 他には誰もいないようだ。秋人は生物室の前方にある戸棚の前に立っており、そこから理緒を振り返る。

「黒崎くんも、データを取りにきたの?」

 理緒も棚の方に歩み寄りながらそう聞くと、秋人は頷いた。

「僕は、もう済ませた」

 秋人と対峙するのが随分久しぶりのように感じる。

 神社の猫の事件以降、警察から指導があり、学校は生徒の放課後の活動を全面的に制限していた。犠牲になったのは主に部活動をしている生徒だが、図書委員にも影響が及んだ。放課後は図書室を閉めることになったため、理緒たち図書委員は自然とお役御免になったのだ。

 それは理緒と秋人が二人で話す機会を奪う結果になった。他の生徒たちに囲まれていると、二人とも何となく言葉を交わさないままになってしまう。口をきいたのは、星を見たあの夜以来だ。

「もう終わったなんて、作業が素早いね、黒崎くん」

 理緒はそう言いながら戸棚をそっと開けた。中から細長い筒状のガラスビンを出して再び扉を閉める。

 手に取った細長いビンの中では体長五ミリもない虫たちがぶんぶん飛びまわっていた。実験に使っているショウジョウバエだ。小さな虫たちが、一本のビンの中に二十匹ほど閉じ込められている状態である。

 一口にハエといっても、その見た目は判を押したように一定というわけではない。

 人間の目や肌や髪の色が親から受け継ぐ遺伝子によって違ってくるように、ハエも持っている遺伝子によって微妙に形質が異なる。顕著な違いが現れるのが、目や体の色、および羽の形などだ。

 ショウジョウバエには赤い眼をした個体と白い眼をした個体がいるが、赤眼同志を交配させた場合と、赤眼と白眼を交配させた場合とでは、生まれる子の目の色の比率が異なってくる。

 赤眼と白眼が一定の割合で生まれてくる場合もあれば、親の組み合わせによっては赤眼しか生まれない場合もある。

 この実験では班ごとに違う組み合わせのハエを交配させ、生まれてくる子を形質で選り分けて数を数える。そのデータを比べて、親の組み合わせにより子の形質比が異なるのを体感することで、遺伝分野の理解を深めようという実験だ。

 数名ずつの班に分かれ、実験を始めてから今日で二週間。

 親世代の交配・産卵は既に済んでおり、どの班でもそろそろ子世代が羽化する時期である。各班に飼育ビンと呼ばれるガラス容器が配られ、ハエはその中で飼育していた。ビンは生物室の戸棚にまとめてしまわれており、理緒が手に取ったのは自分の班の分だ。

 ガラス越しに観察してみると、昨日はまだ羽化前だった子世代のハエが、一部成虫になって羽をばたつかせていた。

 今からこのハエを選り分けて数を数え、データとして記録する。

 ビンの中にはまだ羽化してないハエも見受けられた。一つのビンの中で子世代は百匹以上生まれてくることになっていて、この実験のメインはハエの数を数える作業であるといってもいい。

「森澤さん、これ……」

 ビンを持って席に着くと、秋人が横からスッと何かを差し出した。

 データを取るときに使う道具がまとめて入っているケースだ。普段は生物室のサイドにある棚に置かれているが、理緒のために持ってきてくれたようである。

「ありがとう、黒崎くん」

 理緒はそれを受け取ると、早速作業に取りかかった。

 ビンの中に納まっているとはいえ、そのままではハエが飛び回ってしまい数を数えることはできない。作業はまず麻酔を使ってハエの動きを止めるところから始まる。

 麻酔に用いるのはジチルエーテルという薬品だ。

 この薬品を気化させて飼育ビンの中に注入するとハエはパタリと眠ってしまう。秋人が差し出してくれたケースの中に麻酔のための道具が一式入っていたので、理緒はそれらを使い、ハエが逃げないように注意しながらビンの中に麻酔を散布した。

「……数を数えるんだったら、手伝おうか」

 麻酔が効くのを待っていると、秋人が控えめにそう提案してきた。

「ううん。大丈夫。そんなに多くないみたいだから」

 秋人は軽く頷いた。そして理緒の傍を離れ、ノートや筆記用具を抱えて生物室を出て行く。

 手伝ってって言えばよかったかな……。秋人の姿が完全に見えなくなってしまってから理緒はそう思った。引き留めれば、秋人ともう少し話すことができたかもしれないのに……。

 この前、星を見たあと。

 理緒は結局、秋人に家まで送り届けてもらった。自宅のドアの前に辿り着き、お礼を言おうと振り返ったとき、秋人は既に踵を返してかなり遠くに行ってしまっていた。

 あれ以来二人で話す時間がなかったので、未だにきちんとお礼を言えていない。今がそのチャンスだったのに、みすみす逃してしまったことになる。

 お礼だけでもすればよかった。うっかりしてたなぁ……軽く溜息を吐いてから、理緒は完全に眠ったハエたちを白いタイルの上に取り出した。体長数ミリの小さな身体が胡麻粒のようにぱっと散らばる。

 麻酔は完全に効いており、二十匹程度のハエはどれも全く動いていなかった。

 理緒は眠ったハエをまず眼の色などの違いで選り分け、そのあとさらに雌雄で分ける。雌雄の判別はやや難しいが、実験を始める前に御子柴がポイントを解説してくれていたので、それを思い出しながら行った。

 選別のあとはそれぞれの数を記録して、眠ったハエを新しいビンに移せば今日の作業は終了である。

 つつがなくすべてを終えたあと、理緒は麻酔に使った道具などを棚に戻した。そのあと改めてハエが閉じ込められているビンを手に取る。ハエたちはまだ眠ったままだ。麻酔の効果は、半時間ほど続くらしい。

 ビンの中の彼らは、自分の身に何か起きているのか分かるのだろうか。

 このハエたちは生まれた時からずっとこの小さなガラスビンの中で生きている。実験のためとはいえ、羽があるのに外に飛んでいけないなんてちょっと気の毒かもしれない。

 そんなことを思いながら、理緒はビンをかざすように持ち上げて、死んだように動かないハエの姿を眺めていた。

 すると、背後で生物室の戸がガラリと開いた。

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